
それほどまでに人の努力を嘲笑い、意のままにはさせぬというなら、運命よ。お前の好きにさせてやる。生かすも殺すも、お前の好きにすればいい。
MORGENROOT -曙光
人間の意思より運命が強いというなら、運命よ。お前の望み通りになってやろうじゃないか
第1章 運命と意思 ~オランダ人船長・亡魂(3)
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黄昏の日がライン川の岸辺を照らす中、彼と母は今一度、墓所を訪れ、祖父と祖母、そして父の三つの墓碑と向かい合った。
一度は止んだ雪が再びちらつき、幾度となく頬を濡らすが、それが寒さのせいか、悲しみのせいかは分からない。空っぽの父の墓と同じく、自分の中も洞然として、雪の中に無言で立ち尽くすだけだ。
彼は父の墓前に膝をつくと、「父さん」と呼びかけた。
もはや自分に道を示してくれる人もなければ、心を慰めてくれる人もない。陽が沈めば、明日も同じ陽が昇ると無邪気に信じていたが、そんな朝が来ることは永久にない。
せめて帰る場所があれば、やり直す気力も湧いただろうが、もはや故郷にすら彼の居場所はなく、仕事もなく、世界中から見捨てられたみたいに水底に転がっている。
こんな時、父が生きていたら、どれほど救いになったことか。だが、父は死に、祖父も死んだ。天にも地にも道はなく、惨めに打ちひしがれる己だけがいる。社会的にも過ち、故郷の人々を失望させて、まだどんな生きる価値があるというのだろう。
「もう一度」なんか要らない。
永久に目を閉じて、この生から降りてしまいたい。
彼が地に突っ伏すと、母は慌てて彼の背中を抱き、
「いったい、どうしたの? フェールダムで何かあったの? 『上手にプレゼンテーションできて、二位だった』とあんなに誇らしげに語っていたのに。ヤンと喧嘩でもしたの?」
「……」
「潜水艇の仕事もしないのなら、一緒にマルセイユに帰りましょう。しばらく何も考えずに、気持ちを落ち着けるの。美味しいものをお腹いっぱい食べて、ゆっくり身体を休めれば、意欲も湧いてくるわ。海の仕事も世界中にあるのよ」
彼は一瞬、母の言葉に頷きかけたが、
「ジャンもいつまでも根に持つ人ではないわ。あなたも形だけでも謝って、あの家に置いてもらうの。そうすれば、きっと新しい道が見つかる……」
その瞬間、彼は弾かれたように顔を上げた。
「あれは俺の家じゃない。あんな奴に頭を下げるぐらいなら、死んだ方がましだよ」
「こんな時まで意地を張らないで。今あなたに必要なのは、安心して休める場所よ。どれほど強い翼を持っていても、傷ついたまま遠くに飛ぶことはできないわ。マルセイユにも故郷にも戻らず、一体どこに行くつもりなの?」
だが、彼は立ち上がり、母の腕を掴むと、門前で待つタクシーに連れて行った。
「母さんは車に乗れ。俺はバス停まで歩いて行く」
「お願いだから無茶しないで。あなたを見ていると、まるで我と我が身を火で焼こうとしているみたい。そんな自暴自棄で何ができるの。少しでいいから、私の側で羽を休めて。これ以上、遠くに行かないで」
「母さん、俺は生きる為に遠くに行くんだよ」
彼は母の身体を後部座席に押し込むと、運転手に発進させた。車が遠ざかると、彼は顔を拭い、墓所を後にした。
運命よ。お前の好きにさせてやる
それから何処をどう歩いてバス停まで辿り着いたか分からない。辺りは夜闇に包まれ、深い雪が降り積もっている。
彼は風雪をしのぐ為にアクリル製の待合ブースに入り、樹脂ベンチに腰を下ろしたが、ほとんど防寒の役に立たず、足先から、首筋から、冷気が入り込んでくる。
バス停には入れ替わり立ち替わりに人がやって来て、十五分毎にやって来るローカルバスに次々に乗り込んでゆくが、一時間経ち、二時間経ち、夜も更けると、バスの本数もまばらになり、乗客の姿も途絶えた。
彼はアクリルパネルに身をもたせかけ、じっと寒さに耐えていたが、先ほどから身体の震えが止まらず、筋肉も痛む。マフラーの湿気から、まだ自分が息をしていることだけは分かったが、すでに爪先の感覚はなく、頭の芯もぼんやりしている。
ふと夜空を見上げると、雲の隙間から蒼い月が心配そうにこちらを見ている。
「運命愛だよ、ヴァルター。己が人生を愛せ」
どこからともなく父の声が聞こえ、最後の希望の光のように道の向こうを照らす。
だが、この忌まわしい巡り合わせを、どうやって愛せというのか。
洪水の話になった時、一番不愉快なのが「運命だった」という言葉だ。堤防が決壊したのも運命なら、父が死んだのも運命で、人の意思でどうこうできるものではないから諦めろというわけだ。
だが、物事の成否も、人間の生死も、運命で決まるなら、人間が意思をもって生きる意味など皆無ではないか。
運命(フォルトゥナ)。
姿もなく、影もなく、気まぐれに人生を弄ぶ。
運命の前には、人間の意思など何の役にも立たず、必死の願いも無残に打ち砕かれる。
それほどまでに人の努力を嘲笑い、意のままにはさせぬというなら、運命よ。お前の好きにさせてやる。生かすも殺すも、お前の好きにすればいい。
これまで、どれほど苦しくとも、人生の舵から決して手を離したことはなかった。どんな時も、強い意思をもって、幾多の波を乗り越えてきた。
だが、その根比べも終わりだ。
人間の意思より運命が強いというなら、運命よ。お前の望み通りになってやろうじゃないか。
彼は再び瞼を閉じると、二度と帰らぬ団居を思い浮かべた。
父の優しい笑顔に、母の手作りのご馳走。家に帰れば、鍋にたっぷりのフォン・ド・ヴォーが香り、庭先には美しい花が咲き乱れていた。最後のマッチが消えて、次に瞼を開いた時、父の顔が目の前にあれば、どれほど幸福かしれない。
ようこそ! みなみのうお座とフォーマルハウト
そうして、アクリルパネルに身をもたせかけたまま、うつらうつらし、今度こそ本当に気が遠のきかけた時、眩しい光が彼の目を射た。天国の光ではなく、長距離バスのヘッドライトだ。
バスは彼の目の前で停車すると、サイドトランクを半開きにした。
「遅れてすまない。なにせ、この大雪でね」
小太りの運転手が謝罪しながら、彼の足元に置かれたアーミーバッグと折りたたみ自転車をサイドトランクに運び込んだ。
バスの車体には「Rhein-Omni-Bus(フランクフルト空港行き)」と記されている。
「乗るなら早くしてくれ」
運転手に急かされ、彼は一瞬迷ったが、窓越しに白いカバーのかかった快適なリクライニングシートが見えると、誘われるように腰を浮かせた。
だが足に力が入らない。
すると運転手が彼の身体を抱きかかえて、乗り口まで連れて行ってくれた。
「ずいぶん凍えてるな。だがバスの中は暖かい。ココアでも飲めば、すぐに身体もしゃんとする」
バスの中はとろけるような暑さだった。暖房がよく効き、ルームライトが眠る乗客の顔をやさしく照らしている。車中にはセルフサービスのドリンクバーもあり、彼はココアを紙コップに注ぐと、両手を温めるようにして後部座席に着いた。
ほろ苦いココアとふかふかのリクライニングシートのおかげで、たちまち体中に温かい血が通い出し、胸の痛みも和らいだ。さっきまで(どうなってもいい)と思っていたが、身体がしゃんとすると、本能的に生きる方に気持ちが向かう。
だが、この先、何所に行けばいいのか――。
彼は軽くリクライニングを倒し、うつらうつらしていたが、一時間ほどでフランクフルト空港に到着すると、乗客はみな地下駐車場で下ろされた。
仕方なく搭乗フロアに上がり、通路脇のスチール製のベンチに腰を下ろしたが、午前一時を過ぎ、サービスカウンターも閉まっている。アーミーバッグを枕にベンチに横になったが、ほどなく警備員に肩を叩かれた。
「ホームレスか?」
彼はあわてて否定したが、
「だったら、向こうの待合室に行くんだね。ここも年末から取り締まりが厳しくなって、チケットの無い者の寝泊まりは固く禁じられている。泊まりが必要ならエアポートホテルに、そうでないなら然るべき施設に行くことだ。あそこの掲示板に市の救済サービスの連絡先が書いてある」
彼は仕方なくバッグと自転車を携えて待合室に移動したが、待合室の入り口にはカードリーダー付のドアロックが施され、チケット無しに入室することはできない。
振り返ると、さっきの警備員が無線機を片手にじーっと様子を窺っており、彼はチケットを買う振りをして、フロア中央にある自動応答のトラベルカウンターに足を向けた。
カウンターはタッチ機能付き液晶ディスプレイとキーボードを備えた二つのブースからなり、フライトスケジュールの確認やチケット購入、宿泊の手配ができるようになっている。
右側のブースはすでに初老の男性が使用中で、彼は左側に回ったが、モニターは暗転し、「現在サービスは休止中です。午前六時までお待ちください」のメッセージが表示されている。
仕方なく初老の男性の後ろに並んだが、男性は操作が分からないのか、入力しては訂正し、訂正しては最初からやり直し、いらいらとパネルを叩いている。
そのうちパネルに向かって自国語で毒づき、ぷりぷりしながらその場を立ち去った。
何事かとパネルを覗き込むと、『Trivia Star Line(トリヴィア・スターライン)』の購入手続きの画面が開きっぱなしになっている。聞き慣れない航空会社の名前だと思い、手続きの画面を閉じようとするが、中欧の言語で表示されている為、さっぱり分からない。多分、この赤いボタンが「キャンセル」だろうと思い、一か八かで長押しすると、突然画面が切り替わり、ドイツ語のコマーシャルが流れ始めた。
「Trivia Star Lineへようこそ! 極上の宇宙旅行はいかがですか? 睡眠装置付の快適なスーパーリラックスシート、一流シェフがプロデュースする機内食。シネマ、室内楽、イオン風呂、マッサージなど、様々なオプションに加え、ビジネストリップにも最適なオフィスサービスをご用意しています……」
再び画面が切り替わり、Trivia Star Lineが誇る最新式の恒星間旅客船《フォーマルハウトⅤ》が大写しになった。
その機体に描かれた『魚』のシンボルマークに見覚えがある。向かい合う二匹の魚と、二匹を結ぶ金色のリボン。ジーザスフィッシュ(イクテュス)のようにも、双魚宮のシンボルにも見えるマークは、母が大事に隠し持つ黄金プレートに刻まれた魚のロゴとまったく同じだ。
十三歳の誕生日に一度だけ見せてもらったことがある。
「フォーマルハウト。これが私の紋章。あなたのシンボルはレグルス。獅子座の心臓よ。だけど、これは秘密の合い言葉なの。誰にも言ってはいけないのよ」
「どうして?」
「『ニーベルングの指輪』と同じよ。人間は器を超えた力を手にすると、自分を見失うの。黄金の指輪を独り占めしようとしたファーフナーは兄のファーゾルトを殺害し、ジークフリートはハーゲンの槍に背中を突かれて死ぬでしょう。どれほど賢いつもりでも、富や権力の誘惑には抗えない。お父さまのように、真に高貴と呼ぶにふさわしい精神が身に付いたら、その時に教えてあげる」
さらに動画は《フォーマルハウトⅤ》の目的地である惑星トリヴィアの首都エルバラードを映し出した。
荒涼とした大地にモダンな高層ビルが林立し、さながら宇宙のラスベガスのように光り輝いている。摩天楼はマンハッタン区の何十倍もの規模で、人の住む町というよりは、富と権力の映し鏡のようだ。宇宙開発の初期、我先に未開の土地を手に入れ、投資と利権で大儲けした人たちが現代の王城を築き、宇宙に広がる領土や産業を我が物にしていると聞いたことがあるが、これがそうなのか。
だが、彼の目を釘付けにしたのは、その先に広がる壮麗なインダストリアルパークだ。オフィス、工場、倉庫、エネルギープラント、廃棄物処理施設までもが巨大な集積回路のように整然と立ち並び、不夜城のような光芒を放っている。それも鉄のジャングルみたいな殺風景ではなく、ガラス張りのエコ型工場、花壇と人工池に彩られたグリーン・オフィス、モダンアートみたいなラッパ状の煙突など、見た目もユニークだ。町中にはライトアップされた人工河川が流れ、カラフルなロボット配送車がラジコンのオモチャのように建物の間を走り回っている。
コマーシャルの最後には、ギリシャ風の衣装をまとった金髪美女が長い髪をなびかせ、「Willkommen in der Neuen Welt (新世界へようこそ!)」と手招きした。
なんとなく興味が湧いて料金を調べてみれば、エコノミークラスでもべらぼうに高い。法人チケットのビジネストリップは七割近くまで値引きされているのに、一般人の渡航は国際ビジネスクラス並みの料金がする。
彼の脳裏に「壮大な無駄遣い」という言葉が浮かび、購入ボタンを押すのが躊躇われたが、いつかまた就職したら、宇宙旅行など到底叶わない。どうせ行く当てもなく、先の目途も立たないなら、宇宙の果てまで行ってやろうか――。
彼は運命のルーレットを回す気分で往復チケットを購入すると、早朝、搭乗カウンターで手続きを済ませ、半透明のカード型チケットを受け取った。前の男性の操作を完全にキャンセルせず、中途半端に購入手続きをしたが為に、後日、システムエラーによるダブルブッキングで足止めを食らうとは夢にも思わない。
午前十時、小型機で北海南端の海上宇宙港『ユーロポート』にアクセスし、午後五時、メインゲートからTrivia Star Lineの《フォーマルハウトⅤ》に乗り込む。
シースルーの風防で覆われたエスカレーターを上がり、搭乗口の手前で振り返ると、西の空が燃えるような黄金色に輝いている。一瞬、これが見収めのような予感がして足がすくんだが、乗りかけた運命の船だ。最後まで行くしかない。
やがてエンジンが点火し、全身に軽いショックを覚えると、みるみる大地が遠ざかり、はるか後方に海の星(ステラマリス)が見えた。
それは二度と戻ることのない、故郷の幻影のようだった。
【コラム】 『運命と意思』について
本作のテーマは一貫して『運命と意思』です。
運命の象徴がMIGのアル・マクダエルであり、意思の象徴がヴァルター・フォーゲルです。アル(運命)がヴァルター(意思)に目を付け、運命のスロットルを回す。その結果がどうなるかは、意思=ヴァルター次第です。
アルの「運命と意思は争わない」という言葉通り、運命と意思は対決するものではありません。歯車と車軸のように、二つが一体となって作用するものです。
本作では、意思の塊みたいなヴァルターが、ついに苦難に負けて、
これまで、どれほど苦しくとも、人生の舵から決して手を離したことはなかった。どんな時も、強い意思をもって、幾多の波を乗り越えてきた。
だが、その根比べも終わりだ。
人間の意思より運命が強いというなら、運命よ。お前の望み通りになってやろうじゃないか
と、意思という人生の舵から手を離します。その瞬間、運命の車輪が回り始めて、アルとの接点が出来ます。
行くところまで行って、それ以上進めなくなったら、人生の舵から手を離し、運の流れに任せてみるのも一つの智恵かもしれません。
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