いまだ光を放たざる、いとあまたの曙光あり ~人間の可能性は海に眠る鉱物の如く

いまだ光を放たざる、いとあまたの曙光あり ~海の底に眠る人間の可能性

目次 🏃

【小説】 いまだ光を放たざる、いとあまたの曙光あり

第一章 運命と意思 ~フォルトゥナ号(5)

アルはヴァルター・フォーゲルの身上調査書に今一度目を通すと、窓の方を向いた。

「本当に使えるのでしょうか」

セスが不安そうに訊ねると、アルは窓の外を向いたまま、「会ってから決める」と答えた。

宇宙に幾多の星が瞬くように、海の底にも数え切れないほどの光の萌芽が眠っている。

いまだ光を放たざる、いとあまたの曙光あり *7》

インドの古典『リグ・ヴェーダ』の一節を胸に浮かべながら、アルはシートに深く身を沈め、未だ見ぬ光の萌芽を思った。

陽は落ちても、また立ち上り、永遠に海を廻る。

アルが本当に掘り出したいのは海底に眠る鉱物資源ではなく、あまたの光の萌芽かもしれない。

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前のエピソード

ニーチェの『曙光』について

訳者の解説より ~『曙光』執筆の経緯

ニーチェ全集〈7〉曙光 (ちくま学芸文庫)『曙光』(芽野良男・訳)の解説より転載。

1882年7月1日、ニーチェは『悦ばしき知識』の草稿を完成した。

次は二日あとの手紙の一節である。(ルー・フォン・ザロメ宛て)

「そしてそれと共に六年間に仕事、私の《自由精神》全体が仕上がりました! おお、なんという歳月だったことでしょう! 何というあらゆる種類の苦しみ、何という孤独であり人生に嫌気がさしたことだったか! このすべてに対し、いわば死と生に対して、私は、この私の薬を調合したのです。ごく小さな一筋以外には雲一つない空を自分の上に頂いたこの私の思想を作り出したのです」

《中略》

「旧友よ。内密の話ですが、もし私が最大の規模で生きないとすれば、生きるということは私にとってはあまりにも困難であります! 言い表すことのできないほど重要だと私が思っているひとつの目標がなかったら、暗黒の流れを越えて光の中に高く身を保つことはできなかったでありましょう! これこそ、 私が1876年依頼、書いているような、こういう種類の著作に対する、本来私のただひとつの弁明であります。それは人生に厭気がさすことに対する私の処方であり、自分で調合した薬であります。何という年月でしょう! 何という長たらしい苦痛でしょう! 何という内面的な故障、報復、孤独!」

その六年間は、病気と共に始まった。

ヴァーグナーのバイロイトの音楽祭に幻滅し(1876年7月)、やがてヴァーグナーとの「星の友情」を絶つに至った。1878年であった。心の傷は大きかった。

一方、身体の調子はますます悪化した。

バーゼル大学を辞任した。

ドイツ、スイス、イタリアを転々としながら、病気の最中で、病気に耐えながら、ニーチェはひたすら自分の思想を見つめようとした。

『人間的、あまりに人間的』『様々な意見と箴言』『漂泊者とその影』、それkら『曙光』、さらに『悦ばしき知識』がこの期間のニーチェの作品である。

われわれはニーチェがひとまとめにして『自由精神』と呼ぶこの時代の彼の思想の中に、一条の裂け目が実はありはしないか、と考えることができよう。

裂け目ちおうのが言い過ぎであるとしても、少なくとも『曙光』以後のニーチェの思索に何か変わった調子や感じ方の相違がありはせぬか。

そう問うことは全く当然のことである。

ニーチェ全集『曙光』 芽野良男の巻末解説より

はっきり言って、人生に迷った時にニーチェを読んでも、決して明るい気持ちにはならないです。

著者の迷いに無理矢理、付き合わされているような感じで、めちゃくちゃ、しんどいです。

では、現代において、ニーチェを読む価値はあるのか? と問われたら、私はこう答えます。

「人間、もがいて、もがいて、もがいた先にあるのは、実にシンプルな答えだ。『すべて、良し!』。ニーチェの辿った道は、私たちが辿る道でもある」と。

わたしは死に向かって言おう 『よし!それならもう一度』にも書いていますが、苦悩の後に辿り着く境地は、ニーチェも、ラオウも、お釈迦様も、みな同じ。この一言に尽きるんですね。

ある意味、ニーチェに何かを学ぼうと期待するより、「ああ、この人も、こんなに苦しんだんだ」と理解する方が、きっと親しみを覚えると思います。

10代、20代の、何も知らない時代に読めば、感想も異なるのかもしれませんが。

ニーチェの思想が正しいか否か、というよりは、「いつ出会うか」の問題かもしれませんね。

『曙光』の名言集

本作のモチーフとなっている、『いまだ光を放たざる、いとあまたの曙光あり』は、原典の冒頭にも記されています。

ちくま学芸文庫(信太正三・訳)では、『まだ輝いたことのない許多(あまた)の曙光がある』(リグ・ヴェーダ)と訳されています。

ニーチェの『曙光』より

脳の中の血 ~われわれの人生がみじめな訳

あわれな人類 ! 

脳の中の血が一滴多すぎたり、少なすぎたりすると、われわれの人生は、いいようのないほど惨めになり、つらくなることがありうる。
そこで、プロメテウスがそのハゲタカに苦しんだより以上に、われわれはこの一滴に苦しまなければならない。
しかし、あの一滴が原因であることをわrわれが知りさえもしないときこそ、一番恐ろしいことになる。
知りさえもしないで「悪魔」! とか 「罪」! とかいうときである。

-83-

脳の中の血が他より一滴多い人は少なくないと思う。

さて、「脳の中の血」とは何か。

迷い、不安、怒り、不条理感、虚無感、等々。

心を重くする、ネガティブな感情に喩えれば分かりやすい。

だが、こうした感情は、正しく生きればこそ発生するもの。

過ちもせず、悔やみもしない人間に、人生の苦悩は訪れない。

しかしながら、こうした負の感情を、世間の常識、あるいは教義といった尺度から、「怒ったり、妬んだりする私は悪い人間」とか、「ネガティブ思考は間違いだ」といった風に、自分自身で断罪してしまえば、そこで思考も止まってしまう。

肝心なのは、こうした心の闇から、どのように一筋の光を見出すかだ。

ニーチェ風に言えば、安易に結論を下すのではなく、考えて、考えて、一所懸命に考え抜いて、自分なりに闇を抜け出るのが人間的な道筋である。

個人的な真理問題 ~人生は走り去って終る

最も個人的な真理問題――。

「私がしていることは、そもそも何であるのか? ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」
これはわれわれの現在の教義の在り方では、教えられず、したがって問われない真理問題である。
そのための暇がないのである。
これに反して、子供には冗談を言って、真理は言わない。
やがて母となるべき女性には、お世辞を述べて、真理はしゃべらない。
青年には、その将来と楽しさを談じて、真理は語らない。
――そうする暇と気は、いくらでもあるのに!

しかしたとえ七十年が何であろう!
走り去ってすぐ終わる。
どういう具合に、どこへ流れるのかを、波が知っていても、問題ではない!
いや、知らない方が賢明かもしれない。

――「その通りだ。しかし一度もそれを問題にしないとは、誇りがない。われわれの教養は、人間に誇りを与えない」 ―― なおさらよい! 

「本当か?」

- 196 -

多くの場合、周りの大人は物事を笑いや常識で誤魔化して、子供や若者に自己探求の機会と時間を与えない、という話です。
たとえば、子供が「僕は何のために生まれてきたの?」と問いかける。
すると大人は「そんなことは、生きていれば分かる」とか「そんなことを考える暇があったら、勉強しなさい」とか「中二病」などと言って、嘲笑う。
そうして考える機会を奪われると、人間もだんだん鈍磨して、何も考えぬまま、年だけ取ってしまう……という話。

もちろん、自己探求が、必ずしも人を正しい方向に導くとは限らない。
自己探求のしすぎで、おかしくなる人もある。

それでも、人生に一度でも――なるべく若いうちに――「私がしていることは、そもそも何であるのか? ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」ということを、自己に深く問いかける時間は必要だろう。

それは「社会に役立つ人になれ」とか「思いやりをもて」といった、世にありふれた道徳ではなく、個々の内側で花開く、創造性である。

世界の破壊者 ~世界滅亡とルサンチマン

世界の破壊者――。

この人はあることがうまくゆかない。とうとう彼は怒って叫ぶ。
「世界がみんな滅びてしまうといいんだが!」
この嫌悪すべき感情は次のように推論する嫉妬心の絶頂である。
わたしはあるものを所有し得ない。
だから全世界には何も持たせたくない!
全世界を無にしたい!

- 304 -

これは分かりやすいですね。
自分の欲しいものが手に入らないなら、他の人も持って欲しくない。
いっそ世界を無にしてしまいたい。
いわゆるルサンチマン――呪いの感情です。

党派の中の勇気 ~人は先導になりたがらない

党派の中の勇気――。

あわれな羊たちはその隊長に言う。
「とにかく先に立って行ってくれ。そうすればわれわれは君について行く勇気を決して無くさないであろう」

あわれな隊長はしかし心の中で考える。
「とにかく私の後をついて来てくれ。そうすれば私は諸君を導く勇気を決して無くさないであろう」

これも分かりやすいですね。
人間というのは、とかく、先導にはなりたがらないものです。

諦めとは何か ~病人の最も気楽な状態

諦め――。

諦めとは何か?
それは病人の最も気楽な状態のことである。
彼はそれを見つけようとして長いこと苦悩して輾転反側し(てんてんはんそく)
そのために疲れた――
そして、それをはじめて本当に見つけたのである!

- 518 -

これも味わい深い言葉。

諦めは、しばし「投げやり」と勘違いされるが、
投げやりは途中で放棄するのに対し、
諦めはとことん突き詰めた先に、はっと閃く。
諦めは「明らめ」に通じるところがあり、そこには静かな満足がある。
諦めは必ずしも敗北ではないし、また新たな道へと続くものである。

脱皮できない蛇は破滅する ~精神的脱皮

脱皮する――。

脱皮することの出来ない蛇は破滅する。
その意見を変えることが妨げられた精神の持主たちも同様である。
彼らは精神であることをやめる。

現代は若い人も不動のポジションや自己ブランドを作りたがりますが、人も成長に合わせて、どんどん脱皮するものだし、あまり早いうちから「私はシマヘビ」というキャラを確立してしまうと、それ以外のものになれなくなります。
最終的にどんなヘビになるかは、本人にも分かりません。
でもそれが年を重ねる楽しさです。
あまり早くからシマヘビ・ブランドで売り出すと、いずれのっぴきならない状態になって、逆に成長を阻害するものです。

書籍の紹介

〈私の父は三十六歳で死んだ。彼の生命が下り坂となったのとおなじ年に、私の生命もまた下り坂となった。私はまだ生きてはいたが、三歩前も見えなかった〉。激しい発作と苦痛に襲われた1879年、ニーチェはバーゼル大学の教授職を捨てて、生涯最も日の差さぬ暗欝な冬を影として過ごした。翌年、憂愁と沈痛に満ちた思索の森の深奥にも一条の曙光が射しこみ、ニーチェは再び自己の思想の視野を回復しはじめる。『曙光』は厭世的・批判的分析が大半を占めるが、午前の新しい光が注がれた最終章「第五書」の穏やかな肯定への意志に彩られた全体の調子は、やがて来たるべき正午の思索への予感と予兆を指し示している。(解説 芽野良男)

ニーチェ全集〈7〉曙光 (ちくま学芸文庫)
ニーチェ全集〈7〉曙光 (ちくま学芸文庫)

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小説のテキスト版

愛娘リズの反抗

今、フォルトゥナ号は一時間ほどのフライトを終えて、学研都市エンデュミオンの上空に差し掛かろうとしている。

アルは再びシートに深く身を沈めると、エンデュミオンの町並みを見渡した。夕陽はほとんど地平線の彼方に沈み、いつもの夜が訪れようとしている。家の窓には無数の明かりが灯り、その一つ一つに人の暮らしがあり、願いがある。

こうして空の上から平たく見れば、誰の人生も貴いものだ。懸命に努力する者に上等も下等もない。

だが、その中から一人を選ぶとすれば、心の強い者がいい。深海の鉱物みたいに寡黙でも、一事を成し遂げるだけの気概と情熱の持ち主だ。

「そう言えば、先ほどエリク・ブレア氏からお電話がありました」

不意にセスが口を開いた。

「明日のディナーはお嬢さんもご一緒なさるそうです」

娘の話になると、にわかにアルの顔もほころぶ。

アルが深い情愛を込めて「リズ」と呼ぶ娘のエリザベス・ベアトリクスは、この春、二十四歳の誕生日を迎えた心の優しい娘だ。春の女神のような美貌に生まれながらの気品を備え、立ち姿は白百合のように清らかだ。出産時に母を亡くし、保母や家政婦にちやほやされたこともあって、少々甘えん坊なところもあるが、教育の甲斐あって、どんな時も『アル・マクダエルの娘』にふさわしい振る舞いを心掛けている。

十代の初めには少し難しい時期もあったが、二十代になると女性らしい気遣いや慎ましさを身に付け、今では良家から縁談の申し込みが引けを取らない。父親としては一日も早く良い人にもらわれ、可愛い孫の顔でも見たいところだが、今時の娘が親の求めるままに嫁ぐはずもなく、勿体ないほどの良縁にもぷいと口を尖らせ、

「私は世の中のことも十分に知らないし、仕事だってさせてもらえない。なのに籠の鳥みたいに匿って、今度は見ず知らずの誰かに嫁がせようとするのね。私は意思のない人形じゃない。苦労も知らず、恋も知らず、誰かのものになるなんて、絶対にイヤ」

そうかと思えば、海賊のキャプテン・ドレイクに憧れて、いまだに歴史活劇『エリザベス』に夢中になっている。

『エリザベス』はトリヴィアの公共放送が十年前に制作したティーン向けの連続TVドラマで、イングランド女王エリザベス一世をモチーフにした史劇だ。ドラマでは、女王エリザベスとキャプテン・ドレイクが身分違いの恋に落ち、共に海で戦って強敵スペインに打ち勝つ。史実も時代考証も完全無視のファンタジーにもかかわらず、少女らの心を鷲掴みにし、キャラクターグッズも飛ぶように売れた。アルも娘にせがまれ、二度も映画館に付き合わされた。

娘曰く、エリザベス姫の危機には、キャプテン・ドレイクが炎の帆船を率いて助けに来てくれるそうだ。――ああ、阿呆らしい。

おまけに十月十五日に予定されている接続ミッションに自分も立ち会うなどと言い出し、八月初め、ついに口論になった。「絶対にダメ」と言い張るアルに娘は激しく口答えし、とうとう家を出てしまった。

アルはこれまで娘にアステリアに行くことを決して許したことはない。危険危険と言い続け、娘が幼い頃は「海というのは、有害な宇宙線に汚染された恐ろしい所だ。水深三〇〇〇メートルの海底からタコのお化けが出てくるかもしれない。お化けにさらわれても、パパは海の底まで助けに行かれないよ」と嘘をつき、嘘がばれてからは「海にはたちの悪い海賊が出没する。海賊船に連れ去られて助かった者はない」と脅し続けた。

実際、アステリアも人口増加に伴い、暴行や窃盗、性犯罪などが増えつつある。それでなくても、採鉱計画を中止せよとさんざん脅迫され、自身も身の危険にさらされてきた。たとえ見学にせよ、娘が来るとなればボディガードの手配は必須だし、周囲だって気を遣う。ただでさえジム・レビンソンをなくして微妙な時期に、余計な事で煩わされたくないのはアルも現場も同じだ。

「採鉱プラットフォームに来るなど、とんでもない。訓練を積んだ作業員でも足を滑らせて大怪我をするほどだ。それに接続ミッションといっても揚鉱管と集鉱機を繋ぐだけで、お前がワクワクするような物など何もない。かえって足手まといになるだけだ」

「パパが心血注いで完成させたプラットフォームのミッションに立ち会うことが、どうしてそれほど責められなければならないの。私だって役に立ちたい。世界の鉱業を変えるかもしれない歴史的瞬間をこの目で見届けたい。危険というなら、プラットフォームではなく、クルーザーから見学するわ。護衛も付けて、必ず言われた通りにする。決して一人で出歩いたりしないから、どうか私の願いを叶えて」

「それなら録画ビデオで十分だろう。社長の娘がうろうろすれば、それだけで皆のプレッシャーになる。それでなくても大変な緊張に包まれているのに、お前が顔を見せても迷惑なだけだ」

「パパは私から生きる力も経験する機会も、何もかも奪い取るのね。部下には明達を求めるくせに、娘の私には無知であることを強要するんだわ。パパは世の中のことなど何も知らない方が幸せだと思ってるのでしょうけど、私はちっとも幸せじゃない――幸せなんかじゃないわ!」

「何をしてるんだ」

「ここを出て行くの」

「まともに働いたこともないのに、お前に何ができる」

「私を鍵付きの箱入り娘にしたのは、パパじゃない!」

そして、本当にその日のうちに荷物をまとめて出て行ってしまったのである。

娘の行き先は、エンデュミオンに住むエリク・ブレアの邸宅だ。母アンナの実兄で、MIG金属材料研究所の主席研究員でもある。アルにとっては義弟に相当するが、お互い社会関係を考慮して、積極的な親戚付き合いはない。エリクも控えめなタイプで、アンナの死を境に、付かず離れずの傾向はいっそう強くなった。娘もそうした間合いを敏感に感じ取り、自分から積極的に「遊びに行く」とは言わない。かといって完全に醒めた間柄でもなく、娘の誕生日や祝い事の折には心のこもったカードと贈り物が届けられ、リズもそれにお返しをする、ほのぼのした関係であった。

しかしながら、こんな形でエリクの家に長居させるわけにもいかず、アルとしては一日も早く娘を連れ戻したい。エリクの話では、毎日一緒に金属材料研究所に出勤し、図書室で勉強したり、講義を受けたり、それなりに頑張っているようだが、用も無いのに『アル・マクダエルの娘』がうろうろしては職員の士気に関わるし、エリクも気疲れしてしまう。
そこでヴァルター・フォーゲルに会いに行くついで、エリクの家に立ち寄り、娘を連れて帰ることにした。先刻からセスが間に入り、いろいろ取りなしてくれている。

「明日のディナーは『水晶宮(クリスタル・パレス)』のレストランに窓際の静かな席をお取りしています。どうぞ、お嬢さんとゆっくりお話し下さい」

水晶宮は三年前、首都エルバラードの空港近くにオープンした総ガラス張りの商業ビルだ。地上二十階の水晶型の建物にホテルやレストラン、高級ブランド店などが入居し、新たな観光スポットになっている。

アルもオープンセレモニーの日に最上階のスイートルームを予約し、スカイレストランで高級海鮮料理のディナーをご馳走して、娘を大いに喜ばせた。
立派なオマール海老にナイフを入れながら、「いつまでも父親と一緒に食事も味気ないだろう」と言うと、

「そんなことないわ。パパのお話は政治でも芸能でも、とても為になって面白いんですもの。それに比べて、学校の男の子ときたらゲームや女の子やスポーツの話ばかり、どうして勉強もせず暢気に遊んでいられるのか、不思議なくらい」
と嬉しそうに話していたのに、今では「パパなんか嫌い」だ。

「まったく、年頃の娘というのはああも扱いにくいものかね。フォルトゥナの娘みたいに気まぐれで、物事を正しく理解しているのかと思えば、まったくの盲目とくる。まだ金属価格の動向を探る方が容易いよ」

「さあ……僕には息子しかいませんから、女の子をもつ気苦労までは……」

セスも薄茶色の瞳を細める。

人間の可能性は海に眠る鉱物の如く

「ところで金属価格と言えば、ファルコン・マイニング社がまたもニムロイド鉱石の生産を抑えにかかりましたね」

「うむ。上半期のニムロイド合金の市場はMIGの独壇場だったからな。ニムロデ鉱山での生産をわざと抑えてキロあたりの単価を引き上げ、当社に圧力をかける。その裏でファルコン・スチール社に安価でニムロイド鉱石を流し、コストダウンの手助けをして売り上げ増加を図る――連中の考えそうなことだよ」

だが、そう答えるアルの顔にもう以前のような険しさはない。三十年間待ち望んだ本採鉱がそこまで迫っているからだ。

「海台クラストの採鉱に成功すれば、世界の構図が変わるだろう」

これはもはや市場競争などではなく、人間の尊厳をかけた闘いでもある。連中の不当な圧力と、人を人とも思わぬ傲慢さ、相手が従わぬと見れば最愛の者にも平然と手をかけるやり口をアルは一日たりと忘れたことはない。

そしてまた、採鉱システムの開発に粉骨砕身してくれたスタッフに報いる為にも、この事業が決して私利や私怨ではないことを証明したい。

アルはヴァルター・フォーゲルの身上調査書に今一度目を通すと、窓の方を向いた。

「本当に使えるのでしょうか」

セスが不安そうに訊ねると、アルは窓の外を向いたまま、「会ってから決める」と答えた。

宇宙に幾多の星が瞬くように、海の底にも数え切れないほどの光の萌芽が眠っている。

いまだ光を放たざる、いとあまたの曙光あり *7》

インドの古典『リグ・ヴェーダ』の一節を胸に浮かべながら、アルはシートに深く身を沈め、未だ見ぬ光の萌芽を思った。

陽は落ちても、また立ち上り、永遠に海を廻る。

アルが本当に掘り出したいのは海底に眠る鉱物資源ではなく、あまたの光の萌芽かもしれない。

*7)  いまだ光を放たざる、いとあまたの曙光あり フリードリヒ・ニーチェの著書『曙光』の冒頭に記された言葉としても有名。
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