海洋小説 MORGENROOD -曙光 海とレアメタルの本格SF小説

【53】くちづけの記憶 ~まともに女性と向き合ったこともなく

くちづけの記憶

シャツの残り香

翌朝、ヴァルターは前回と同じく補給船に乗り込み、80キロメートル離れた採鉱プラットフォームに向かった。

夕べはグラスワイン一杯で酔いが回り、どうやって宿舎まで帰り着いたのか、よく憶えてない。気が付くと、部屋の電気はつけっぱなしで、着の身着のままソファに横になっていた。そして、そのまま朝まで熟睡。こんなにぐっすり眠ったのは何年ぶりか。……というより、なんで俺はワインなんか飲んだのだ?

そのうち太陽が燦々と輝きだし、船室の室温も上昇すると、彼はフード付のパーカーを脱いで、カジュアルチェックのシャツ一枚になった。パーカーを丸めて窓枠に載せ、枕代わりに頭をもたせかける。まだ少し気分がすぐれないが、一眠りすれば楽になるだろう。 

そうして、うつらうつらしかけた時、肩の周囲に甘い香りが残っているのに気が付いた。夕べの出来事がフラッシュバックし、彼は弾けたように身体を起こた。

なんという抜き差しならない事をしてしまったのか。

今頃、あの人に無体をされたと大騒ぎになってないか。

恐る恐る携帯電話も覗いてみるが、今のところ彼女の父親からアクションはない。

あるいは忘れた頃に強烈な一撃を食らうのかもしれないが、夕べの彼女の表情を見る限り、そんな感じでもなさそうな気がする。

初めて唇を重ねた時、彼女は身をすくませ、怯えるように彼の顔を見上げたが、二度目のキスでは彼女もうっとりと身を委ね、最後には彼女の方からも軽くキスを返してくれた。

だが、唇が離れると、彼女は突然我に返り、罪でも犯したように水色の瞳を潤ませた。彼も我に返り、「ふざけたんじゃないよ、ミス・マクダエル。君がとても綺麗に見えたから、そうしただけだよ」と謝ったが、彼女は目に涙を浮かべたまま、顔を上げようともしない。いたたまれず、彼女の背中を優しく抱くと、彼女もくずおれるように彼の肩に頭をもたせかけた。その瞬間、得も言われぬ愛しさがこみ上げ、ぎゅっと抱きしめそうになったが、突然、植え込みの陰から、「リズ! エリザベス!」と父親の声が聞こえると、二人は慌てて身体を離した。

「パパの所に戻ります。あなたも気を付けてお帰りになって」

リズは身を翻すと、小鳥のように立ち去った。

彼もまた茫然とその場に立ち尽くしていたが、彼女の後を追いかけられるはずもなく、自転車のスタンドを外すと、すごすごとその場を後にした。

傷ついただろうか。

怒っているだろうか。

あんな風にされて嬉しいわけがない。

昔からこんな事ばかりだ。

まともに女性と向き合ったためしがない。

まともに女性と向き合ったこともなく

初めて女性の裸を見たのは十二歳の時。ライブチャットの『飾り窓のメリーナ』がきっかけだ。さして若くもないメリーナが、赤い下着の腰をくねらせながら大股開きした時の衝撃は今も忘れない。それまで女性というのはケーキのように甘くて優しいものだと思い描いていただけに、あのアワビが腐ったようなクレバスの醜さは、美しい憧憬を無残に打ち砕くものだった。その後もヤンにいろんなビデオや写真を見せられ、「大人の男と女はこういう事をするんだ」と教えられた。彼がぶんぶん首を振ると、ヤンは豪快に笑い、

「お前の父ちゃんと母ちゃんも夜になったらやってるに決まってるじゃないか。嘘だと思うなら、壁に耳をつけて聞いてみな。うちなんか毎晩筒抜けだぞ」

それから壁が気になって眠れず、夜な夜な変な夢を見ては、目を覚ますようになった。それは誰にも内緒のはずだったのに、ある日、洗濯機をかけていたら、母が言った。

「お部屋の屑籠にビニール袋をかけるのを忘れないでね」

母は親切心のつもりだろうが、彼にとってこれほど気恥ずかしいことはない。

以来、一から十まで監視され、心の中で咎められているような気分になり、口答えも増えた。俺に親切な振りをして、陰では逐一父に告げ口し、あんないやらしい子供のおちんちんはハサミでちょん切ってしまいましょう、と密談しているのではないかと。

それも父が間に入ってくれたら、思春期のもやもやで終わたかもしれない。だが、父は亡くなり、善良だが男には無知な母親だけが残された。母の再婚は、心の支えにも慰めにもならず、彼の一番美しい思い出を無残に穢しただけだった。

そうした経緯もあって、女性に対しては複雑だ。

時々、デートもしてみるが、無遠慮に心に踏み込まれると、たちまち口が重くなる。前にヤンが紹介してくれた女性もそうだ。「復興ボランティアなんて偉いわね。うちはほとんど被害が無かったから、ラッキーだったわ」「潜水艇って、軍艦みたいなもの? 給料はどれくらい?」「フランス暮らしなんて羨ましいわね。私も南仏あたりに引っ越したいわ。田舎の干拓地にはうんざり」などとべらべら喋りまくり、彼がだんだん無口になると、陰で「あの人はJa(ヤー)(はい)とNee(ネー)(いいえ)しか言わない」「いいのは見た目だけ」と不満たらたらだった。

それでも一度だけ、本気で好きになりかけた女性がいた。リスボンで知り合った「黒髪の縮れ毛」だ。スポーツバーのウェイトレスだが、英語を上手に話し、アルバイトを掛け持ちしてブレイクダンスのレッスンに通っている点にも惹かれた。船が停泊している間、三日三晩、彼女の店に通い詰め、どうにかアパートの前まで行くことに成功したが、こういう女性に限って身持ちが堅く、簡単にはなびかない。それでもメールアドレスを交換し、出航してからもまめに連絡を取り合ったが、時間と共に回数も減った。それでも諦めきれず、南米の寄港先で航空券を買って、今度会いに行くと連絡したら、「私は淋しがり屋だから、ずっと側に居てくれる人がいい」。甲板でチケットを破りながら、夢を見るのもやめた。

以来、幽霊船のオランダ人船長だ。

船が停泊している間だけ付き合って、出航したら三日で忘れる。相手から電話やメールがあっても一切取り合わず、どれほど口汚く罵られても顧みもしない。

最初から好きでないのはお互いさま。傷つこうが、地団駄を踏もうが、自業自得だと思った。

今では女性と知り合っても一時の欲求を晴らすだけ。心を込めてキスしたこともなければ、優しく抱きしめたこともない。

自分でもそんな殺伐とした一面を軽蔑していたが、海に出る度に文句を言われ、潜水艇のことも、海洋科学のことも、理解されないぐらいなら、最初から付き合わない方がいい。

今では誰かを愛したいとも愛されたいとも思わず、一人癖が骨の髄まで染みついて、どんどん頑なになっていく。

リズのことも、可愛い女性だとは思うが、それだけだ。今は物珍しさもあって、彼にも親切にしてくれるが、根暗で怒りっぽい性格を知れば、「こんな人とは思わなかった」と愛想を尽かすに違いない。

彼は再び窓枠にもたせかけると、(彼女もすぐに忘れるさ)と自分に言い聞かせた。

だけども、彼女の柔らかい感触だけは胸の奥から消えなかった。

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宇宙文明の根幹を成すレアメタルと海洋社会の覇権を懸けて水深3000メートルの深海に挑む。
リストラされた潜水艇パイロットが恋と仕事を通して再び生き道を得る人間ドラマです。
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