海洋小説 MORGENROOD -曙光 One Heart, One Ocean

【80】いつか誰かのものになるなら、この人がいい。どこまでも一緒に旅して、永遠について行きたい

MORGENROOT -曙光

あらすじ

【小説】 いつか誰かのものになるなら、この人がいい

『犬の首輪』と娘のセキュリティ

翌朝、ヴァルターは格納庫に足を運び、プロテウスの移送を手伝った。Aフレームクレーンでプロテウスを海面に降ろし、曳航船に接続すると、プロテウスは黄色いラグビーボールのように波間に浮かび、ローレンシア島の第一埠頭へと運ばれていった。

プロテウスと一緒にフーリエやノボロスキ社のスタッフも全員帰島したこともあり、格納庫はミッション前の慌ただしさが嘘のように静まりかえっている。

彼はあちこちに散らばったスプレー缶やプラスチックボトル、金属片、布きれなどを専用コンテナボックスに拾い集めると、手押し車に乗せて産業廃棄物置き場に向かった。

ガタゴトと甲板を突っ切り、業務用エレベーターでレベル・マイナス1に降りると、ムーンプールの向こう側に、昨日とは顔ぶれの異なる一行が見えた。今日も入れ替わり立ち替わり、取材班が訪れるらしい。

彼も夕べ、トリヴィアのニュースサイトで採鉱プラットフォームに関する論評を幾つか目にしたが、その多くが技術革新や市場開拓の面で好意的に捉えているのに対し、「もって十年」「採算割れは明らか」といった冷めた論調もあり、実際のところ、何がどうなるかは誰にも分からない。一つ目標を達成しても、次から次に試練が訪れ、何かを始めたら一生が闘いだ。水深3000メートルの海の底で何かを悟ったような気がしたが、ほんの表層でしかないことを思い知らされる。

そうして産業廃棄物置き場でコンテナボックスを積み替え、格納庫に引き返そうとした時、携帯電話が鳴った。リズかと思ったら、父親の方だ。仕事について話したいから五階の小会議室に来て欲しいとのこと。夕べのことで小言を言われるのを覚悟で小会議室に向かった。

*

ドアをノックして中に入ると、アル・マクダエルは白いワイシャツとスラックス姿でテーブルの書類を片付けている。彼を一瞥すると、椅子に座るよう促し、彼ははす向かいに腰を下ろした。

「先ほどノボロスキ社長からオファーがあった」

アルが唐突に切り出した。

「お前さえよければ、プロテウスのパイロットとしてノボロスキ社に来て欲しいそうだ。契約期間はここと同じ、二年だ」

「海洋調査?」

「当面は新人パイロットの育成だ。近いうちに三人ほど採用するらしい。待遇はうちよりいい。社宅はないが、ポートスクエアに快適な単身者用アパートがある。プラットフォームの若いスタッフも何人かそこで暮らしている」

「それも願ってもない話だが、何か違うことをしてみたい。自分でも上手く説明できないが、大勢の役に立つことだ」

「たとえば?」

「『緑の堤防』のような」

「デザインの勉強がしたいのかね?」

「そうではなく、もっとストレートに社会に還元することだ」

「早い話、自分の言葉とアイデアで大衆を動かした手応えが忘れられないんだろう」

「そういう訳では……」

「謙遜することないじゃないか。みな、お前のプレゼンテーションに聞き入っていた。接続ミッション然りだ。自身の潜在能力に気付けば、伸ばしたいと願うのが当然だ」

「能力という程のものではないよ。俺なんか一介のパイロットに過ぎないし、プレゼンテーションも勢いだ。たくさんの有志が助力してくれたから、あそこまで成った。己一人の才覚じゃない」

「だが、それも、中核となる人物の器量によるのではないかね。ヤン一人でも無理。デ・フルネの仲間が百人集まっても、ああはならなかったろう。ともかく、お前にはユニークな才能がある。この次、どんな仕事を選ぼうと、この海に横たわる問題や社会が必要とすることをしっかり理解した上で出した結論なら、わしも口出しはしない。ただ、そうなると、ここで長年働いている職員と同じだけの給料を渡すわけにはいかない。ここではお前も新入社員と同じだ。仕事の内容にかかわらず、自分で一から取り組むなら、それ相応の扱いになる」

「ちなみに、幾らぐらい……?」

アルが書類の端に額を走り書きすると、彼の顔が凹んだ。ノボロスキ社で新人パイロットの指導をする方がどれほど好待遇かしれない。

「その代わり、南の宿舎は今まで通り使っていいし、成功した時にはそれ相応の賞与を出す。ロイヤリティが欲しければ、いくらでも交渉してくれていいし、専属スタッフが必要なら、状況に応じて配置する」

「わかった」

「それで当てはあるのかね?」

「前にあんたに話した通りだよ。テスト潜航の費用を捻出する為、いろんなアイデアを話した。海洋調査データの有償サービスや海洋エネルギーの利用、高度技能者の育成や海洋産業のジョブサーチ・サービス、何か出来そうなものがないか考えてる」

「野心はないのかね」

「野心?」

「そうだ。野心という言葉に抵抗があるなら『大望』と言い換えよう。お前ぐらいの年齢なら、いろんな望みがあるだろう。もっと出世したい、金持ちになりたい、自分の会社を興したい。そういう宿望はないのかね」

「俺の願いなどささやかなものだよ。もう一度、運河沿いの小さな家に住みたい。それだけだ」

「それだけ?」

「それだけだ。あんたから見ればちっぽけな夢かもしれないが、この十八年間、それを願わなかった日は一日もない。当たり前の日常が一夜で失われたから、余計でその有り難みがわかるんだ」

「それならいいんだ。お前が納得しているなら、それでいいんだよ」

「話はこれで終わり? だったら、行っていいかな。今日は格納庫の掃除を済ませたいんでね」

彼が席を立ちかけると、「まあ、待て」とアルが制した。

「もう一つ、大事な話がある。娘のことだ。覚えがないとは言わせない」

彼は腰を浮かせたまま、その場に固まった。

「夕べ、娘に何度も電話したが、まったく応答がなかった。お前も一緒だったんだろう」

「そのことなら、何もやましいことなどしてない。俺の部屋でいろいろ話しただけだ。子供時代や故郷のことを」

「そうらしいな。娘にも同じ質問をしたが、お前と同じ答えだった。お前がそう言うなら、そうなんだろう」

「あんた、どうかしてるんじゃないか。彼女はもう二十四歳だぞ? 俺の母親は結婚して、子供もいた。なぜそこまで管理する?」

「お前にとやかく言われる筋合いはない」

「いいから言わせろ。俺の手癖が悪いのは認める。クズか黄金かと問われたら、俺は間違いなくクズの方だ。だが、彼女は違う。そんなつもりで俺の部屋に来たわけじゃない。腹が立つなら、俺の首を切れ。彼女の自由は奪うな」

「わしが好んで娘に『犬の首輪』を着けていると思うかね。行動を監視するのも、娘を支配する為と? わしは一度、出先の駐車場で襲撃されたことがある。娘が十歳の時だ。幸い無傷で済んだが、犯人は足を撃ち抜かれ、その場で取り押さえられた。その時、男が呪いの言葉を吐いた。『娘がいるな。蜂蜜色の髪をした天使のような女の子だ』。――翌日、わしは娘の手を引いて警備会社を訪れた。娘はその日のうちに手術室に連れて行かれ、わしは側に付き添うこともできなかった。手術台の上で、娘は小さな身体を震わせながら『パパ、怖いわ。お願い、助けて』と泣き続けた。その後、すぐにマスクで麻酔をかがされ、深い眠りに落ちたが、TVカメラ越しに、娘の肌にメスが入れられ、身体の奥深くに発信器が埋め込まれるのをこの目で見たよ。誰にも取り出せないような場所だ。お前には決して分からんだろうが、自分自身が切り刻まれるような心境だった。その時ばかりは、採鉱事業も止めようと思った程だ。だが、それですっかり危険が回避できたわけではない。娘には決して話さないが、脅迫はしょっちゅうだ。これまでにも何度か、娘をつけ回す不審者をボディーガードが捕らえたことがある。大学の駐車場やレストランの化粧室で。そのうち何人かは刑務所に行ってもらった。もちろん娘には内緒だ」

「……」

「娘が好きなら、それで構わん。デートしたければ堂々と誘えばいい。だが、わしに無断で遠くに連れ出したり、一方的に連絡を絶ったりすれば、誘拐罪でも強姦罪でも、何とでも理由をつけて刑務所にブチ込んでやる。たとえ事故でも、娘の身体に傷一つでもつけたら承知せんぞ」

恐れるな。自分の力で生きていくんだ

十月十九日。土曜日。

ミッション成功の歓呼も一段落し、以前とは異なる雰囲気がプラットフォームを包む中、リズも明朝の帰島に向けて準備を始めた。

あれほど難事に思われたミッションも、終わってしまえば一つの行程に過ぎず、これから先の数十年の方がはるかに長くて重いことを思い知らされる。

スタッフの目標も「システムの完成」から「収益の達成」に移行し、数字が今後の指標だ。そうなれば、ダグやガーフのような技術畑のリーダーはどうなるのか、プラットフォームに常駐する必要のない作業員はどうするのか、新たな問題も生じる。

今朝も早くから部署長のカンファレンスが開かれ、様々な意見が交わされた。父は皆の発言に注意深く耳を傾けていたが、それぞれに以前とは違った不安や焦りを感じている様子が窺える。今は個々の力量を信じて、全てが良い方に向かうよう祈るしかない。

一方、リズの関心事は、重要な話し合いの場にヴァルターの姿がないことにある。先日、二人で話した時、「先のことは分からない」と言っていたが、本当にプラットフォームに留まる気はないのだろうか。よその会社に行くつもりか。まさかステラマリスに帰ったりはしないだろうか……いろんな思いが浮かんでは消える。

かといって父に尋ねるわけにもゆかず、通路でぐずぐずしていると、「何をしているんだね」と父が急かした。リズは慌てて追いついたが、父はむっつりして、どこか具合が悪そうだ。まだ夕べのことを怒っているのだろうか。

気持ちを切り替えて、午後の取材の段取りを尋ねると、

「午後は自室で過ごしなさい。取材に同行する約束だったが取りやめだ。先日セキュリティの約束を破ったペナルティだよ」

と予期せぬ返答だった。

「そんな……午後の取材はエヴァン・エーゼル基金でお世話になったジャーナリストもいらっしゃるから楽しみにしてたのに」

「お前の写真とコメントを『ニュー・ホライズン誌』に掲載したいと言ってきたが、それは了承しかねるからだ」

「でも、お会いするぐらい、いいじゃない」

「だから、ペナルティだと言ってる。お前も覚えてるだろう。高校時代に親しくしていた実業家の娘だ。こういう事がきっかけで親に平気で嘘をつき、行き先も教えず出掛けるようになった。それから程なくデパートの地下駐車場で拉致され、二日後には解放されたが、無傷で戻って来たわけではないのはお前にも分かったはずだ。アステリアも、いつまでも遠境の田舎町ではない。産業の発展に伴い、人もお金もどんどん流入している。宇宙港の入領審査など、プロの手に掛かればどうにでもくぐり抜けられるものだ。せっかく、のんびり海岸を散歩できるようになったのに、再びボディガードの監視下に置かれたいかね? それが嫌なら、最低限わしとの約束は守れ。恋に夢中になっても、盲目にはなるな。分かったな」

リズには返す言葉もない。

午後になり、居室の窓から甲板を行く取材の一行が目に入ったが、リズは黙って見送るだけだ。父に抗うこともできず、意思のない人形のように立ち尽くしている。

他人は事も無げに「言い返せばいい」と言うが、いつでも父の言う事は正しく、彼女は黙って従う他ない。父に逆らうことは、この世から居場所を無くすことでもあった。

こうなって初めて、なぜあれほどまでに歴史ドラマ『エリザベス』に惹きつけられたのかが分かる。

初めて港の視察に訪れたエリザベス姫は、帆船の甲板でキャプテン・ドレイクにさらわれる。

すかさずエリザベス姫は「この無礼者!」と平手打ちを食らわすが、

「オレが無礼なら、あんたは何だ? お供の後ろで怖がって、自分の目で世界を見ようともしない。国民に仰ぎ見られる本物の女王になりたきゃ、王城の外に出て、その目で世界を見ろ!」

そして今も、キャプテン・ドレイクならきっとこう言うだろう。

「恐れるな。自分の意思で生きていくんだ」

午後四時を過ぎ、取材陣も引き上げると、リズは取材時に着るはずだった白いツーピースを身に着け、父の部屋を訪れた。

「なんだね、その格好は」

「せっかく用意したのに無駄になったからよ。最後にプラットフォームを一回りしてきます。誰か護衛を付けてちょうだい」

「じゃあ、わしが一緒に行くよ」

父はおたおたと出掛ける準備をした。

一緒になど行きたくもないが、なんとなく決まりが悪いのは父も同じだ。あとで厳し過ぎたと悔やむぐらいなら、最初からもっと自由にさせてくれたらいいのに。

リズは軽く頬を膨らませながらブリッジの外に出ると、ゆっくり甲板を歩き始めた。

来た時には静かだった選鉱プラントでは二十四時間連続で機械音が鳴り響き、甲板上に一メートルほど突き出たガラス張りの天窓からは、忙しなく稼働するベルトコンベヤーが見える。

タワーデリックには安全を。

機関部には無限の力を。

一つ一つに願いを懸けながら、小さな女神のように甲板を歩いて回る。

そうして夕陽に誘われるように作業甲板まで来た時、パワークレーンの側で腰を屈め、大きなハンドブラシでせっせと床を磨いている作業員の姿が目に入った。

「新しい掃除の人を雇ったの?」

そうではない。彼女の恋する人だ。まるで新人研修の罰ゲームみたいに四つん這いになり、汚れた床を磨いている。

「パパ! これは一体どういうことなの? 夕べのことを根に持って、甲板掃除のペナルティ!?」

「わしは脅しも強制もしとらんよ。本人が『やる』と言い出したんだ」

「どうして」

「知らんよ、そんなことは。本人に聞けばいいじゃないか。それよりブリッジに戻ろう。わしも歩き疲れた」

「パパだけ先に戻ればいいわ。私は彼と話してきます」

リズがぷいと横を向くと、アルは「二十分だけだぞ」と念を押して、その場を後にした。

リズが近付いても、彼の方はまったく気付かず、一心不乱にデッキブラシでこすっている。声をかけても、かえって彼に恥をかかせるだけではないかと思い、黙って立ち去りかけた時、彼が突然振り向いた。

一瞬、彼は決まり悪そうに顔をしかめたが、リズが彼の側に屈み、「一所懸命なのね」と目を細めると、「そうでもないよ」と彼は答えた。

「手を動かしながら考え事をしてるだけ。その方が頭が冴える。むしろ、俺だけ暇にして申し訳ないくらいよ」

「でも、どうして掃除なんか……」

「生活のためだ」

「休暇は取らないの?」

「単純な話、俺には金がないからだ。一銭でも稼がないと後が続かない」

「……お金?」

「五万エルク。それが持ち金の全てだ」

「オンラインの送金サービスは使えないの?」

「そうじゃない。五万エルクが俺の全財産なんだよ」

リズもさすがに言葉を失った。

「間抜けな話さ。トリヴィアに来てからメインバンクの預金をオンラインで送金しようとしたら、データ転送中にエラーが生じて、アカウントまで凍結された。銀行にも相談したが、違法送金の疑いがあると精査にも応じてもらえなかった。俺は観光ビザでトリヴィアに入領して、半年後には帰るつもりだったから、何の手続きもしてなかったんだ。通信も、金融サービスも、あんなパスポート並みの手続きが要るとは夢にも思わなかった」

「年々、審査が厳しくなっているからよ。一度、在留許可を取得すれば、あとは個人IDだけで融通が利くのだけど」

「そのようだね。エンデュミオンのトレーラー村でもしょっちゅう職務質問された。一度も連行されなかったのが不思議なくらいだ」

「だからといって、甲板掃除などする必要があるの?」

「甲板の整頓も大事な仕事だよ。ロープ一本が人命を奪うこともある」

「だけど少しは休まないと」

「休息ならしてるよ。ここは自炊しなくても三度の食事が出るし、夜食も自動販売機で買える。それだけでも俺には大きな救いだ。シーツの洗濯や作業着のクリーニングも司厨部でしてくれる」

「でも……」

「君の方こそ、自分の身を心配した方がいい。そんな格好でしゃがんでいると、向こうからスカートの中が丸見えだよ」

リズは慌てて立ち上がろうとしたが、「あっ」と叫んで水溜まりに尻餅をついた。

「ひどいわ。あなたのせいで、またずぶ濡れよ」

リズが頬を膨らませると、

「ブリッジまで送ってやるよ」

彼はひょいと彼女を抱き上げた。

「いやよ、恥ずかしいわ」

「じゃあ、自分で歩いて帰る? その方がずっと恥ずかしいよ。それに明朝には島に帰るんだろう。一緒に過ごせるのも、あと数分だ。だからブリッジまで送ると言ってる」

「あなたは帰らないの?」

「当分、帰らない。でも、いつか帰ったら一緒に食事でもしよう」

「本当に?」

「俺は嘘は言わない」

彼が彼女を横抱きにしたまま歩き出すと、リズはまだ信じられないような気持ちで彼の顔を見上げた。

甲板では数人の作業員とすれ違い、

「ずいぶん重そうだな」

「オレが替わってやろうか」

とからかわれたが、彼は気にする風もなく、すいすいと通路を通り抜けていく。

そうしてムーンプールの横を通り過ぎ、選鉱プラントの近くまで来ると、リズは海の彼方を見つめ、「夕陽が素晴らしく綺麗ね」と目を細めた。

「近頃、夕陽を見ると人生の美しさを感じずにいられないの。最後の瞬間まで精一杯輝いて、静かに海の底に眠るのよ。どんな立場であれ、人が魂を燃焼する様は、それだけで美しいわ。自分にはその光が見えなくても、周りにはとても眩く映るものよ」

「俺の父親みたいだ」

「あなたもよ」リズは彼の顔を見上げた。「あなたも太陽のように輝いて見える。たとえ機械油にまみれて甲板掃除をしても、格好悪いなんて少しも思わない。あなたのことだから、今は床に這いつくばっても、いつかまた朝日のように立ち上がるんでしょうね」

「俺はそんなに格好のいい人間じゃないよ」

「いいのよ、私の目に格好よく映れば」

「そんなこと、真顔で言うなよ。俺、本気で何処かにさらっちまうよ」

「あなたになら、さらわれてもいいわ」

リズが瞳を瞬くと、さすがに彼も固まった。

「今、君の身体を落っことしそうになったよ」

「あなたでも赤くなるのね。でも、きっと夕陽のせいね」

リズが微笑むと、彼も顔をほころばせ、再びブリッジに向かった。

リズは彼の腕の中で小舟のように揺れながら、胸の中で呟く。

いつか誰かのものになるなら、この人がいい。

過去に間違いがあろうと、今この目に映る誠実は本物だ。どこまでも一緒に旅して、あなたに付いて行きたい。

彼の顔を見上げると、彼も彼女の顔を見つめ返し、腕にいっそう力をこめた。

幸せなひと時もすぐに過ぎ去り、明日からはまた別れ別れだ。でも、今日は沈む陽も、海の向こうでは朝日になる。永遠の環のように海を廻り、いつか再び幸せを運んでくれるだろう。その日を信じて、待ち続けたい。いつかこの悦びが永遠のものになるように――。

あの人が好き

翌朝、リズは父と一緒に朝食を取った後、荷物をまとめ、司厨部に連絡を入れた。父と彼女のスーツケースをアルバトロス号に運んでもらうためだ。

電話をして五分も経たないうちに、青藤色の制服を着た二十歳ぐらいの青年がドアをノックした。司厨部のパトリックだ。

高校生のように童顔のパトリックは少し右腕に不自由がある。子供の頃、高所から転落して、右肩の関節が砕けるほどの重傷を負い、人工関節の入れ替え手術を何度も繰り返してきた。肘から手前は自由に動くが、肩の動きは制限され、重い物を運んだり、大掛かりな作業はできない。それでも共有スペースの清掃や作業着のクリーニング、倉庫の管理や発注作業は可能な為、十八歳の時からプラットフォームに勤務していた。

リズが細めに開いたドアから顔を覗かせると、パトリックは少し緊張した面持ちで荷物はどこかと尋ねた。

「旅行鞄が二つ、靴専用のケースが一つ、ドレスケースが一つよ。後で父の分も運んで頂きたいの。父の方はそれほど大きくないわ。ごめんなさいね。いろいろと衣装が要ったもので」

すると、パトリックは軽く顔を紅潮させ、

「仕事で身に付けられるのですから、仕方ないですよ。打ち上げパーティの時はとても綺麗でいらっしゃいました」

「どうもありがとう」

「夕べ、お預かりしたツーピース、特殊な洗剤で洗ってみましたが、やはり汚れた落ち切りません。島に戻られたら、すぐにクリーニングに出して下さい」

「お気遣い下さって、ありがとう。また専門業者に問い合わせてみます」

「一応、乾燥させていますが、早めにビニール袋から出して、陰干しして下さいね」

パトリックが他の司厨士と一緒にスーツケースを運び出すと、リズは一息ついてベッドに腰を下ろした。

父はまだミーティングの最中だ。午前十時に一部のスタッフを召集し、当面の指示を出している。採鉱システムは順調に稼働しているが、技術的にも商業的にも、今後数年は予断を許さない。そのプレッシャーを一番感じているのは、他ならぬ父だろう。私生活で苛立ちを感じることはあっても、社会における責務を思えば、やはりその心労を思わずにいない。こんな時でさえ、衣装の心配ぐらいしかすることのない自分が情けなくもあり、腹立たしくもある。島に帰れば、しばらく父と一緒にエンタープライズ社に通うことになるが、今度こそ、お飾りではなく、一人前の女性として責任のある仕事がしたい――。

それから半時間が過ぎ、父から連絡が入ると、リズは身支度をしてエントランスに降りた。

ダグ、ガーフィールド、ミセス・マードック、ブロディ一等航海士らと改めて挨拶を交わし、父と一緒に船着き場に向かったが、心から会いたい人の姿はどこにもない。もしかして、甲板ですれ違うかと期待もしたが、どうやらそのチャンスも無さそうだ。淋しさに胸が潰れそうになりながら、白いタラップを降りようとした時、辺りが随分きれいになっているのに気が付いた。一昨日、雑誌社のインタビューでこの辺りを案内した時は、もっと汚れが目立っていたのに、今は洗い立てのシャツのようにぴかぴかしている。

「パパ、昨日より階段がきれいになっているわ」

「誰かが掃除したんだろう」

リズは足を止め、甲板を見上げたが、目に映るのは抜けるような青空だけだ。それでも優しい気遣いが光のシャワーのように胸に降り注ぐ。

リズの瞳にみるみる涙が浮かび、

「パパ。あの人が好きよ。どこの誰であれ、私の気持ちは変わらないわ」

「だったら、そのように本人に言えばいいじゃないか。いちいち、わしに告白することかね」

アルは急ぎ足で階段を下りると、アルバトロス号に乗り込んだ。だが、リズはいつまでもその場に立ち尽くし、あふれるような想いでプラットフォームを見つめていたのだった。

[post_link id=”316″ cap=”前のエピソード”]

ナビゲーション

前の記事 -
次の記事 -

Kindleストア

海洋小説 MORGENROOD -曙光

宇宙文明の根幹を成すレアメタルと海洋社会の覇権を懸けて水深3000メートルの深海に挑む。
リストラされた潜水艇パイロットが恋と仕事を通して再び生き道を得る人間ドラマです。

章立て

最近の投稿

トピックス