屋上の語らい ~自分では強くなった
その夜、食堂のカウンターバーにはいつもより上等な料理が並んだ。海老のクリームスープ、ハムとチキンのテリーヌ、冷たいローストビーフ、アスパラガスのサラダ、牛肉の赤ワイン煮、ブルーベリーのチーズケーキ、等々。
だが、午後七時を過ぎてもヴァルターは食堂に現れず、誰も居所を知らないという。リズはミセス・マードックと二、三、思い当たる場所を探したが、電話もずっと自動応答のまま。どこに行ったのか見当もつかない。
いったん娯楽室に引き返し、父やエイドリアンと過ごしたが、何かあったのではないかと気が気でない。
そんな時、隣のブースで若い従業員が「今日の晩飯はクリスマスみたいだったな」と満腹顔で話すのを聞いた時、リズの脳裏に『真夏のクリスマスツリー』という言葉が閃いた。前に彼と海岸で話した時、屋上で気分転換するのが好きだと言っていた。夜のプラットフォームが、まるで真夏のクリスマスツリーみたいだと。
リズはエイドリアンに「屋上を探してみるわ」と耳打ちすると、静かにその場を離れ、直通階段を上がった。
*
一方、ヴァルターは屋上の手摺りにもたれ、ぼんやり甲板を見下ろしている。
今日という今日は、自分という人間がつくづく嫌になった。
心の鎧も打ち砕かれて、頭の中も真っ白だ。
今まで必死にやってきたことは一体何だったのだ?
ただの意固地か、それとも焦燥か。
自分では強くなったつもりが、決してそうではなかった。 これほどまでに自分の脆さを思い知らされて、前と同じ気持ちで操縦桿が握れるわけがない。途中で無様に助けを求めて、大勢の前で恥をかくぐらいなら、いっそ……。
と、その時。
背後で非常口のスチールドアが開く音がし、振り返ると、リズが蜂蜜色の髪をなびかせて立っていた。
彼は戸惑うように目を背けたが、リズは表情を変えずに、「一緒に夕食をいただきましょう。せっかくの料理が冷めてしまうわ」
と優しく促した。
「あなたが私と距離を置きたいというなら、それでも構わない。会いたくないなら、二度と会わないわ。でも、今だけは側に居させて。そして、食事に来て欲しいの」
「ミス・マクダエル。どんなに親切にされても、俺には何も返せないよ」
「同じように返してもらおうなんて思わない。私だってエイドリアンに何一つ返せなかった。でも、エイドリアンの態度は少しも変わらなかった。私も誰かのことをそんな風に愛せたら、どんなに誇らしいだろうと思うの。私にとってのゴールは、あなたに同じだけの愛情を返してもらうことではなく、愛するって気持ちがどんなものか知ることよ。どうか、今夜はお腹いっぱい食べて、ゆっくり身体を休めて。一夜明ければ、流れも変わるわ。今日の陽は落ちても、海の向こうでは昇る朝日になるのでしょう」
風が吹き付け、二人の間を揺らした。
彼は身動きもせず、その場に立ち尽くしていたが、突然、ぽつぽつと雨が降り出し、どのみち屋上には居られなくなった。
二人は雨をしのいで建物に入ると、一緒に階段を降りた。
すでに食堂は人もまばらで、カウンターの料理もほとんど片付いている。
リズは彼のために取っておいたプレートを厨房に頼んで温めさせると、トレイに載せて持ってきた。いつもと異なるメニューをまじまじと眺め、「ずいぶん豪勢だね」と彼も嘆息する。
「サフィールの調理部に協力してもらったの。明後日のパーティーはもっと豪華版よ」
「パーティー?」
「そうよ。夜に娯楽室で二時間ほど祝賀会を開く予定なの。シャンパンも出るし、ビンゴゲームも用意してるわ。皆さんに楽しんでいただければと思って」
「至れり尽くせりだね」
「当然よ。ここに骨を埋める覚悟で長年勤めて下さったのだもの。簡単に十年、二十年というけど、誰にでも出来ることじゃないわ。感謝だけでは足りないくらい」
「でも、その間、君のパパだって従業員を路頭に迷わせなかったんだから、大したものだ」
「そんなことはないわ。ダグにもガーフにも辞める自由はあるんですもの。ずっと付いてきて下さったのは本当に有り難いことよ」
「君は大した跡取りになるよ」
「跡取りなんて器じゃないわ。私なんか、たまたま『アル・マクダエルの娘』に生まれただけ。自力で得たものなど何一つないもの」
「だが、心は君自身のものだろう。教えて身につくものじゃない」
プレートのものを平らげ、ナプキンで口を拭うと、
「君は明日、どこでミッションを見学するんだ?」
と訊ねた。
「五階の管制室よ。ダグやガーフと一緒にモニターで見学するの」
「どうせならタワーデリックのオペレーションルームの方が迫力があるんだけどね。目の前で揚鉱管を連結して、海中に降下する。でも、あそこはさすがに君には無理だ。明日はマードックも非常な集中力を要する」
「よかったら、ムーンプールを見せて下さらない? この前は機械が稼動して、遠目にしか見られなかったから。今なら機械も止まってるし、数分だけでも間近で見たいわ」
「どうして」
「私、どうしても信じられないのよ。水深3000メートル海の深さが。だって、3000メートルって、二百階建ての『トリヴィア・トレードセンター』を二つ並べたより、まだ高いのよ。そんなのがすっぽり隠れるほど深いって、どういうことなの」
「理屈じゃないさ。それだけ厚い水の層が惑星の表面を覆ってるということだ。天道虫から見れば、深さ1メートルのプールも深海だ。人間のスケールでは計り知れないだけで、宇宙から見れば薄皮みたいなものだよ」
彼はちらとダイバーズウォッチを見やり、
「今のうちに見に行こう。一時間もすれば下層階の照明が落ちる。薄暗がりでは、俺もさすがに案内が難しい」
ムーンプールと海のエネルギー
二人はブリッジを出ると、選鉱プラントの階段からレベル・マイナス1に降りた。
どこも薄暗く、船の機関室のように轟々とエンジン音が鳴り響いている。まるで監獄みたいな通路を足早に突っ切り、スチール製のドアを開くと、ムーンプールに行き当たった。一辺10メートルの開口部は黄色い二重の手摺りに囲まれ、激しい水音が巨大洗濯機みたいに辺りに鳴り響いている。
ヴァルターはクレーンの操作ブースに備えられている白いヘルメットをリズの頭にかぶせると、上半身に八の字の襷(たすき)のような安全ベルトを装着した。それから背中の留め具に幅広のゴムバンドを取り付け、もう一方の先端を支柱のフックに固定する。リズは高層ビルの作業員みたいにベルトとバンドでぐるぐる巻きになった自身の姿に、「なんだかプードルみたいね」と恥ずかしがったが、ここでは安全装置は必須だ。プールに落ちれば海面に叩きつけられたショックで気絶し、あっという間に波に呑み込まれて絶命する。彼も手早く安全ベルトとヘルメットを装着すると、リズの背中を抱いて手摺りまで誘導した。
手摺りをしっかり掴み、恐る恐る足下を覗くと、はるか下方に暗い水面が見える。まるで海底から波動が突き上げるように水が右に左に打ち付け、高さ数十メートルの断崖絶壁を覗いているみたいだ。
「すごいわ。海のエネルギーをぎゅっと圧縮したみたい。この水面が水深3000メートルの海底まで続いているのね
「そうだ。砂浜から見れば静かに横たわっているように見えるが、内側には計り知れないエネルギーを秘めている。何千年とかけて惑星の隅々に物質を運び、岩を削り、熱を伝え、そのメカニズムを知れば、波の一つ一つが惑星の呼吸に聞こえる」
「そのエネルギーが海台クラストを作ったのね」
「クラストに限らず、海底の鉱物は、潮流、噴火、風雨、微生物、あらゆる自然現象の結晶だ。海はそれを何百万年、何千万年と懐に抱いて醸成させる。今こうしている間にも新たな鉱物が作られ、星の形状を変えて行く。海はまさに生きているんだよ」
「そんな海の深い所から、どうやって鉱物を引き上げるの?」
「最初に破砕機でクラストだけを剥がし、次に集鉱機で掃除機みたいに掻き集める。集鉱機に繋がった揚鉱管には流水が循環していて、高圧水中ポンプで内側を負圧にすれば、圧力差で吸い上げることができるんだよ。ストローみたいにね」
「でも、全長3000メートル以上でしょう。揚鉱管が途中で折れ曲がったりしないの?」
「揚鉱管の揺れに合わせてプラットフォームも移動するから、よほどの事がない限り、ぽきんと折れることはない。ライザーテンショナーという装置で揚鉱管の振動を吸収したり、管の歪みを検知するセンサーを取り付けたり、様々な対策を施しているから大丈夫だよ。いざとなれば、集鉱機から揚鉱管を切り離して、致命的なダメージからシステム全体を守ることもできる」
「だけど、真っ暗で、投光器で照らしても何も見えないのでしょう」
「そうだね。よく見えても半径十メートルだ。カメラの視界はもっと限られる。陸上なら簡単に接続できる作業も、深海では水圧や暗闇との戦いだよ。電気も電波も届かないからね」
「それでも、やるのね」
「そうだ。皆それを目指して何十年と打ち込んできた」
「そして、あなたも」
彼は手摺りを握りしめた。心はまだ清明とせず、波打ち際を彷徨っている。
リズは彼に向き直ると、「私の運をあげるわ。右手を出して」と促した。
「運を?」
「私、生まれつき強運なのよ。巡り合わせがいい、とでもいうのかしら。こうなって欲しいと願えば、その通りになる。まるで心の絵が世界に映し出されるみたいに。パパは私のことを『フォルトゥナの娘』と呼んでるわ。自分でも時々そんな風に感じることがある。だから、右手を出して。明日のミッションに運命の加護が得られるように」
「運命なんて、俺は信じないよ」
「あなたが信じようと、信じまいと、運命はいつでもあなたと共にある。あなたが少しでも心を開いてくれたら、運命はあなたに手を差し伸べることが出来るのよ。船の帆を孕ませる追い風のように」
「君がそう言うなら、明日は信じるよ。ただし追い風ではなく、深海の作業には光と静けさが何よりも大事だ」
「光と静けさね。分かったわ」
彼が半信半疑で右手を差し出すと、リズは彼の手を両手で包み、「Fortes fortuna adjuvant (フォルトゥナ・フォルテス・アドユウァト) 運命は強い者を助ける」と唱えた。それは優しく血潮にしみ込み、明日の成功を約束するかのようだった。
やがて雨脚が強くなり、風の音がこだますると、二人は急ぎ足でブリッジに戻った。
「明日は雨かな」
「今夜だけよ。太陽が昇る頃には黒雲も過ぎ去るわ。明日は何ものにも邪魔させない」
リズは夜空を見上げ、再び祈りの言葉を唱える。
「それじゃあ、私はパパの所に戻るわ。あなたも今夜はゆっくり休んで」
「ありがとう。少し気分転換になったよ」
そうしてリズがその場を立ち去ろうとすると、
「採ってきてやるよ」
後ろから彼が声をかけた。
「海台クラストだ。水深3000メートルの海底から、君の為に採ってきてやる」
リズは微笑んで返すと、軽やかに階段を上がっていった。
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