災害と心的外傷について ~いつまでも悲しくて当たり前

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【コラム】 災害と心的外傷について

突然の不幸によって受けた心の傷は人によって様々です。

周囲に支えられ、たくましく立ち直る人がある一方、どうやってもどん底から抜け出せない人もあります。

目に見える被害が大きいから大変、小さいから大したことない、というのは間違いで、感じ方も、回復のプロセスも、人によって全く異なります。

大切なのは、励ましや慰めではなく、『理解すること』。

理解を欠いて、『頑張れ』と力付けたり、一方的に慰めても、本人には重荷に感じられるだけ。

「自分だけが辛いんじゃない」「一日も早く立ち直らねば」というプレッシャーがますます気持ちをこじらせ、いつか心を折ってしまいます。

怒りも悲しみも悪いものと捉えられがちですが、それもまた生きる為に必要な心の働きです。

怒りも良い方に向かえば行動の原動力になるし、悲しみを知るからこそ新たな知恵や優しさにも恵まれます。

大切なのは、ネガティブな感情も自分の心の一部と捉え、共に生きていく気持ちです。

否定しても、無視しても、真の心の力にはなりません。

ここでは水害の悪夢に悩まされ、夢の中で何度も死んだ父親と再会するエピソードが描かれています。

お母さんに心配をかけさせまいとする無理な頑張りから気持ちをこじらせ、かえって立ち直る機会をなくしてしまうのです。

この心の傷は、大人になってからも彼を悩ませ、どうしても熟睡することができません。

朝になったら大好きなお父さんと再会できるはずだったのに、その願いも破られ、約束の朝は永久に訪れることはありません。

本作のタイトル『曙光』は、心の光の意味ですが、お父さんが帰ってくる約束の朝でもあります。

闇の底からどうやって光を見出し、立ち直ればいいのか。

それが後半のストーリーに繋がっています。

【小説】 父の死と心的外傷

土木技師である父の必死の働きにもかかわらず、故郷の干拓地を守っていた締切堤防は決壊し、父も高波に呑まれて命を落とす。
残されたヴァルターと母のアンヌ=マリーは、アンヌの故郷に近いフォンヴィエイユという港町に移り住むが、ヴァルターは心的外傷で、アンヌ=マリーは心労で、暮らしも立ち行かなくなり、とうとう倒れてしまう。
そんな母子の前に現れたのが、母の元婚約者で、裕福な事業家でもあるジャン・ラクロワだ。
援助は要らないと突っぱねるアンヌ=マリーに対し、ラクロワ氏は貧困層の現実を説き、ストレスで顔半分が歪んでしまった息子の治療を促す。
母子は不安な気持ちでメンタル・クリニックを訪れる

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【リファレンス】 いつまでも悲しくて当たり前

災害といえば、すぐに「復興」「再建」という話になりますが、陥没した道路は重機ですぐに直せても、人間の心はそう簡単には癒やせません。

愛する人をなくした悲しみは十年でも二十年でも続くし、ましてその死が自然でなければ、いつまでも納得いかないのが当たり前です。
家や道路の修理ではないのですから、自分に鞭打つような心の再建は必要ありません。

悲しいければ悲しいまま、悔しければ悔しいまま、それが自然と受け止めて、無理なく生きていくのが最善と感じます。

何の経験もない人は、「もう五年経ったのに」とか「いつまで引きずるのか」みたいな事を平気で言いますが、家を建て直したぐらいで心が元に戻るなら、この世に医者も神父も必要ないでしょう。

悲しむ自分を否定しないで下さい。

いつまでも悲しく、苦しくて、当たり前なのです。

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