
【小説】 クラゲを飼わない理由 ~海に出ている間、世話してくれる人がないから
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(ページ数 6P)
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運命の女性に出会ったら、勇気を出して
ヴァルターがサフィールに到着したのは、午後七時半過ぎだ。
あれから折りたたみ式自転車を携えてバスを乗り継ぎ、アイランドマリーナのバス停で下車すると、サフィールまで全力で自転車を飛ばした。
回転ドアから中に入り、エントランスホールを突っ切ろうとすると、黒い制服姿の男性に呼び止められ、ドレスコードを注意された。今夜は施設内はジーンズお断りらしい。続いて会員証の提示を求められ、彼が首を横に振ると、「申し訳ありませんが、お通しすることはできません」と断られた。
「せめてエリザベス・マクダエル嬢に言付けを頼めないか」
彼は男性が差し出したメモ用紙にペンを走らせると、静かにその場を離れ、エクステリアのベンチに腰を下ろした。
十分。二十分。
フロント係にメモを渡して、もう半時間が経つが、エントランスには何の動きもない。もしかして別の場所に行き違ったかと首を伸ばすが、それらしき人影もない。
さらに十分経ち、二十分経つと、もしやアル・マクダエルが「行くな」と制しているのではないかと疑念が脳裏をかすめた。(そうだ、そうに違いない)とベンチを立ち、今一度、ダイバーズウォッチで時刻を確かめると、父のくれた時計が「僕は一時間待ったよ」と囁く。彼はベンチに座り直すと、父から何度も聞かされた愛の武勇伝を思い返した。
出航寸前の屋形船を追いかけたこと。両手いっぱいの花束を抱えて、フィンステルベルクのサッセン邸を訪れたこと。一ヶ月で基礎のフランス語をマスターし、勇気を振り絞ってエクス=アン=プロヴァンスの両親を訪ねたこと――。
「だから君も運命の女性に出会ったら、勇気を出して火の山をくぐれ」と励まされたが、それは父だから出来ることだ。自分などが火の山をくぐっても、鋼材を手にした父神(ヴォーダン)に返り討ちにされるか、娘の甲冑を外した途端、「いやらしいわね!」と平手打ちされるのが目に見えている。
性格は暗いし、話は退屈だし、癇癪もちで、我が儘で、母親にも中学生みたいに悪態をつく本性がばれたら、たちまち愛想を尽かされるに違いない。
やっぱり帰ろうと立ち上がり、自転車に手をかけた時、「待って」と呼び止める声がした。
リズのアドバイス ~アイデアこそ全ての源泉
驚いて振り向くと、リズがそこに立っていた。今夜は上品なピンクベージュのペプラムスーツを身に着け、先日とは打って変わってエレガントな装いだ。
「ごめんなさい。お客さまの話が長引いて席を外せなかったの」
コンシェルジュからメモを受け取り、リズは直ぐさま中座したが、廊下に出ると、父がエントランスホールの待合ソファに腰掛け、インダストリアル社のロイス副社長と話し込んでいる。リズは何でも無い風を装って化粧室に入り、そこで十分ほど時間稼ぎして再び廊下に出たが、父はまだ待合ソファで話し込んでおり、今見つかったら面倒だ。抜け道を探してうろうろしていると、今度は別の用事で訪れていたトリヴィア鉄鋼協会の会長夫妻に出くわし、ますます場を離れられなくなった。鉄鋼協会はトリヴィアの鉄鋼メーカーや周辺企業が構成する重要な産業機関の一つで、MIGとの関わりも深い。海台クラストの本採鉱を前にアステリアの視察に訪れ、区政の要人と歓談の真っ最中だ。そのうち「よかったら、こちらでお茶でもいかが」と会長夫人に誘われ、いっそう抜け出すのが難しくなった。そして一時間後、会長夫人のお喋りがようやく一段落すると、リズはその隙を突いて建物を抜け出したのだった。
「もう帰ったものと諦めていたわ」
「一時間は待とうと思った」
「一時間……?」
「時計がそう言った」
「じゃあ、時計に有り難うを言わなくちゃ」
夢のような気持ちで彼の横顔を見上げると、髪がずいぶん短くなっているのに気が付いた。
「髪を切ったの?」
「切らされたんだよ、君のパパにね! 二・五センチと言ったのに、それ以上切られた! だから床屋は嫌いなんだ」
「パパもとんだ暴君ね。あのライオンみたいな長髪が格好よかったのに」
「本当にそう思う?」
「ええ、もちろんよ。キャプテン・ドレイクみたいに素敵だわ」
「キャプテン・ドレイクは英国の海賊だよ」
「英国でも、蘭国でも、どっちでもいいじゃない。宇宙植民地に国境は無いわ」
「いや、俺の場合、『Watergeuzen(ワーターフーゼン)(海の乞食党)』と呼んでもらいたい。乞食党はネーデルラントの貴族同盟で、Anno Dominoの十六世紀半ばに……」
「わかったわ。今度、歴史書で調べておくわ。いいから庭園に行きましょう。そこなら人目につかず、ゆっくり話せるわ」
リズが促すと、彼も自転車を引いて後に従った。
庭園はレストランのガーデンテラスの続きにある。昼間はきれいに海が見渡せるが、夜は真っ暗で、背の高いアンティーク街灯が辺りを仄かに照らすだけだ。それでも潮騒は子守歌のように優しく、空には無数の星が瞬いている。二人は砂利が敷き詰められた小道を歩くと、背の高い植え込みの陰にあるベンチに腰を下ろした。それから一度は目を見合わせたものの、どこか気恥ずかしく、リズはそわそわと足元を見つめ、彼も二枚貝のように口を閉ざしたままだ。
リズはだんだん不安になり、「あの……飲み物でも持ってきましょうか」と尋ねた。
「いや、いいよ。ちょっと立ち寄っただけだから」
前には気付かなかったが、心なしか、彼の声が鼻に詰まったように聞こえる。
「あの……どこか身体の具合でも悪いの?」
「どうして」
「鼻風邪みたいだから」
彼の全身からさーっと血の気が引いた。
「俺の発音が悪いのは生まれつきだ。子供の頃から『鼻づまり』と言われてる」
「ご、ご、ご、ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ……」
「いいよ。俺もずっと『鼻づまり』とからかわれてきたが、体調を心配されたのは初めてだ」
「でも、プレゼンテーションが上手だと聞いているわ。エンジニアリング社のマルティン・オイラー副社長も褒めておられたわよ。来たばかりで、あれほど理路整然と自分の考えを説明できる人もないと」
「アイデアだけだ。具体策まで提示したわけじゃない」
「そのアイデアさえ、普通の人には思いつかないのよ」
リズは励ますように言った。
「アイデアを軽く考えないで。父もいつも言ってるわ。アイデアこそ全ての源泉だと。どんな優れた製品も、ふとした思い付きから始まるのよ。今すぐ具体策は思いつかなくても、問題を明確にし、今後の指針を示すだけでも現場は変わるわ。父もあなたのアイデアに期待すればこそ、重役会議で発言を求めたのよ。何も無いと分かっている人に、こんな大事を任せたりしないわ」
「……」
「父は今日のあなたを見て確信をもったはずよ。私には分かるの。憎まれ役を買ってでも、あなたに気付かせたい事があるのよ」
「俺に気付かせたい事?」
「そうよ。接続ミッションだけが目的じゃない」
「どうして、そんなことが分かる」
「機械を繋ぐのが目的なら、自分からわざわざあなたを迎えに行ったりしないわ」
リズは真摯な眼差しで彼の横顔を見つめ、彼もちらとリズの方を見た。
「それより、飲み物でも召し上がらない? ビール、ワイン、カクテル、何でも揃ってるわ。デザートがお好きなら、ケーキやアイスクリームも」
「それなら一つ頼みがあるんだ。俺、すごく腹が減ってるんだよ。昼から何も食べてなくて」
「まあ、どうして先に仰らないの! すぐに食べ物を持ってくるわ。十分ほど待って。お願いよ」
クラゲを飼わない理由 ~海に出ている間、世話してくれる人がないから
リズは急いで建物に戻ると、フロントの接客係に申し付け、軽食を用意させた。ハム、チーズ、テリーヌ、サラダ、バゲット、赤ワインがのった銀のトレイを運び、二人の間に置くと、バゲットにバターを塗り、ハムとチーズをのせて、彼に手渡した。
「……すまないね」
彼は赤ワインで口を潤しながら、ぱくぱくと食べ始めた。
背を丸め、無心に食べる姿が、なんだかお腹を空かせた仔犬みたいだ。リズも母親みたいに目を細め、どんどんカナッペを作って、彼に手渡す。
「あの、潜水艇のパイロットって、どんなお仕事なの? 船に乗って海に潜るのよね?」
「そうだよ」
「海の底ではどんなことを?」
「写真を撮ったり、サンプリングしたり」
「魚もいるの?」
「たまにね。腸が飛び出したようなのとか、のっぺらぼうの蛇みたいなのとか」
「……」
「君はどんな魚が好きなんだ」
「そうね……あえていうなら、金魚かしら」
「金魚は淡水魚だ。海にはいない」
「……」
「他にはどんな魚が好きなんだ」
「あ……あなたこそ、どんな魚が好きなの?」
「そうだな。あえていうなら、鮭かな」
「サ……サーモンなら私も大好きよ。マリネにすると美味しいわね」
「俺が言ってるのは味ではなく、習性のことだよ」
「△■○※●◇……」
リズが真っ赤になると、彼は顔をほころばせ、
「無理しなくていいよ。魚が海で泳いでいるのも見たことないんだろう」
と優しい声で言った。
「恥ずかしがることないじゃないか。海のない所で生まれ育ったら、波の音さえ聞いたことがないのが当たり前だ。ステラマリスでも、一度も海を見たことがない人は大勢いる。暮らしが貧しくて旅行にも行けなかったり、標高三千メートルの山岳地に育って、そこで一生を終えたり。でも、君にはチャンスがある。いつかエメラルドグリーンの海で可愛い熱帯魚を目にする日も来るよ」
「あなたに夢はあるの?」
「夢? そうだな……クラゲを飼うことかな」
「クラゲって、中華料理の?」
「そう。前菜に出てくるクラゲだ。死ぬとコリコリして美味しいが、海の中では幻想的だ。海で死んだ命がクラゲに生まれ変わって、永遠に波間をたゆとう。今度生まれてくる時はクラゲがいい。何も考えずに、ぼーっと波間を漂う……」
「あなたって詩人ね。一言一言が胸に染みるようだわ。だけど、どうやって家の中で飼うの?」
「さほど難しくないよ。ステラマリスのペットショップに専用の飼育キットを売っている。人工海水も餌も手軽に買えるし、水槽もカラフルなLEDライトに照らされて、とても綺麗だよ」
「じゃあ、どうして飼わないの?」
「海に出ている間、世話してくれる人がないからだ」
リズははっと胸を突かれた。その一言に、彼の境遇が集約されているように感じた。
淋しくないのか、留守を任せられる友達はないのか。いろいろ聞いてみたい気もするが、心の奥深くに立ち入ろうとすれば、この人はたちまち口を閉ざして、彼女のことも遠ざけるにちがいない。
彼は最後のカナッペを平らげ、グラスワインを飲み干すと、「君はいつトリヴィアに帰るんだ?」と訊いた。
「当分、帰るつもりはないわ。ここがとても気に入ってるし、仕事もしたいから。いろんなことを勉強して、納得がいくまで滞在するつもり」
あなたは? と問いかけて、リズは口をつぐんだ。彼が何時までここに居るかなど知りたくもない。
「二年だよ」
彼がつぶやいた。
「俺の契約は二年だ。それから先はどうなるか分からない。ステラマリスに戻るのか、それとも、よそに行くのか……。そろそろ帰るよ。君も明日は早いんだろう。夕食をどうもありがとう。美味しかったよ」
彼が腰を上げると、リズも立ち上がり、「いつかまた話せる?」と彼の顔を見上げた。
「機会があればね」
「あなたと話せて嬉しかったわ。本当よ。何か困ったことがあれば、いつでも相談して。私でもあなたの力になれることはあるのよ」
彼女がひしと彼の腕を掴み、水色の瞳を瞬くと、彼は彼女の白い首筋に目を留め、襟首から覗く肌の柔らかさにしばし見惚れた。
「俺、ちょっと酔ってるから、明日の朝にはきれいさっぱり忘れてるかもしれないけど、許してくれるかな」
「許すって、何を……」
言い終わらぬうちに、唇をふさがれた。湿った感触が口の中いっぱいに広がり、息も止まりそうになる。
静かに唇が離れ、怯えるように彼の顔を見返すと、
「かの英国女王も、ファーストキスの相手はキャプテン・ドレイクだったらしいよ」
彼は囁き、再び唇を重ねた。
リズは頭の裏側で(そんな史実があったかしら)と思い巡らせながら、初めての熱っぽいキスを受け入れた。
明日の朝、出港したら、彼はきれいさっぱり忘れてしまうのかもしれないけれど、それでも構わない。
こんなに素敵なキスなら――。
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