堤防決壊 ・ 父の死を超えて ~私たちは生きていくの

この投稿は、海洋科学、鉱業、建築・土木をテーマにしたフィクションです。詳しくは作品詳細をご参照下さい。


第一章 運命と意思 ~ローエングリン -決壊- (5)
STORY
アンヌ=マリーと息子のヴァルターはアントウェルペンに向かうが、ホテルのTVに映し出されたのは故郷の締切堤防が決壊した映像だった。父グンターから連絡もなく、生存は絶望的となる。ヴァルターは嘆き悲しみ、父の後を追おうとするが、アンヌは「私たちは生きていくのよ」と励ます。

ヴァルターとアンヌ=マリーを乗せたバスは混み合う自動車道を抜け、二つの大運河を渡って、危険地域から抜け出した。西沿岸の高速を通り、州の避難所のあるローゼンダールに向かおうとしたが、突然、沿道のガソリンスタンドに立ち寄ると、方向転換を始めた。

「沿岸の高速も国道も交通規制がしかれ、作業用トラックや緊急車両が優先になっています。至る所で大渋滞が発生し、このままでは今夜中に到着しそうにありません。少し遠回りになりますが、安全の為、いったんベルギーに入りましょう。内陸の地方道を通って東回りにアクセスすれば、混乱も少ないはずです」

遠回りといっても、ほんの十数キロ、東に迂回するだけだ。運転手の説明に乗客も納得し、各自モバイルフォンを取り出して家族にテキストメッセージを打ったり、天気や道路情報を確認し始めた。

その時、アンヌ=マリーが立ち上がり、

「ベルギーの国境を越えるなら、私たちだけアンヴェルスの近くで降ろして頂けませんか」

「アンヴェルス?」

「アントウェルペンです」

「構いませんが、市内には行きませんよ」

「了解しています」

アンヌ=マリーが再びシートに腰を下ろすと、ヴァルターは母に耳打ちした。

「どういうこと? ローゼンダールに行かないの?」

「何かあった時、お母さんはベルギーの方が動きやすいの。フランス語を話す人がたくさんいるから。カールスルーエに行くなら、アントウェルペンからブリュッセルに抜けて、そこから飛行機でアクセスした方が確実だわ。この調子だと、あと数日はどこも大混乱だし、ローゼンダールの避難所に行っても、そこから空港に向かうのはまた一難でしょう。それより、どんなルートを使っても、一日も早くカールスルーエに着いた方がいい。その方がお父さまも義両親も安心なさるはずよ」

母に諭され、ヴァルターも不安な気持ちを落ち着かせる。

これは一夜の悪夢だ、日が昇る頃には何もかも元に戻っているはずだ――。

自分に強く言い聞かせながら、左手のダイバーズウォッチを強く握りしめた。

アンヌ=マリーはアントウェルペンに向かう国道の三叉路でバスを降りると、タクシーを拾って長距離バスのバス停に向かった。

定員二十名のマイクロバスは、ブリュッセル市内まで約六十キロの道程を半時間ほどで走り抜けると、煌々と明かりの灯るバスターミナルに到着した。

ここまで来ると雨もなく、夜空にはぽつぽつと星が瞬いている。夫からはまだ何の連絡もなく、堤防がどうなっているか知る術もないが、この様子だと一夜限りの狂乱ではないか。アンヌ=マリーはインフォメーションカウンターに立ち寄って安価なホテルを予約すると、息子にルームサービスの軽食を食べさせ、入浴を済ませてベッドに横になるよう言い付けた。

息子はTVを見たがったが、「明日の朝早く、お父さんから電話が入るかもしれないわよ」と言うと、納得してバスルームに向かった。

その間にもう一度、夫の携帯電話にコールするが、「電源が切れているか、電波の届かない所にいます」という自動応答だけで、何の返事もない。夜を徹しての作業が続き、電話に出る余裕もないのだろう。あるいは本当に電源が切れてしまったか。

だが、あと数時間もすれば夜も明けて、必ず連絡があるはずだ。星があんなに綺麗に瞬いているのだから――。

*

それから、まんじりともしないで夜を明かし、ナイトテーブルの携帯電話に手を伸ばすと、まだ何の通知もない。ヴァルターも目を醒ましたのか、シーツから顔を出し、「父さんから連絡はあった?」と訊く。

「いいえ、まだ朝の六時だもの。きっと、くたくたに疲れて、何所かで休んでおられるのよ。とにかく出掛ける準備をしましょう。九時に空港行きのバスが出るわ」
アンヌ=マリーはバスルームに行くと、軽くシャワーを浴びて、着替えを済ませた。

乾ききらぬ髪をタオルで拭きながらバスルームのドアを開くと、ヴァルターがベッドに腰掛け、食い入るように壁掛けテレビを見つめている。

その異様な光景にアンヌ=マリーも釘付けになった。

フェールダム北側の盛土堤防が高潮によって無残に破壊され、農地も住宅地も完全に水没している。しかも、その続きにあるコンクリートの締切堤防までもが真ん中の辺りで幅二〇メートルに渡って決壊し、茶色い濁水がジェット噴射のように干拓地に流れ込んでいる。

ヴァルターは恐る恐る後ろを振り返り、
「母さん、これフェールダムの締切堤防だよね……」
と声を震わせる。

取材ヘリは水没した干拓地の上空を何度も旋回し、屋根の上で救助を待つ人や、今にも倒壊しそうな橋梁、ゴミのように流れていく家屋を次々に映し出す。

「あの人は……あの人はどうなったの……」

アンヌ=マリーは夫の携帯電話に何度もダイヤルするが自動応答のままだ。カールスルーエにも電話を入れ、行き違いになってないか尋ねたが、やはり何の音沙汰もない。「一体どういうことなの。あの子は何所に居るの。なぜ一緒に避難しなかったの」と義母も半狂乱だ。

ざあっと全身の血が引き、治水局、消防署、警察署、思いつく限りに電話をかけたが、どこも回線が混み合っているのか、なかなか繋がらず、やっと繋がっても「公式の発表を待て」とあしらわれ、個人の安否を確認できる状態ではない。

次いで、グンターの友人やサッカークラブの関係者にも電話を入れたが、不通だったり、相手もパニックになっていたり、誰もがショックと混乱の只中にある。

「母さん、父さんは何処へ行ったの……。どうして何の連絡もくれないの……」

「すぐにテレビを切りなさい。そして朝食を食べるの。とにかくカールスルーエに行くわよ」

自らも足元が崩れそうになるのを必死で堪えながら、一階のカフェテリアで息子に軽い朝食を食べさせ、五〇〇メートル先のバス停に向かった。 

バスの中でもヴァルターは口もきけないほどショックを受け、茫然と彼女の肩にもたれている。アンヌ=マリーも息子の手をしっかり握りしめながら様々に思い巡らせる。

きっと携帯電話のトラブルだ。電源が切れたか、電話機を水に落としたか。あるいは電話回線がパンクしているか。

それとも怪我をして、どこかの病院に運ばれたのかもしれない。連絡を取りたくても、携帯電話もなく、医師も看護師も目が回るような忙しさで、ベッドから起き出すこともできず……。

それでもカールスルーエに着く頃にはメールか電話で連絡がつき、「無事でよかった」と皆で肩を抱き合っているはずだ。あれほど善良な人を神様が見捨てるはずがない。

*

その夜遅く、カールスルーエの家に到着し、ひとまず暖を得た。

居間のTVは珍しく付けっぱなしで、義両親も憔悴しきっている。

フェールダム及びゼーラント州沿海の大部分が浸水もしくは冠水。何千という家屋の損壊。道路の陥没。土壌流出。ガス・電気などライフラインの破損など、時間が経つにつれ、甚大な被害が浮き彫りになる。

翌朝、フェールダムの湖畔で、カーキ色の作業着を着た男性の遺体が収容された時には目の前が真っ暗になったが、それは夫ではなく、牛舎と田畑を守ろうとして逃げ遅れた農家の主だった。その他にも交通事故、落水などで死傷者が出ており、TV画面にテロップが流れる度、心臓の凍る思いがする。
ヴァルターはずっと二階のグンターの部屋にこもりきりだ。義母がカモミールティーを飲ませ、ベッドに休ませているが、ずっと「父さん、父さん」と泣きじゃくっている。

一方、義父はハンブルクの弟やミュンヘンの義家族と手分けして、あちこちの病院に電話をかけ、災害対策本部の公式情報を分刻みで追っているが、未だ何の手がかりも得られない。

二日目が暮れようとした頃、ようやく治水局の同僚からメールを受け取った。だが、それは再会の望みを完全に打ち砕くものだった。

同僚の話では、最後まで締切堤防に残ったのは三十名。

午後九時過ぎ、全員待避の決定が下され、体調の悪い者や高齢者から順々にミニバンで現場を離れたが、夫を含む七名が堤防に取り残され、迎えに行ったミニバンの運転手とも全く連絡が取れないという。周囲の状況からミニバンもろとも濁流に呑まれた可能性が高く、ついさっき、一人の作業員の遺体が海岸で収容されたとのことだ。

そうして三日経ち、四日経ち、五日目の朝を迎えると、再会の願いは、指一本、髪の毛一筋でいいから取り戻したいというものに変わっていった。だが、あれから作業員の遺体が収容されたという話はなく、ミニバンの運転手も見つかっていない。

六日目にはフェールダムの天候も回復し、水位も下がって、再び干拓地が姿を現したが、もはやそこに緑はなかった。毎日のように夫と散歩した小路も、ベビーカーを押して歩いた締切堤防の遊歩道も、牛がのんびり緑を食んでいた牧草地も、何もかも濁流に押し流され、辺り一面、大量の堆積物や瓦礫で埋め尽くされている。かろうじて水没から逃れた場所も、深刻な塩害によって、向こう数十年は草一本生えないだろうと言われ、水道、電気、ガスなどライフラインもずたずただ。

息子にはTVもインターネットも見せず、簡単に状況だけ伝えているが、何もかも理解したのだろう。ある朝、掛け布団から顔を出して、ぽつりと言った。

「みんな流されたんだね」

*

それから数週間が経ち、アンヌ=マリーは現実を悟ると、夫の死亡届を提出した。

こうなれば一刻も早く身辺を整理し、生活を立て直すしかない。息子の将来の為にも、泣いて立ち止まっている暇はない。

最悪の冬が過ぎ、カールスルーエにもチューリップの季節が訪れると、アンヌ=マリーは、一人でライン川の河川敷に出掛けた息子の後を追って、川沿いの遊歩道を下った。

カールスルーエに来た時、夫とよくこの道を散歩した。

慣れない異国暮らしに疲れを感じることはあっても、夫に付いてきたことを後悔したことは一度もない。息子の言葉の問題に苦しんだ時も、家族の団居にはいつも愛があった。

だが、その夫ももういない。

沈みゆく夕陽を見ながら、地上から夫の気配が完全に消えたことを痛感する。

「子供の頃、よくこの河川敷を散歩して、ライン川の向こうに思いを馳せたものだ。ラインの乙女と川底の黄金。神の娘が眠る火の山。ギービヒ家の館。僕の父は『低地(ニーダーランド)』と呼んで好まなかったけど、僕はいつもこの川向こうにジークフリートの冒険やローエングリンの旅路を思い描いていた。ワーグナーが『神々の黄昏』で描いたライン川も、こんな風に夕陽に照らされ、燃えるような黄金色に輝いていたんだろうね」

夫の優しい笑顔が脳裏に浮かび、新たな涙が頬を伝う。

これではまるでライン川に命を取られたみたいだ。

締め切り大堤防(アフシユライトダイク)を目にしてから、その人生はひたすら死への行路だったような気がしてならない。ブレーメン行きの電車で出会ったのは『天使』などではなく、英雄に死を告げる戦乙女(ブリユンヒルデ)だったのではないか。神々を破滅から救うため、夫をヴァルハラに連れ去った――。

今はこの壮大な眺めも呪わしい。

なぜ、あの時、口論してでも夫を引き留めなかったのか。

たとえ卑怯者と呼ばれても、生きていて欲しかった。

愛する人をなくして、これから数十年を孤独に生きるぐらいなら、私もライン川に身を投げて、海の果てまで追っていきたい……。

だが、河川敷に息子の姿を認めると、アンヌ=マリーははっと足を止めた。

息子は赤ん坊のように背中を丸め、じっと川向こうを見つめている。まるで魂が抜けたように朦朧とし、夜も眠らず、食事もとらず、父親の後を追おうとしている。
だが、息子が水の底に沈めば、夫の人生まで無駄に終わってしまう。息子こそ夫の命。決して死なすわけにいかない。

アンヌ=マリーの胸に「王者たるもの、いかなる時も強くあらねばならぬ」という祖母の教えが浮かび、涙をぬぐった。

これからは私が父親の分まで導かねば。

アンヌ=マリーは気を取り直すと、息子の方に歩いて行った。

母親の気配に気付くと、ヴァルターは少し振り返り、「もう、ご飯なの?」と訊いた。

「いいえ。まだよ。お腹が空いたの?」

「……お祖父ちゃんのシュニッツェルが食べたい」

「お祖父さまに話して、すぐに支度していただくわ。だから、あなたも帰りましょう。いつまでも川岸にいては身体が冷え切ってしまうわ」

「俺、ずっとここで待ってるんだ。父さんが帰ってきても、すぐに分かるように」

「お父さまはずっとあなたの側にいらっしゃるわ。どんな時も決して離れたりしない」

するとヴァルターはぽろぽろ泣き出し、

「俺も父さんの所に行く……どんなに遠くても、泳いで行きたい。父さんの居ない世界で生きていたくない……」

「今、お父さまの所に行っても、悲しい思いをなさるだけよ。勉強もしてない。サッカーも一番になってない。何もかも放り出して会いに行っても、お父さまは決して喜んだりなさらないわ」

ヴァルターが涙に濡れた顔を上げると、アンヌ=マリーも深く頷き、

「まずは為すべき事を為すの。そうすれば神様が道を作って、必ず海の彼方で会わせて下さる」

「俺は神様なんか信じない。父さんを見殺しにした。一生恨んで、復讐してやる」

「たとえ信じなくても、勉強やサッカーは続けないと。いつかお父さまに会った時、自分の人生を胸張って語れるように。お父さまも仰ったでしょう。いつの日か、昇る朝日に両手を広げ、『これが生だったのか。よし、それならもう一度』と言えたなら、それがあなたとお父さまの魂の幸福だと。あなたが心の底からそう言えた時、お父さまの人生も報われる。神様に復讐しても、お父さまが悲しむだけよ」

ヴァルターは再び膝の間に顔を埋め、「父さん、父さん」と激しく泣きじゃくった。

だが、生ある者は前に進まねばならない。いつまでもこの場にうずくまり、涙に暮れるわけにいかないのだ。

「ヴァルター。フランスに行くわよ」

アンヌ=マリーは心を鬼にして言った。

「どうしてフランスに行くの? 俺、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんと一緒に暮らしたいよ」

「生きていくなら、お母さんにはフランスの方が動きやすいの。何も一生フランスで暮らす必要はない。十八歳になり、自立する力が身につけば、ドイツでも、ネーデルラントでも、好きな所で生きればいい。でも、それまでの数年間、お母さんと一緒にフランスで暮らして欲しいの。しっかり学んで、身体を鍛えて、どこへ行っても通用する立派な大人になるのよ」

「いやだよ、フランスなんか行きたくない。俺、ここで父さんを待ってるんだ」

「ええ、分かってる。あなたにとっては、ここが一番でしょう。だけど、お祖父さまもお祖母さまも、もうお年よ。自分たちの暮らしを支えるだけで精一杯。いつまでも厄介になるわけにいかないのよ。でも、フランスに行けば、お母さんも働ける。生活に必要な手続きも全部自分でこなす事ができる。学業を終えるまでよ、ヴァルター。手に職をつけて、一人前に働けるようになったら、どこでも好きな場所で生きていけばいいから」

一週間後、アンヌ=マリーは息子を連れてコート・ダジュールに出発した。モナコ公国のフォンヴィエイユという小さな港町に移り住む為だ。

飛行機に乗ってからも、息子は両手で顔を覆い、ひたすら泣き続けた。

そんな息子の肩を抱き、アンヌ=マリーも力強く言い聞かせる。

「生きるのよ。私たちは生きていくの」

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