第1章 運命と意思 ~オランダ人船長・漂流(6)
だとしても、グンターはそれを許せる人間だ。
MORGENROOD -曙光
それが愛というものだよ.。
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祖父との再会 ~それが愛というもの
商船学校は楽しかった。
大好きな海と船の講義なら、砂に水が染み込むように頭に入る。動力エンジンや操舵パネル、通信機器など、機械いじりも刺激的だ。いつかアルベール一世やジャック=イヴ・クストーのように世界中の海を旅して回りたい。
母は週に一度、面会に訪れたが、ほとんど話すこともなく、半時間で別れた。時々、余計な小遣いを持たせようとしたが、それも突き返した。ジャン・ラクロワの息のかかったものは一銭たりと受け取りたくなかった。
学費は奨学金と父が遺してくれた貯蓄でまかなった。小遣いは倉庫の検品や梱包作業、公共施設の清掃など単発のアルバイトで稼ぐ。欲しい物といえばパソコンと自転車のアクセサリーぐらい。月に一度、レストランで濃厚なブイヤベースをお腹いっぱい食べられたら満足だった。
クリスマス休暇には、初めて一人でカールスルーエの祖父を訪ねた。
彼も十六歳になり、バスや飛行機を自分で乗り継ぐことができる。
祖父も孫の為に大人の顔ほどあるシュニッツェルを作り、高級菓子店から大好物のバームクーヘンとアーモンドシュトレンを取り寄せて、手厚くもてなしてくれた。
クリスマスにはハンブルクの叔父やミュンヘンの親族もやって来て、久しぶりに家族の団らんを楽しんだ。自分にとって本当に家族と言えるのは父方だけだ。彼の頑固で激しい気性もそれなりに理解してくれて、余計で肉親の温もりが身にしみる。
あっという間に休暇も過ぎ、マルセイユに帰る前日の夕方、祖父と二人でライン川の河川敷を散歩した。黄金色に輝く空の下、悠々と流れるライン川を見ていると、その先にあるフェールダムを思い出す。
水に沈んだ田畑や運河沿いの家はどうなっただろう。
父が命懸けで守ろうとした締切堤防は?
川縁のベンチで涙を拭うと、祖父は皺だらけの大きな手で彼の頭を撫で、
「泣きたい時は思い切り泣けばいい。父親を亡くした悲しみなど、一、二年で癒えるものではない。まして突然の別れだった。子供に耐えられるものではない」
と慰めてくれた。
祖父の肩にもたれ、ひとしきり泣いた後、「お祖父さん、俺はとても悪い子なんだよ」と胸にたまったものを打ち明けた。
どうしても母と上手くやれないこと。
上級生に誘われて薬物を口にしたこと。
今も心の奥底で父の行動が納得できず、恨みがましい気持ちを抱き続けていること。その為にずっと罪悪感に苛まれていること……。
祖父は黙って彼の話に耳を傾けていたが、
「だとしても、グンターはそれを許せる人間だ。それが愛というものだよ」
と静かな口調で答えた。
「グンターはわたしの自慢の息子だった。幼い時から真っ直ぐで、思慮深く、時に優柔ではあったが、卑怯者だったことは一度もない。きっと、あの晩もぎりぎりまで迷っただろう。君やお母さんと一緒に逃げたいと願ったはずだ。だが、最後には堤防を守りに戻った。なぜか? それがグンター・フォーゲルという人間だからだよ。理屈ではなく、そういう魂に生まれついた。きっと何度生まれ変わっても、同じ道を選ぶだろう。だから君も父親を信じなさい。それだけが君を正しい方向へ導く」
帰路に就く頃には気持ちも和らぎ、お土産のバームクーヘンを紙袋いっぱいに抱えて空港行きのバスに乗り込んだ。「何かあったら、いつでも訪ねてきなさい」という祖父の言葉に励まされ、彼にも一つだけ帰る場所があることを実感する。
自立への道
マルセイユに戻ると、いっそう勉学に打ち込んだ。
航海実習、実技研修、定期試験と、息つく暇もなく忙しいが、どれも実用的で、やり甲斐がある。将来の必要性を考えて、英語、コンピュータ、理数の強化クラスも受講し、身体の鍛練を兼ねてサッカーも再開した。
ある時、実習を見学に来た校長に呼び止められ、「なぜ君はもっと大きな声で話さないのか」と指摘された。子供の頃から「鼻づまり」とからかわれ、ここでもフランス語が上手く発音できず、どうしても萎縮してしまうと答えると、校長はふむふむと頷き、
「だが、船乗りになるなら、それでは不適格だ。緊急事態の時、君は明瞭な声で乗務員や乗客に指示を出す必要がある。右か左か決められず、口の中でもごもご言うようでは、航海士としての務めはとても果たせないよ」
彼は納得し、校長の勧めで再びスピーチセラピーに通い始めた。いつかアルベール一世のように大海に乗り出す夢を思えば、言葉のコンプレックスなど微々たるものだ。
《強くなってやる》
そう、誰よりもだ。
鋼みたいな巨人になって、もう二度と苦しんだりしない。どんな荒海も乗り越え、無敵の人生を生きるのだ。
そうして、最初の一年が夢中で過ぎ、十六歳の誕生日が近づくと、彼はたまたま通りかかった旅行会社の広告に目が釘付けになった。コルシカ島ポルト湾に広がる壮大な断崖絶壁だ。
コルシカ島のポルト湾の奇岩群は、「ピアナのカランケ、ジロラータ湾、スカンドーラ自然保護区を含むポルト湾」として世界遺産にも登録されている名勝だ。切り立つような断崖と、青く輝く内湾のコントラストが絵画のように美しい。
その風景は、父がよく話していた『海に向かう巨人』の舞台を思わせた。昇る太陽に向かい、「これが生だったのか。よし! それならもう一度」と叫ぶ物語だ。
今もその意味は理解できないが、この世の果てみたいな断崖絶壁には興味がある。
それにコルシカ島はちょっとした聖地でもある。
フォンヴィエイユに移って間もない頃、学校でフランス語の発音を馬鹿にされ、ひどく落ち込んだことがあった。
すると母がナポレオンの学生時代の逸話を教えてくれた。
フランス皇帝で名高いナポレオン・ボナパルトはコルシカ島の出身だ。コルシカ島は地中海に浮かぶ小さな岩石島ながら、フランスを相手に独立をかけて戦った。コルシカ島に生まれたナポレオンは、父の意向に従い、フランスの陸軍幼年学校で学んだが、無口で小柄なナポレオンはコルシカ訛りを馬鹿にされ、ナポレオーネという本来の名前をもじった「ラパイヨネ (la paille au nez 藁の鼻)」というあだ名を付けられ、級友らに苛められた。
だが、その後の活躍は言わずもがな。欧州列強を次々に撃破し、フランスの英雄となった。人生後半の凋落はともかく、どれほど周りに馬鹿にされても、己を奮い立たせ、あれだけの事を成し遂げた点には見習うものがある。誕生日も彼と同じ、八月十五日だ。
だが、ツアーの詳細を見ると、けっこうな値段がする。
そこで彼は実入りのいいアルバイトを求めて、例の船会社――彼が突堤で負傷した時、手当てしてくれた人のオフィスを訪ねることにした。
彼の動機に理解は示したものの、「あいにく、うちは高校生のアルバイトは雇わないんだ。だが、小遣いが欲しいなら、社長に聞いてみてはどうだ。クルーザーの掃除をしてくれる人を探してるんだ。前に業者に頼んだら『値段の割に雑だ』と立腹してたから」
それで彼は社長の所に行き、商船学校の学生証を見せ、「掃除なら得意です。子供の頃から、『土曜の朝は家族で掃除』と躾けられてきました。船の勉強にもなるので、ぜひやらせてください」と直談判した。
社長は快諾し、次の週末、甲板と船室の清掃を任せてくれた。給金は二〇〇ユーロ、業者の平均価格の半分以下だが、これだけあれば十分旅費の足しになる。
彼はさっそく指定されたマリーナに行き、管理事務所から拝借した掃除用具一式を携えてクルーザーに乗り込んだ。
クルーザーは全長十七メートル、全幅四・五メートル、定員十二名の小型船舶だ。船室には高級ファブリックを使ったダブルベッドやシャワールームがあり、リビングには簡易キッチンやホームシアターも備えた洋上ホテルのような内装である。
彼はさっそくリビングの清
掃から取りかかり、掃除機、モップがけ、窓ふき、キッチンの油汚れからシンクホールのぬめり取りまで、汗だくになって働いた。日曜日は、たわしとデッキブラシを使って甲板掃除もした。
社長は仕上がりにいたく感激し、百ユーロもチップをはずんでくれた。
「ついでに、僕の友人のクルーザーもお願いできるかね」
彼は快諾し、一ヶ月で目標を上回る小遣いを手にすることができた。
話のついでに通訳アルバイトも申し出た。ビジネス通訳は無理だが、観光客にホテルの行き方やバスの乗り方を説明する程度ならできる。
「それなら、私の知り合いが運営している遊覧船でアルバイトをしてはどうかな。通訳業務ではないが、外国人観光客が大勢訪れる。切符の買い方やバスの乗り継ぎが分からず、地図を片手にまごまごしている人も多いから、何かの役に立つはずだ」
そこで彼は切符もぎや船内清掃など雑用をこなすアルバイトに就いた。時には観光客をバス停やホテルに案内することもある。英語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、四カ国語もできると重宝された。フランス語表記しかない案内板の前で立ち往生する外国人観光客にとって、語学に堪能なガイドは救いの神だ。中にはうんとチップをはずんでくれる人もある。ようやく目的地に辿り着き、「本当に助かったよ、ありがとう!」と繰り返し感謝されるうち、言葉のコンプレックスも薄れていった。
半年後、コルシカ島行きが叶った。
標高二千メートルに及ぶトレッキングコースを歩き、ピアナのカランケ(断崖絶壁)から壮大なポルト湾を見渡した。まるで世界を股にかけ、大鷲になった気分だ。父が言っていた「これが生だったのか。よし、それならもう一度」の意味はまだまだ実感できないが、いつか心の底から人生を悦ぶ日が来れば、その時もこんな風に断崖絶壁から大海原を見渡しているに違いない。
最終日はナポレオンの生家があるアジャクシオのレストランで海鮮料理をたらふく食べ、意気揚々と帰路に就いた。ジャン・ラクロワのプライベートジェットより、はるかにエキサイティングで自尊心の満たされる旅だった。