
できるものなら、僕もこの場から逃げ出したい。堤防の向こうはまるで地獄絵図だ。黒く渦巻く水を見ていると、本当に明日という日が来るのか、絶望的な気持ちにすらなる。恐怖に打ち克つ力が欲しい。いつまでも君やあの子と一緒に暮らしたい……
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第1章 運命と意思 ~ローエングリン・決壊(3)
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大型低気圧と大洪水の危機
184年2月13日。
アンヌ=マリーはキッチンの窓から夜の車道を眺めながら、「それにしても、よく降る雨だこと」と心配そうに言った。
「この季節、以前は連日のように降雪して、気温も零下が当たり前だったのに、ここ数年は暖冬続きで、ほとんど雪も降らなくなったわね」
グンターも夜の雨が激しく叩きつけるガラス窓を見つめ、いったい欧州の気候はどうなっているのかと首を捻った。春先に大量の雹が降ったり、十月半ばに突然吹雪いたり、真夏なのに気温が二十度前後しかなかったり。
そして、今年も雪が降らず、運河も十分に凍らない。運河スケート大会も、今回はついに開催を見合わせた。暖かい冬は二月になっても変わらず、積雪もしない。
そのくせドイツ西部の山岳地帯はどこも豪雪で、カールスルーエも交通に支障が出るほど記録的な積雪に見舞われた。もっとも、この大雪は初めてスキーに挑戦したヴァルターを喜ばせたけれれど。
アンヌ=マリーは温かいホットチョコレートをテーブルに置くと、
「こんな日まで体育館でトレーニングなんて、ずいぶん厳しいわね」
と溜め息をついた。
「三月に大事な試合があるから気が抜けないんだよ。それに今度の大会はエールディヴィジ(プロサッカーの1部リーグ)の関係者も来るからね。選手にとっては又とないチャンスだ」
「だけど、もう二十時を過ぎてるわ。外も真っ暗なのに、本当に大丈夫かしら」
アンヌ=マリーは再び窓の向こうに目を凝らした。
半時間前に電話があり、バス停まで公団の子と一緒だと話していたが、確かに少し遅すぎるようだ。グンターも窓の外を見やり、もう一度、電話をかけようと立ち上がった時、パシャパシャと足音がし、勢いよくドアが開いた。激しい雨音の中、ヴァルターが息せき切らして、ずぶ濡れの防寒ジャケットを脱ぐ気配がする。
アンヌ=マリーは玄関先に飛んで行くと、「まあ、大変! 早くシャワーを浴びないと」と濡れた服を脱がせ、かいがいしく世話をやく。もう中学生なのだから、そこまで手を掛けなくていいのにと思うが、やはり気になるのだろうか。
ヴァルターは二階の浴室で手早くシャワーを浴びると、キッチンに顔を出し、「母さん、お腹が空いたよ。何か食べる物ない?」と冷蔵庫を開けた。
アンヌ=マリーはキノコのクリームスープを温め直すと、麦芽パンのオープンサンドイッチを添えてテーブルに置いた。ヴァルターは分厚いステーキハムがのったサンドイッチにかぶりつき、黙々とクリームスープを口に運ぶ。今が食べ盛りの伸び盛りだ。朝起きる度に身長が一センチ高くなっているような気がする。最後にキュウリのピクルスをぺろりと平らげると、グラスになみなみと注いだ野菜ジュースを一気飲みし、満足したように口元を拭った。
「今日はどうだった?」
「絶好調だよ。ボールの繋がりが格段に良くなって、あっという間にゴール前に運べるようになった。FC Groen(フルン)は全員総攻撃だ。皆、ユニフォームを緑からオレンジに変えたいと言ってる」
「そうか。それは楽しみだな」
「三月の大会で好成績をあげたら、今度こそ新しいパソコンを買ってよ。機能限定のキッズ・パソコンは飽き飽きだよ」
本来、それはクリスマスに買う予定だったが、母親への態度があまりに悪いのでお預けになっていた。
「そうだね。考えておくよ」
「それから、五月の連休にはヤンと一緒にヤンのお祖母さんの家に行きたい。車で半時間ほどの所にでっかい遊園地があるんだ。ジェットコースターとか急流すべりとか、すごく面白いって」
「それよりフランスに行かないか? お母さんはこっちに来てから一度も故国に帰ったことがないだろう。マルセイユでなくて西海岸の方だ。前にTVでモン・サン=ミシェル修道院*33の潮の満ち引きを見て、一度こういう場所に行ってみたいと言ってただろう」
「ほんと? でも、ヤンと遊園地にも行きたいしなぁ」
「遊園地はいつでも行けるじゃないか。でも、モン・サン=ミシェルは五月の連休でないと無理だ。夏休みはお前も練習で忙しいし、今年はスペイン遠征にも行くだろう? だから、その前にゆっくり家族旅行でも、と思ってね」
「そう……」
「ノルマンディーの風景も格別よ」とアンヌ=マリーが言った。「印象派絵画の発祥の地だし、エトルタの断崖やオンフルールの港、壮麗なカテドラルもたくさんあるわ。それに美味しいホタテ貝も」
「コキーユがあるの?」
「ええ、お腹いっぱい食べられるわよ」
「これで決まりだね」とグンターは笑った。「ヤンと遊園地に行くのは復活祭の休日にしたらどうだ? 四月上旬ならだいぶ温かいし、金土日の三連休だ」
「ヤンに相談してみるよ」
ヴァルターとアンヌ=マリーがフランス語で楽しそうにノルマンディー地方のことを語り合っている間、グンターはふとインターネットラジオから流れてくるアナウンスに聞き耳を立てた。シュトゥットガルト放送のニュース番組で、男性アナウンサーが繰り返し気象速報を読み上げている。
北から張り出した大型低気圧の中心気圧が九八〇ヘクトパスカルに達し、さらに勢いを増しながら南下しているという。
大雨と水位上昇 ~父よ、この苦しみの杯をわたしから取り除いて下さい
二月二十一日。
二月上旬から断続的に降り続けた大雨は塩湖や運河の水位上昇を引き起こし、人々の生活にも重大な影響を及ぼしていた。
干拓地の四方を海と河川に囲まれたフェールダムも日に日に状況が悪化し、北海岸の盛土堤防の底部からは漏水が始まっている。
この一週間、治水関係者のみならず、町中の男たちが力を合わせ、盛土堤防や塩湖の護岸に土嚢を積み上げたり、三角形の水嚢チューブを設置して決壊に備えているが、大型低気圧の威力は一向に衰えず、明日の夜には高潮が盛土堤防のキャパシティを超えて干拓地に流れ込む恐れがある。そうなれば塩湖の水位も一気に上昇し、幅一七〇メートルの締切堤防もどうなるか分からない。
グンターも五日前から不眠不休で排水ポンプを取り付けたり、土嚢や水嚢を設置して必死に堤防を守っているが、水の勢いは増す一方だ。
毎日ずぶ濡れになって帰ってくる夫の為に、アンヌ=マリーはボリュームのある料理をこしらえ、必死に心身を支えているが、その食材も徐々に店頭から姿を消し、今は小売店もスーパーも固くシャッターを閉ざしたままだ。既に住民の半分以上が避難しており、今日明日が運命の分かれ目である。
午後十時過ぎ、グンターは家に帰ると、濡れた作業服を脱いでオニオンスープを食べたが、雨と風で冷え切った身体はすぐには温まらず、まだ手先がかじかんでいる。アンヌ=マリーが残りわずかな薪を燃やして、湯たんぽも用意してくれたが、激しい疲労もあり、暖炉の火が目に眩しいほどだ。
しばらく暖炉の前に座り、身体をさすっていたが、そのうち猛烈な眠気に襲われ、カウチに横になった。十分ほど深く寝入り、ふと胸の苦しさで目を覚ました時、カウチの側にぼうっと立っているヴァルターの気配に気が付いた。
「どうしたんだ。まだベッドに入らないのか」
グンターが上体を起こすと、ヴァルターはカウチの端に腰掛け、声を震わせた。
「父さん、怖いよ。雨も、風も、あんなにゴウゴウいってるよ。家の前の運河も今にも溢れそうだし、隣の三姉妹もどこかに避難したみたいだ。ヤンも、クリスティアンも、イグナスも、みんな親戚の所に行ってる。うちも早く逃げようよ。今夜のうちに洪水が襲ってくるよ」
「洪水はすぐには襲ってこない。夜じゅう、大勢が堤防を守っているし、人工衛星の監視システムも水の動きを見張ってる。いよいよ危険が差し迫ったら、すぐに避難するから大丈夫だ」
「堤防が壊れたら、この家も水に流されてなくなるの?」
「古い家だけど、丈夫なレンガ造りだ。そんな簡単に水に流されたりしないよ」
「でも怖いよ……怖い……」
グンターはひな鳥みたいに怯える息子の背中を抱きながら、「大丈夫だ。心配するな。どんな時も父さんが一緒だ。お前一人、洪水の中に置いていったりしない」と力付けた。偉そうな口を利いたり、女性の裸に興味をもったり、大人の男の真似事をしても、まだまだ子供だ。親をなくして平気なわけがない。
「今夜はゆっくり休みなさい。明日にはバスを幾つも乗り継いで、カールスルーエに行くかもしれない。きっと何所も避難者でごった返しだ。最後は体力勝負だよ」
ヴァルターは小さく頷くと、今一度、父親の存在を確かめるようにグンターの背中を掻き抱いた。
グンターはアンヌ=マリーを伴って二階の子供部屋に上がると、幼子の時のように二人で息子を寝かしつけた。頭まですっぽり掛け布団をかぶり、赤ん坊みたいに身体を丸めて、ようやく眠りに就くと、グンターは彼女と一緒に階下のキッチンに降りた。
アンヌ=マリーはホットチョコレートを入れながら、「堤防はどんな具合なの?」と心配そうに訊いた。
グンターはホットチョコレートを口にしながらしばらく黙っていたが、
「アンヌ。明朝、あの子と一緒に荷造りをしてくれないか」
「それほど状況が悪いのですか?」
「いや、念のためだ。明朝の状況を見て対策委員会が最終決定を下す。だが、全員退避となれば、堤防は無理だろう。そうなると、この家もどうなるか分からない。全倒壊することはないと思うが、貴重品を持って、あの子とカールスルーエに避難して欲しい」
「あなたはいらっしゃらないの?」
「明朝の状況を見て決める。決定がどうあれ、僕は最後まで現場を離れるわけにいかない」
アンヌ=マリーは目を伏せ、しばらく思い巡らせていたが、
「分かりました。今夜のうちにも支度しますわ。いったん州の避難所に向かい、そこからカールスルーエに行けばいいのね」
と気丈に答えた。
「そうだ。後でルートを記した地図を渡すよ。もし身動きがとれなくなったら両親に連絡してくれ。父がすぐに迎えに来てくれる」
「でも、決して無理はなさらないで。たとえ卑怯者と呼ばれようと、あなたの命以上に大切なものはありません」
「僕もだよ、アンヌ。君とあの子を守るためなら、僕は何を引き替えにしても構わない。君に出会って、恋をして、あの子が生まれて、本当に幸福な人生だったと感謝している……」
「あなた、何を仰るの。これからもずっと一緒ですのに。きっと疲れがたまっているのだわ。今夜はもうお休みになって。明日もまた早いのでしょう」
アンヌ=マリーは彼の肩を抱き、席を立たせようとしたが、彼はその手を取ると、彼女の身体を掻き抱いた。
「できるものなら、僕もこの場から逃げ出したい。堤防の向こうはまるで地獄絵図だ。黒く渦巻く水を見ていると、本当に明日という日が来るのか、絶望的な気持ちにすらなる。恐怖に打ち克つ力が欲しい。いつまでも君やあの子と一緒に暮らしたい……」
アンヌ=マリーはそんな夫の身体を胸に優しく抱くと、聖書の一句を口にした。
「『父よ、この苦しみの杯をわたしから取り除いて下さい。けれど、私の願いからではなく、御心のままに*34』――その時が来れば、魂があなたの行くべき道を示してくれるでしょう。逃げようと、留まろうと、どんな時も私はあなたの良心を信じるわ。さあ、寝室に上がって休みましょう。一晩ぐっすり眠れば、新しい希望も湧くわ。明日の夜には水も引いて、いつもの太陽が顔を出すはず」
アンヌ=マリーに支えられ、どうにか寝室に上がったが、ベッドに入ってからも胸が締めつけられるように苦しく、悪夢にうなされる。
「あなた、どうか心を鎮めて。安らかにお休みになって……」
彼の背中をさすり、胸に抱きながら、アンヌ=マリーは優しく力づける。
だが、低気圧は衰えるどころか、いっそう勢いを増し、四世紀続いた干拓地(フェールダム)を丸呑みするが如くだった。
永訣 ~生きて、生きて、最後まで生き抜いて
二月二十二日。
グンターは午前六時に起床すると、七時にはカーキ色の作業着と白いヘルメットを着けて堤防に向かった。
激しい雨は一晩中降り続き、家の前の運河も溢れんばかりである。
避難勧告はフェールダムのみならず、北はロッテルダムから南はアントウェルペンに至るまで沿岸一帯に発令され、主要な自動車道では大渋滞が発生している。上空には救助ヘリや偵察機が飛び交い、警察や陸軍の特殊車両も全台が出動して、避難民の誘導や防災に当たっている。
グンターはヴァルターに「お母さんをしっかり手助けするように」と強く言い聞かせ、身を切られるような思いで堤防に出かけた。
ヴァルターは父の言い付けを守って、必死に母を手伝った。
一階の書斎に置いている父のパソコンやホームサーバーや書類棚は二階の主寝室に移動し、高価な調度や電化製品は居室に収納する。
それから一階の窓や戸口を厳重に塞ぎ、浸水しそうな箇所は古いタオルなどを詰めて万一に備えた。
十時、十一時と、不安な中で時が過ぎ、ラジオ中継に耳を傾けるが、希望のもてるニュースは一つもなく、各地の騒然とした様子だけが伝わってくる。
午後一時を回ると、アンヌ=マリーは残り物のハムとチーズを使って手早くパンネンクーケンを作ったが、ヴァルターは「食べたくない」と首を横に振る。
「しっかり食べるのよ。もしかしたら、今夜はゆっくり食事する暇もないかもしれない。こんな時は体力が物を言うの。身体さえ丈夫なら、どんな苦難にも耐えられる」
母に諭され、ヴァルターは喉の奥に押し込むようにして大きなパンネンクーケンを食べた。
もう食糧も底を尽き、コーンフレークとパック入りミルク、豆や小麦粉などが僅かに残っているだけだ。
だが、食事ぐらいどうにでもなる。一時間もバスで走れば内陸部に避難できるし、カールスルーエには祖父母もいる。まだ世界の終わりではない。
それより夫の安否が心配だ。夕べもほとんど一睡もせず、今朝も早くに出掛けていった。現場の作業員らも心身ともに限界だろう。今日峠を越えなかったら、明日にはみな力尽きるかもしれない。
さらに一時間、二時間と過ぎ、辺りが暗くなる頃、ようやく夫から連絡があった。午後六時に最後のシャトルバスが出発するから、すぐに支度して欲しいとのことだ。
「父さんはどうするの? 俺たちだけバス停に行くの? ねえ、父さんが帰ってくるまで待とうよ」
幼子のようにぐずるヴァルターを励ましながら荷造りさせ、アンヌ=マリーも貴重品や思い出の品をバッグに詰めた。エクス=アン=プロヴァンスを出る時、慶福を願って持ち出した幸運の旅行鞄だ。
午後五時半、夫の指示したバスターミナルに行くと、夫も十分ほど遅れてやって来た。父親がまだ作業着姿であるのに気付くと、ヴァルターは涙目になり、「父さん、どうしてそんな格好してるの……一緒に逃げるんじゃなかったの……」と声を潤ませた。
「心配するな、ヴァルター。父さんも必ず後から行く。明日の夜、カールスルーエで会おう。お祖母ちゃんがお前の好きなバームクーヘンをいっぱい用意して待ってるよ」
「バームクーヘンなんかいらないよ。俺も父さんと一緒に居る」
「そんな世界の終わりみたいな顔をするな。ワーグナーの『神々の黄昏』も、最後は希望のメロディで幕を下ろすだろう。明日には何もかも良くなってるよ。海は凪ぎ、空には同じ太陽が顔を出す」
「いやだよ、父さん、一緒にカールスルーエに行こう」
「愛してるよ、ヴァルター。君が幸せであることが僕の最大の願いだ。早くお母さんとバスに乗って。無事にカールスルーエに着くまで、お母さんの言うことをしっかり聞くんだよ」
むずがる息子を五十人乗りのシャトルバスに乗せると、アンヌ=マリーは車窓を小さく開き、左手を伸ばして夫の温かな頬に触れた。
グンターもまた妻の温かい手を握りしめると、
「ずっと側に居てやれなくてすまない。だが僕は心の声を聞いた。これこそ命の道と信じる。僕は生きる為に堤防に戻るんだよ。君に出会えて本当に幸運だった。Je t’aime pour toujours(君を永遠に愛してる)」
と最後の口づけを交わした。
それからヴァルターに向き直り、ダイバーズウォッチを巻いた左手をしっかり握りしめると、
「ヴァルター。どんなことがあっても決して諦めるな。父さんはいつでもお前と共にある。生きて、生きて、最後まで生き抜いて、素晴らしい人生を送ってくれ」
ヴァルターは自分の人生に何が起きているのか、この先、何が起ころうとしているのか、何も考えられないし、考えたくもない。ただ目に涙をいっぱい浮かべて、父の手を握り返すのがやっとだ。
やがてバスのエンジンがかかり、アンヌ=マリーが車窓を閉めると、バスはゆっくり発進した。
振り返ると、父は風雨の中に一人立ち尽くし、安全な方にバスが走り去るのを笑顔で見送っている。
それが生きた父の姿を目にした最後の瞬間だった。
堤防決壊 ~みんな流されたんだね
ヴァルターとアンヌ=マリーを乗せたバスは混み合う自動車道を抜け、二つの大運河を渡って、危険地域から抜け出した。西沿岸の高速を通り、州の避難所のあるローゼンダールに向かおうとしたが、突然、沿道のガソリンスタンドに立ち寄ると、方向転換を始めた。
「沿岸の高速も国道も交通規制がしかれ、作業用トラックや緊急車両が優先になっています。至る所で大渋滞が発生し、このままでは今夜中に到着しそうにありません。少し遠回りになりますが、安全の為、いったんベルギーに入りましょう。内陸の地方道を通って東回りにアクセスすれば、混乱も少ないはずです」
遠回りといっても、ほんの十数キロ、東に迂回するだけだ。運転手の説明に乗客も納得し、各自モバイルフォンを取り出して家族にテキストメッセージを打ったり、天気や道路情報を確認し始めた。
その時、アンヌ=マリーが立ち上がり、
「ベルギーの国境を越えるなら、私たちだけアンヴェルスの近くで降ろして頂けませんか」
「アンヴェルス?」
「アントウェルペンです」
「構いませんが、市内には行きませんよ」
「了解しています」
アンヌ=マリーが再びシートに腰を下ろすと、ヴァルターは母に耳打ちした。
「どういうこと? ローゼンダールに行かないの?」
「何かあった時、お母さんはベルギーの方が動きやすいの。フランス語を話す人がたくさんいるから。カールスルーエに行くなら、アントウェルペンからブリュッセルに抜けて、そこから飛行機でアクセスした方が確実だわ。この調子だと、あと数日はどこも大混乱だし、ローゼンダールの避難所に行っても、そこから空港に向かうのはまた一難でしょう。それより、どんなルートを使っても、一日も早くカールスルーエに着いた方がいい。その方がお父さまも義両親も安心なさるはずよ」
母に諭され、ヴァルターも不安な気持ちを落ち着かせる。
これは一夜の悪夢だ、日が昇る頃には何もかも元に戻っているはずだ――。
自分に強く言い聞かせながら、左手のダイバーズウォッチを強く握りしめた。
アンヌ=マリーはアントウェルペンに向かう国道の三叉路でバスを降りると、タクシーを拾って長距離バスのバス停に向かった。
定員二十名のマイクロバスは、ブリュッセル市内まで約六十キロの道程を半時間ほどで走り抜けると、煌々と明かりの灯るバスターミナルに到着した。
ここまで来ると雨もなく、夜空にはぽつぽつと星が瞬いている。夫からはまだ何の連絡もなく、堤防がどうなっているか知る術もないが、この様子だと一夜限りの狂乱ではないか。アンヌ=マリーはインフォメーションカウンターに立ち寄って安価なホテルを予約すると、息子にルームサービスの軽食を食べさせ、入浴を済ませてベッドに横になるよう言い付けた。
息子はTVを見たがったが、「明日の朝早く、お父さんから電話が入るかもしれないわよ」と言うと、納得してバスルームに向かった。
その間にもう一度、夫の携帯電話にコールするが、「電源が切れているか、電波の届かない所にいます」という自動応答だけで、何の返事もない。夜を徹しての作業が続き、電話に出る余裕もないのだろう。あるいは本当に電源が切れてしまったか。
だが、あと数時間もすれば夜も明けて、必ず連絡があるはずだ。星があんなに綺麗に瞬いているのだから――。
それから、まんじりともしないで夜を明かし、ナイトテーブルの携帯電話に手を伸ばすと、まだ何の通知もない。ヴァルターも目を醒ましたのか、シーツから顔を出し、「父さんから連絡はあった?」と訊く。
「いいえ、まだ朝の六時だもの。きっと、くたくたに疲れて、何所かで休んでおられるのよ。とにかく出掛ける準備をしましょう。九時に空港行きのバスが出るわ」
アンヌ=マリーはバスルームに行くと、軽くシャワーを浴びて、着替えを済ませた。
乾ききらぬ髪をタオルで拭きながらバスルームのドアを開くと、ヴァルターがベッドに腰掛け、食い入るように壁掛けテレビを見つめている。
その異様な光景にアンヌ=マリーも釘付けになった。
フェールダム北側の盛土堤防が高潮によって無残に破壊され、農地も住宅地も完全に水没している。しかも、その続きにあるコンクリートの締切堤防までもが真ん中の辺りで幅二〇メートルに渡って決壊し、茶色い濁水がジェット噴射のように干拓地に流れ込んでいる。
ヴァルターは恐る恐る後ろを振り返り、
「母さん、これフェールダムの締切堤防だよね……」
と声を震わせる。
取材ヘリは水没した干拓地の上空を何度も旋回し、屋根の上で救助を待つ人や、今にも倒壊しそうな橋梁、ゴミのように流れていく家屋を次々に映し出す。
「あの人は……あの人はどうなったの……」
アンヌ=マリーは夫の携帯電話に何度もダイヤルするが自動応答のままだ。カールスルーエにも電話を入れ、行き違いになってないか尋ねたが、やはり何の音沙汰もない。「一体どういうことなの。あの子は何所に居るの。なぜ一緒に避難しなかったの」と義母も半狂乱だ。
ざあっと全身の血が引き、治水局、消防署、警察署、思いつく限りに電話をかけたが、どこも回線が混み合っているのか、なかなか繋がらず、やっと繋がっても「公式の発表を待て」とあしらわれ、個人の安否を確認できる状態ではない。
次いで、グンターの友人やサッカークラブの関係者にも電話を入れたが、不通だったり、相手もパニックになっていたり、誰もがショックと混乱の只中にある。
「母さん、父さんは何処へ行ったの……。どうして何の連絡もくれないの……」
「すぐにテレビを切りなさい。そして朝食を食べるの。とにかくカールスルーエに行くわよ」
自らも足元が崩れそうになるのを必死で堪えながら、一階のカフェテリアで息子に軽い朝食を食べさせ、五〇〇メートル先のバス停に向かった。
バスの中でもヴァルターは口もきけないほどショックを受け、茫然と彼女の肩にもたれている。アンヌ=マリーも息子の手をしっかり握りしめながら様々に思い巡らせる。
きっと携帯電話のトラブルだ。電源が切れたか、電話機を水に落としたか。あるいは電話回線がパンクしているか。
それとも怪我をして、どこかの病院に運ばれたのかもしれない。連絡を取りたくても、携帯電話もなく、医師も看護師も目が回るような忙しさで、ベッドから起き出すこともできず……。
それでもカールスルーエに着く頃にはメールか電話で連絡がつき、「無事でよかった」と皆で肩を抱き合っているはずだ。あれほど善良な人を神様が見捨てるはずがない。
その夜遅く、カールスルーエの家に到着し、ひとまず暖を得た。
居間のTVは珍しく付けっぱなしで、義両親も憔悴しきっている。
フェールダム及びゼーラント州沿海の大部分が浸水もしくは冠水。何千という家屋の損壊。道路の陥没。土壌流出。ガス・電気などライフラインの破損など、時間が経つにつれ、甚大な被害が浮き彫りになる。
翌朝、フェールダムの湖畔で、カーキ色の作業着を着た男性の遺体が収容された時には目の前が真っ暗になったが、それは夫ではなく、牛舎と田畑を守ろうとして逃げ遅れた農家の主だった。その他にも交通事故、落水などで死傷者が出ており、TV画面にテロップが流れる度、心臓の凍る思いがする。
ヴァルターはずっと二階のグンターの部屋にこもりきりだ。義母がカモミールティーを飲ませ、ベッドに休ませているが、ずっと「父さん、父さん」と泣きじゃくっている。
一方、義父はハンブルクの弟やミュンヘンの義家族と手分けして、あちこちの病院に電話をかけ、災害対策本部の公式情報を分刻みで追っているが、未だ何の手がかりも得られない。
二日目が暮れようとした頃、ようやく治水局の同僚からメールを受け取った。だが、それは再会の望みを完全に打ち砕くものだった。
同僚の話では、最後まで締切堤防に残ったのは三十名。
午後九時過ぎ、全員待避の決定が下され、体調の悪い者や高齢者から順々にミニバンで現場を離れたが、夫を含む七名が堤防に取り残され、迎えに行ったミニバンの運転手とも全く連絡が取れないという。周囲の状況からミニバンもろとも濁流に呑まれた可能性が高く、ついさっき、一人の作業員の遺体が海岸で収容されたとのことだ。
そうして三日経ち、四日経ち、五日目の朝を迎えると、再会の願いは、指一本、髪の毛一筋でいいから取り戻したいというものに変わっていった。だが、あれから作業員の遺体が収容されたという話はなく、ミニバンの運転手も見つかっていない。
六日目にはフェールダムの天候も回復し、水位も下がって、再び干拓地が姿を現したが、もはやそこに緑はなかった。毎日のように夫と散歩した小路も、ベビーカーを押して歩いた締切堤防の遊歩道も、牛がのんびり緑を食んでいた牧草地も、何もかも濁流に押し流され、辺り一面、大量の堆積物や瓦礫で埋め尽くされている。かろうじて水没から逃れた場所も、深刻な塩害によって、向こう数十年は草一本生えないだろうと言われ、水道、電気、ガスなどライフラインもずたずただ。
息子にはTVもインターネットも見せず、簡単に状況だけ伝えているが、何もかも理解したのだろう。ある朝、掛け布団から顔を出して、ぽつりと言った。
「みんな流されたんだね」
生きるのよ。私たちは生きていくの
それから数週間が経ち、アンヌ=マリーは現実を悟ると、夫の死亡届を提出した。
こうなれば一刻も早く身辺を整理し、生活を立て直すしかない。息子の将来の為にも、泣いて立ち止まっている暇はない。
最悪の冬が過ぎ、カールスルーエにもチューリップの季節が訪れると、アンヌ=マリーは、一人でライン川の河川敷に出掛けた息子の後を追って、川沿いの遊歩道を下った。
カールスルーエに来た時、夫とよくこの道を散歩した。
慣れない異国暮らしに疲れを感じることはあっても、夫に付いてきたことを後悔したことは一度もない。息子の言葉の問題に苦しんだ時も、家族の団居にはいつも愛があった。
だが、その夫ももういない。
沈みゆく夕陽を見ながら、地上から夫の気配が完全に消えたことを痛感する。
「子供の頃、よくこの河川敷を散歩して、ライン川の向こうに思いを馳せたものだ。ラインの乙女と川底の黄金。神の娘が眠る火の山。ギービヒ家の館。僕の父は『低地(ニーダーランド)』と呼んで好まなかったけど、僕はいつもこの川向こうにジークフリートの冒険やローエングリンの旅路を思い描いていた。ワーグナーが『神々の黄昏』で描いたライン川も、こんな風に夕陽に照らされ、燃えるような黄金色に輝いていたんだろうね」
夫の優しい笑顔が脳裏に浮かび、新たな涙が頬を伝う。
これではまるでライン川に命を取られたみたいだ。
締め切り大堤防(アフシユライトダイク)を目にしてから、その人生はひたすら死への行路だったような気がしてならない。ブレーメン行きの電車で出会ったのは『天使』などではなく、英雄に死を告げる戦乙女(ブリユンヒルデ)だったのではないか。神々を破滅から救うため、夫をヴァルハラに連れ去った――。
今はこの壮大な眺めも呪わしい。
なぜ、あの時、口論してでも夫を引き留めなかったのか。
たとえ卑怯者と呼ばれても、生きていて欲しかった。
愛する人をなくして、これから数十年を孤独に生きるぐらいなら、私もライン川に身を投げて、海の果てまで追っていきたい……。
だが、河川敷に息子の姿を認めると、アンヌ=マリーははっと足を止めた。
息子は赤ん坊のように背中を丸め、じっと川向こうを見つめている。まるで魂が抜けたように朦朧とし、夜も眠らず、食事もとらず、父親の後を追おうとしている。
だが、息子が水の底に沈めば、夫の人生まで無駄に終わってしまう。息子こそ夫の命。決して死なすわけにいかない。
アンヌ=マリーの胸に「王者たるもの、いかなる時も強くあらねばならぬ」という祖母の教えが浮かび、涙をぬぐった。
これからは私が父親の分まで導かねば。
アンヌ=マリーは気を取り直すと、息子の方に歩いて行った。
母親の気配に気付くと、ヴァルターは少し振り返り、「もう、ご飯なの?」と訊いた。
「いいえ。まだよ。お腹が空いたの?」
「……お祖父ちゃんのシュニッツェルが食べたい」
「お祖父さまに話して、すぐに支度していただくわ。だから、あなたも帰りましょう。いつまでも川岸にいては身体が冷え切ってしまうわ」
「俺、ずっとここで待ってるんだ。父さんが帰ってきても、すぐに分かるように」
「お父さまはずっとあなたの側にいらっしゃるわ。どんな時も決して離れたりしない」
するとヴァルターはぽろぽろ泣き出し、
「俺も父さんの所に行く……どんなに遠くても、泳いで行きたい。父さんの居ない世界で生きていたくない……」
「今、お父さまの所に行っても、悲しい思いをなさるだけよ。勉強もしてない。サッカーも一番になってない。何もかも放り出して会いに行っても、お父さまは決して喜んだりなさらないわ」
ヴァルターが涙に濡れた顔を上げると、アンヌ=マリーも深く頷き、
「まずは為すべき事を為すの。そうすれば神様が道を作って、必ず海の彼方で会わせて下さる」
「俺は神様なんか信じない。父さんを見殺しにした。一生恨んで、復讐してやる」
「たとえ信じなくても、勉強やサッカーは続けないと。いつかお父さまに会った時、自分の人生を胸張って語れるように。お父さまも仰ったでしょう。いつの日か、昇る朝日に両手を広げ、『これが生だったのか。よし、それならもう一度』と言えたなら、それがあなたとお父さまの魂の幸福だと。あなたが心の底からそう言えた時、お父さまの人生も報われる。神様に復讐しても、お父さまが悲しむだけよ」
ヴァルターは再び膝の間に顔を埋め、「父さん、父さん」と激しく泣きじゃくった。
だが、生ある者は前に進まねばならない。いつまでもこの場にうずくまり、涙に暮れるわけにいかないのだ。
「ヴァルター。フランスに行くわよ」
アンヌ=マリーは心を鬼にして言った。
「どうしてフランスに行くの? 俺、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんと一緒に暮らしたいよ」
「生きていくなら、お母さんにはフランスの方が動きやすいの。何も一生フランスで暮らす必要はない。十八歳になり、自立する力が身につけば、ドイツでも、ネーデルラントでも、好きな所で生きればいい。でも、それまでの数年間、お母さんと一緒にフランスで暮らして欲しいの。しっかり学んで、身体を鍛えて、どこへ行っても通用する立派な大人になるのよ」
「いやだよ、フランスなんか行きたくない。俺、ここで父さんを待ってるんだ」
「ええ、分かってる。あなたにとっては、ここが一番でしょう。だけど、お祖父さまもお祖母さまも、もうお年よ。自分たちの暮らしを支えるだけで精一杯。いつまでも厄介になるわけにいかないのよ。でも、フランスに行けば、お母さんも働ける。生活に必要な手続きも全部自分でこなす事ができる。学業を終えるまでよ、ヴァルター。手に職をつけて、一人前に働けるようになったら、どこでも好きな場所で生きていけばいいから」
一週間後、アンヌ=マリーは息子を連れてコート・ダジュールに出発した。モナコ公国のフォンヴィエイユという小さな港町に移り住む為だ。
飛行機に乗ってからも、息子は両手で顔を覆い、ひたすら泣き続けた。
そんな息子の肩を抱き、アンヌ=マリーも力強く言い聞かせる。
「生きるのよ。私たちは生きていくの」
*33 フランス西海岸、サン・マロ湾に浮かぶ小島。島には修道院が建てられ、カトリックの巡礼地となっている。周囲は潮の干満差が激しく、満潮時には干潟が海に覆われる。
*34 聖ルカの福音書「ゲッセマネの祈り」の一文。引用は『新約聖書 共同訳全注 (講談社学術文庫)』
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