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【50】もし海に恋人がいるなら、それは輝く太陽 ~本当の私を見つめて

もし海に恋人がいるなら、それは輝く太陽だ ~本当の私を見つめて
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海洋小説 MORGENROOD -曙光 より


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目次 🏃

恋の予感 ~悦びもなく、触れ合いもない日常の片隅で

悦びもなく、触れ合いもない日常の片隅で

九月十四日。土曜日。

小雨がぱらつく中、ヴァルターは何人かの作業員と一緒に補給船で帰島した。

南の宿舎へはバスで帰ったが、一つ手前のバス停で降り、スーパーに立ち寄った。片手に大きな買い物袋を三つ、反対の肩にアーミーバッグを担いで、200メートルの道程をえっちらおっちら歩く。

宿舎に帰り着いた頃には日も暮れて、玄関ドアを開けると真っ暗だ。手探りで玄関ライトのスイッチを入れると、出て行った時のまんまの部屋がある。

いつもの儀式でリビングと寝室の窓を全開し、空気を入れ換えると、アーミーバッグに詰めた洗濯物を洗濯機にかけ、スーパーで買った肉やヨーグルトを冷蔵庫に移し替えた。

今日の夕食は鶏肉の炒め物とグリーンサラダだ。

最初に鍋に湯を沸かし、パック入りのライスをぽちゃんと浸ける。グリーンリーフとトマトはしっかり洗って適当な大きさに切り分け、鶏肉は一口サイズにカットして塩コショウをまぶす。フライパンにバターを溶かし、鶏肉を軽く炒めたところでケンタッキー風味のスパイスを加え、十分も加熱すれば夕食の出来上がりだ。これが一番手軽で早い。

基本的に食事はいつも手作りだ。たまに冷凍食品やインスタントも口にするが、健康に留意して、なるべく自分で調理するようにしている。外食もなるべく我慢だ。生活費の節約にもなる。

夕食のテーブルが整うと、食事の相手にTVを付ける。

よく見るのは、グルメ紀行番組だ。美食家のナビゲーターが「これは美味い!」と舌鼓を打つ姿を見るだけで、自分も満腹になった気分になる。

たまにニュースも見るが、天災や戦争の話題になるとすぐにチャンネルを変えてしまう。被災者が泣き叫ぶ姿を目にすると、自分もフラッシュバックを起こすからだ。

チャンネルを一巡すると、適当にトークショーを聞き流しながら、黙々と夕食を口にする。それは食事というより燃料補給だ。食べ物をじっくり味わうこともなければ、誰かとお喋りを楽しむこともない。火を通しただけの手抜き料理を野良犬みたいにかっこんで、空腹を満たすだけだ。これを食事というなら、飼い犬の方がまだマシだ。少なくとも、彼等は飼い主に空腹を気遣ってもらえるからである。

食事を終えると、洗濯機のビープ音が鳴った。ドラムから濡れた衣類を取り出すと、室内物干しに一枚一枚広げていく。全自動で乾燥もできるが、機械の温風に当てると生地が傷むので、面倒でも手作業で干すようにしている。Tシャツ、下着、ジーンズ。すべて干し終わったところで帰宅の儀式は完了だ。

あとは手早く皿を洗い、ごろりとリビングのソファに横になる。友達から電話がかかってくることもなければ、メールチェックを楽しみにすることもない。船を降りて陸の生活に戻れば、TVだけが話し相手だ。

彼は大きく息を吐くと、真っ白な天井を見上げた。

そこには悦びもなく、触れ合いもなく、乳白色のシーリングライトがぼんやり灯っているだけだった。

リズの願い ~平和こそ代え難い幸福

九月十五日。日曜日。

リズが自室のカーテンを開くと、空は澄み渡るように美しく、海も眩いほど光り輝いている。

ここに来て二週間。

アステリアのいいところは治安の良さと社会の明るさだ。便利さでいえば、トリヴィアの都心の方がはるかに充実しているが、治安は年々悪化する一方で、特に富裕層の婦女子を狙った犯罪は深刻だ。リズのクラスメートもある日忽然と姿を消し、一ヶ月後、郊外の駐車場で発見された時には、二度と人前に出られない姿になっていた。犯罪組織はターゲットの携帯電話の傍受、SNSの書き込み、同じ学校に通う生徒の話などを通して居場所や行動パターンを突き止め、巧妙に連れ出す。そして、家族に金品や権利、時には重大な施策の中止や退陣を求め、応じなければ、娘の顔を焼いたり、鼻を削いだり、いっそ殺された方がどれほど楽だったかと思うような酷い目に遭わせた。

トリヴィアに超がつくほどの富裕層が多いのは、彼等の多くが開発初期、広大な土地や権利をただ同然で手に入れ、社会の発展に伴い、巨万の富を得たからだ。その次に多いのが、ネンブロットの鉱業投資に成功し、一財産を築いた人。開発初期の税制優遇を利用してステラマリスから資産を移し、株取引や投資信託などで順調に元手を増やした人も少なくない。

彼等はそれを元手にまた新たな宇宙植民地に進出し、十分なリターンが得られたら、また次の富を求めて、新天地に足掛かりを作る。彼等の資産は眠っている間にも雪だるま式に膨らみ、使っても、使っても、尽きることがない。

その一方で、庶民の所得格差は広がり、世界最高と言われた首都エルバラードにもスラムが形成され、一般市民は強盗や誘拐、殺人に怯えながら暮らしている。トリヴィアの住環境は地下に張り巡らされた『地熱ジェネレーター』によって維持される為、犯罪に重火器が使われることはないが、暴力の恐ろしさは筆舌に尽くしがたい。

だが、それを招いたのも、五十年前の政策の誤りにある。エンデュミオンのようなサテライト都市を拡張する為、安価な労働力をネンブロットや他の植民地から大量に呼び込み、その後、社会として何の支援も施さなかった。不安定な臨時雇用や一時滞在者に対する無支援が、大量の失業者や低所得者、無縁者を生み出し、不法滞在や違法就労に拍車をかけた。その結果、持つ者と持たざる者の格差も増大し、社会不安と怨恨が犯罪の温床となった。これを解消すべく、官民をあげて様々な試みが行われているが、未だ効果は上がっていない。 富裕層の子弟――とりわけ年頃の娘たちは、桁外れの資産と誰もが羨むようなステータスを享受しながらも、身も凍るような事件に怯え、一人で行きたい所も行けず、セキュリティ会社やボディガードに監視される日々を過ごしている。リズも例外ではなく、アイスクリームショップに出掛けるにもボディガードが必須だ。

それに比べて、アステリアの洋々とした雰囲気はどうだろう。犯罪が皆無というわけではないが、老いも若きも伸び伸びと町を歩き、ショッピングやマリンスポーツを楽しんでいる。エルバラードで目にする「怖い集団」もここでは全く見かけないし、町も清潔で、ゴミ一つ落ちてない。わけても、自分と同年代の女性達がスリムなビジネススーツに身を包み、暴力や誘拐に怯えることなく仕事に打ち込んでいる姿が印象的だ。たとえ経済規模はトリヴィアの百分の一に満たないにしても、この明るさは金銭に代え難い幸福に感じる。

リズはとんとんと階段を下りると、先に朝食を済ませてリビングでくつろぐ父に「おはよう、パパ」と声をかけた。

「お願いがあるの。マリーナのショッピングセンターに行っても構わない? アルバイトで着るカジュアルな服が欲しいの」

「それは構わないが、行くならベルマンと一緒に行きなさい」

「一人でも平気だわ」

「駄目だよ。どんな時も油断するんじゃない」

「……分かったわ」

リズが踵を返すと、不意にアルが呼び止めた。

「今日はあの男をディナーに呼んでやろうかね」 

リズはどきりと足を止めたが、「パパがそうしたいなら、そうなさればいいわ」と素っ気なく答えると、身繕いの為自室に戻った。

リズの嬉しいショッピング

一時間後、ベルマンの車がやって来た。地味な白のセダンで、遠目にはアル・マクダエルの娘が乗っているようには到底見えない。

ベルマンは今年で五十八歳になるが、トリヴィアで二十年以上も要人警護を務め、射撃や護身術はもちろん、火器、爆発物、化学薬品などの知識も持ち合わせている。見た目は田舎教師のように質朴としているが、地味なカジュアルスーツの下には、長年、武術やトレーニングで鍛えた筋肉が今もはっきり見て取れる。

マリーナの駐車場に到着すると、リズは中年のベルマンと一緒に歩くことを躊躇ったが、「ここは比較的安全ですが、一人で行かせることはできません」と強い口調で言われ、渋々従った。

「後ろで見ています。気兼ねなく、お好きな店を回って下さい」

リズは小さく頷くと、買い物客で賑わうエントランスを足早に突っ切った。

ショッピングセンターは一階と二階が庶民向けの店舗で、三階の一部に幾つかの高級ブランドがテナントを構えている。

一階のショーウィンドウを見て回り、エスカレーターで上階に行きかけた時、エスカレーター脇の店舗のマネキンが着ているシフォンドレスに目を留めた。デザインは肩紐の細いボヘミアンドレスで、生地は濃紫だが、全体にカラフルな花模様がプリントされ、奔放な中にもエレガントな趣がある。白いレースのボレロを合わせたら上品にまとまりそうだ。値札を見たら、リズがいつも買っているドレスより桁が一つ少ないが、ちょっと膝が隠れるぐらいの着丈が上品で、胸元から裾にかけてのドレープも花びらのように美しい。たまにはこんなリゾート風のドレスもいいかと迷わずレジに行く。

ドレスが決まると、今度は隣のシューズショップでヒールの高いストラップサンダルを購入した。少し甲が狭いような気もするが、光沢のある黒いエナメル素材で、アンクルストラップと銀の縁取りが足首をほっそり見せてくれる。

それから口紅と頬紅。リップグロスに新しい香水。

アルバイトに着る服を買いに来たのではなかったか?

まあいい、それは今度にしよう。だって、今日はお客さまが見えるのだもの。

リズは会計を済ますと、大きな紙袋を肩から提げて、弾むような気持ちで店を出た。

恋の予感 ~あの人の目にも可愛く映るように

昼前に帰宅すると、リズは足音を忍ばせて三階の自室に上がり、ドレッサーの前に座った。

いつもの顔が鏡に映るが、その表情はいつになく明るい。猪毛のブラシで髪を梳くと、蜂蜜色の光沢がますます輝きを増す。「どんなヘアトリートメントを使ってるの?」と周りにいつも不思議がられるが、手入れの秘訣は簡単だ。髪を洗ったらタオルで優しく拭い、ジェットドライヤーで短時間で乾かす。そして、朝晩、最高級の猪毛のブラシで丁寧にブラッシングするだけだ。

たまには髪全体にパーマを当てて、映画女優のようにカールもしてみたいが、父が嫌がるので控えている。いかなる時も『アル・マクダエルの娘』らしく上品かつ清楚であること。それは不文律のように彼女の全てを支配していた。

それでも今日はサイドに大きめのカーラーを巻いて、ハイビスカスのような華やかさを演出したい。髪を小分けにし、ブロッキング用のピンで留めながら、あの人の目にも可愛く映るだろうかと頭の片隅で意識したりもする。

ふと「中身は枯れたおばあちゃん」「ドライフラワー」という言葉を思い出し、髪を巻く手が止まったが、船着き場での彼の眼差しを思い出し、あの人は他人が気付かない何かを見てくれる人だと直感する。

(だけど、本当に来るかしら)

前髪をカーラーで巻きながら、彼の朴訥とした態度を思い返す。父に声を掛けられたぐらいで、自分も大人物になったような気になる人には到底見えない。

そうして午後三時を過ぎ、ゆるくカールした髪にホワイトビジューの髪留めを付け、花柄のシフォンドレスに着替えてリビングに降りると、「なんだね、その格好は」と父が苦虫を噛みつぶしたような顔になった。

「いけませんか?」

「いつものスーツはどうしたね。上等なのを幾つも持ってたじゃないか」

「今日は日曜日よ。お客さまをもてなすのに、事務員のような格好をしろと仰るの」

「残念ながら彼は来ないよ。私的に理事長と懇意にするのは気が進まないそうだ。贔屓にされていると周りに思われたくないのだろう。まあ、当然といえば当然だが」

「……そう」

「代わりにヨットクラブに出掛けるから、お前も支度しなさい。関連企業の役員や区政の管理委員も出席するから、そのつもりで」

リズは自室に戻ると、大きく息をついた。

ほっとしたような、ひどく淋しいような、複雑な気分だった。

『サフィール』にて ~パーティーと社交辞令

会員制ヨットクラブ『サフィール』は、アイランド・マリーナの北側、ローレンシア島の西海岸でも特に綺麗に整備されたヨットハーバー内にある。係留されているクルーザーヨットやモーターボートも、アイランド・マリーナのものとは桁違いで、中にはどうやってインポートしたのかと首を傾げたくなるようなメガヨットもある。

サフィールは海に突き出た浮体式構造物の上に作られ、三方を海に囲まれている。メインの建物は黒とコバルトブルーを基調にしたシックなインテリアで、一階には海の見えるレストラン、オープンカフェ、十名から五十名が収容可能な可動間仕切り式のバンケットルーム、二階にはプール、フィットネス、サウナ、マッサージルームがある。当然、年会費や使用料もべらぼうに高く、会員の大半は高級住宅街(ゲーテツド・コミユニティ)の住人だ。トリヴィアの都心に比べれば人目に付きにくいこともあり、近頃は娯楽を兼ねてクルーザーヨットで商談するのが流行になりつつある。

父がこういう場所に顔を出すのは情報収集が目的だ。プールもサウナも利用せず、顔見知りの経営者にちょいと声をかけて様子を探ったり、オープンカフェで懇談する顔ぶれを見て、新たな動きを察知したりする。そして、父に声をかけられた人は、つい喋りすぎたことを必ず後悔するのだ。

男性コンシェルジュの案内でバンケットルームに足を運ぶと、既に会場は盛況で、壁際のフードコーナーには海鮮オードブルやグリルやデザートがずらりと並ぶ。

リズは父の後ろに付いて一人一人と丁重に挨拶を交わすが、似たような社交辞令の繰り返しだ。誰もが敬意を払ってくれるが、相手はリズに頭を下げているのではなく、『アル・マクダエル』の看板に平伏しているに過ぎない。

やがて父は、顔馴染みの重工業メーカーの社長夫妻と折り入って話があるからとガーデンテラスに向かい、リズは一人で壁際の席に座った。

軽くオードブルをつまみ、海鮮料理を味わった後、ダージリンティーを飲みながら一息ついていると、同じ年頃の青年に声を掛けられた。一目で『Ziggy Homme』と分かるチョークストライプのスーツを身に着け、栗色の髪をエリート・ビジネスマン風のベリーショートに整えている。バーカウンターで一緒にカクテルを飲みましょうと誘われ、あまり気乗りしなかったが、断る理由もないので同席した。男性は馴れた感じで『サイドカー』を注文し、彼女にはオレンジ風味のカクテル『グランマルニエ・コスモポリタン』をご馳走してくれた。

男性も最近アステリアに来たばかりで、サフィールのパーティーに顔を出したのも「情報のアンテナを磨く」のが目的らしい。

だが、よくよく話を聞いてみると、前年度下半期の決算で三期連続の減収減益となった自動車メーカーの跡取り息子ではないか。今後、アステリアにも営業拠点を開き、他社に先駆けて長距離型のクルーザーヨットの販売を手がけるつもりですと意気揚々と語るが、今でさえ主幹事業である自家用車の競争力が低迷しているのに、未知数の新規事業に手を出して、それで穴埋めができると思っているのだろうか。今、彼の会社に必要なのは経営戦略や開発力の見直しであり、こんな所で情報のアンテナを磨いている暇などないはずだ。

カクテルを飲み終わると、男性は「近いうちにクルーザーでご一緒しませんか」と誘ったが、リズは丁重に断り、「父と約束がありますので」と席を外した。

今、乗りたい船は世界に一つしかない。

誰よりも海を知る人の、朝風みたいな帆船だ。

鳥のように水面を渡り、夢の島へと連れて行ってくれる――。

遠くからガーデンテラスの様子を窺うと、父は四人がけのテーブルで重工業メーカーの社長夫妻と、もう一人、見馴れぬ中年女性と話し込んでいる。管理職らしいシャープな印象から察するに、この女性も顔なじみの事業家か区政の関係者だろう。四人の真摯な表情から、これは長引くと判断する。

リズはこっそり敷地を抜け出すと、海岸沿いの遊歩道をどんどん南に向かって歩いた。

海に恋人がいるなら、それは輝く太陽だ

サフィールのヨットハーバーからアイランドマリーナまで四キロ。赤茶色のカラーアスファルトが敷かれた遊歩道には自転車専用道路が併設されており、ロードバイクにまたがった若い男性や、ローラースケートを楽しむ少女グループとすれ違う。

少女らの歓声を遠くに聞きながら、我知らず南に向かうのは、そこに気になる人の住まいがあるからか。会ってどうなる訳でもないけれど、今、こうして一人で居ることが、たとえようもなく淋しい。

誰かの面影を求めて半時間も歩いた頃、履き慣れないストラップサンダルのせいで両の踵が赤く腫れ、とうとう一歩も動けなくなった。

仕方なくサンダルを脱いだが、まさか裸足で歩くわけにもいかず、両手にサンダルを提げたまま途方に暮れていると、いつになく夕陽が美しいのに気が付いた。

大きく傾いた陽が辺りを黄金色に染め、海の向こうまで明るく照らしている。夕風が微かに水面を揺らし、まるで互いに呼び合うかのようだ。

リズは誘われるように遊歩道の木の柵に歩み寄ると、海と太陽が溶けゆく彼方を見つめた。

もし海に恋人がいるなら、それは輝く太陽だ。昼間は女神のように燦然と世界を照らし、夜は甘えるように海の懐に帰っていく。たとえ黒雲が二人を隔てようと、心は一つ。片時も離れることなく、昼と夜を分け合い、永遠に番う。

リズは型通りのお世辞や空疎な笑いを思い浮かべ、瞳を潤ませた。その立ち位置は華やかで、全てに恵まれているように見えるが、本当に欲しいものは何一つ手に入らない。綺麗に着飾っても、愛の眼差しで見つめてくれる人はなく、淋しさは日に日に募るばかりだ。

私を見つめて――。

『アル・マクダエルの娘』ではなく、私という一人の人間を受け止め、愛して欲しい。朝目覚める度に、誰かの姿を求めて淋しい想いをするのは、もう嫌……。

まなじりに浮かんだ涙を指先で拭い、仕方なくその場から離れようとした時、背後でチリンチリンと自転車のベルが聞こえた。

嬉しい再会 ~自転車の王子さま

何かと思って振り返ると、一番会いたい人がそこにいた。

カジュアルチェックのシャツにジーンズという軽装で、20インチの折りたたみ式マウンテンバイクにまたがり、海のような瞳で彼女を見つめている。サドルから真っ直ぐに伸びた脚が素晴らしく綺麗で、まるで自転車の王子さまみたいだ。

夢のような邂逅に、リズが言葉もなく立ち尽くしていると、

「今日はずいぶん華やかだね。こんな所でパーティー?」

彼がからかうように言った。

「パーティーだったのよ。行きたくて行ったわけじゃないわ。あなたがうちに来ないから、行かざるを得なくなったの」

「それはそれは」

「あなたこそ、こんな所で何をしているの」

「見りゃ分かるだろ」

「そりゃあ、見れば分かるわ。でも、どこに行ったとか、どれくらい自転車に乗っていたとか、いろいろ説明のしようがあるじゃない」

「じゃあ、ずっと乗ってた」

「『ずっと』って、どれくらい?」

「朝起きてから、ずっと」

「もしかして、一日中、自転車に乗ってたの?」

「そうだよ」

リズは目をぱちくりした。

「いつも自転車に乗って休日を過ごすの?」

「自転車の時もあれば散歩の時もある。自転車に乗ってぼーっとしたり、海岸を歩いてぼーっとしたり、TVを見ながらぼーっとしたり。ぼーっとするのが俺の至福の時なんだ」

「つまり『ぼーっとする』のがあなたの趣味なのね」

「俺は退屈な男なんだよ」

すると、リズは鈴が鳴るようにコロコロ笑い、彼もつられるように顔をほころばせた。

「そんなに可笑しいかな?」

「可笑しいわ。だって、そんなこと言う人、初めてよ」

リズはひとしきり笑うと、シフォンドレスの裾をひらめかせ、「またあなたに会ったから、海に突き落とされないうちに帰るわ。なんだか本当にバカみたい」と指先で目尻を拭った。安堵と、驚きと、いろんな思いがクシャクシャになって、全身の力が抜けそうになる。

「じゃあ、パパの所まで送ってやるよ。足をケガしてるんだろう?」

彼がリズの足元を見やると、リズは恥ずかしそうに爪先を擦り合わせた。

「靴擦れよ。馴れないサンダルを履いたから、水ぶくれができたの。でも、送るって、どうやって送るの?」

彼は自転車の荷台を指差した。まるで魚の焼き網みたいな小さな荷台に、リズが目を丸くすると、「学生時代にいつも女の子を乗せてたから、馴れてるんだ」と彼は答えた。

「いっつも?」

「放課後になると自転車置き場にゾロゾロ付いてきて、家まで送れとうるさいんだ。自分で歩けばいいのに」

「ああ、そういうこと。じゃあ、お願いしようかしら」

リズが片手にサンダルを持ち、そっと荷台に腰を下ろすと、「ちゃんと手を回せよ」と彼が言った。

「『手を回す』って?」

「ここだよ」

彼は自分の腰回りを指差した。

「えええええっ」

「『えええええっ』じゃないよ。振り落とされたいのか」

リズはおずおずと手を伸ばし、彼の腰の辺りにそっと手を置いた。服の上からでもがっしりした体つきが感じられ、吊り革みたいにジーンズのベルトに掴まっていると、

「君、意識しすぎだよ。他の女の子はもっと大胆に抱きついてくるぞ、こっちが赤面するぐらいにな!」  

彼は彼女の手をぐいと引き寄せると、自分の腰に回した。

「言っとくけど、下心でやってるんじゃないぞ」

「……分かってるわ」

「じゃあ、ちゃんと掴まってろよ」

好きな人の世界の一部になりたい

待ったなしで自転車が走り出し、リズは「きゃっ」と叫んで彼にしがみついた。

一漕ぎする度に身体が上下に揺れ、振り落とされないようにするのが精一杯だ。

それでも100メートル、200メートルと進むうち、振動にも馴れ、風が心地よく感じられた。通りの向こうでは海が夕陽を照り返し、水面に光がきらきら跳ねている。

ほっと一息つき、少し彼の背中にもたれると、

「君、本当に『お姫さま』なんだな」

彼がぽつりと言った。

「お姫さまなんて、そんな……」

「いいや、正真正銘のお姫さまだ。敷き布団を二十枚、やわらかい羽布団を二十枚重ねても、その下敷きになったエンドウ豆が痛くて眠れないタイプだ。君によく似た人を知っている。花が咲いても、雪が降っても、『なんて美しいの!』と目を潤ませて、いまだに大天使ガブリエルが白百合を手に受胎告知に来ると信じてる。蜘蛛とミミズが大の苦手で、生まれてこの方、ジャガイモの皮を剥いたこともない。――そうだろ?」

リズは急に気恥ずかしくなり、彼の腰から手を引いた。

だが、彼は彼女の手を取って、再び深く腰に回すと、

「俺の母が君みたいな感じだよ。やっぱり名家のお姫さまで、庶民の暮らしに馴染んでも高貴さは失わなかった。気取っている訳ではなく、そういう環境に生まれ育ったんだ。どんな人も出自までは変えられない」

「きっと美しい方なのでしょうね。あなたの横顔を見れば分かるわ」

「君もこれから色んな事にチャレンジすればいいよ。母が父と結婚した時、母はオーブンの使い方も、バスの乗り方も知らなかった。結婚して間もない頃、母が皮むき器(ピーラー)を片手に『これ、どうやって使えばいいの』と真顔で聞いた時、さすがの父も宇宙の彼方に吹っ飛んだらしい。でも、何でも出来るようになった」

「それでお父さまはどうなさったの?」

「自分で一から教えたそうだ」

「それでよく喧嘩にならなかったわね!」

「むしろ大事にしてたよ。洗濯機の使い方から野菜の炒め方方まで、手取り足取り教えてた。お城の暮らしを捨てて、身一つで父の所に飛び込んできたんだ。命に代えても幸せにする覚悟だった」

「私にはお母さまの気持ちがよく分かるわ。どれほど豊かでも、何も知らないお姫さまのまま終わりたくなかったのよ。どんな家に暮らそうと、きっと、とても幸せだったはずよ。好きな人の世界の一部になって、一緒に食べたり、散歩したり……。私なら一生離れない」

リズはきゅっと彼のTシャツを掴み、彼はドキッとして後ろを振り向いた。リズはこつんと彼の背中に頭をもたせかけ、夢でも見るように海を眺めている。

やがてヨットハーバーが見えてくると、「あの建物よ」とリズが声をかけた。

「『サフィール』というの。会員制のヨットクラブよ。リゾートホテルみたいに綺麗でしょう」

「どこにでも金持ちは居るんだな」

「でも退屈な世界よ。表面ばかり繕って、裏では人を欺いて」

「だが、それで通せるのも一つの才能だ。誰だって、他人の機嫌取りなどしたくないし、本音で生きたい。だが、処世の知恵でそうしてる。それも一つの生き方だよ。俺は嫌で逃げたけど」

リズは新鮮な気持ちで彼の背中を見つめた。今までそんな風に言ってくれる人はなかった。顔が笑えば心も笑っていると思い込み、気にも留めない人が大半なのに。

そうしてサフィールの敷地の手前まで来ると、リズは彼に合図し、「どうもありがとう。あなたのおかげで助かったわ」と自転車を降りた。

「よかったら、ガーデンテラスで一緒にお茶でもいかが? パパも喜ぶわ」

「いや、遠慮しとくよ。俺はただの従業員だし、個人的に君のパパと親しいように誤解されると、何かとややこしいんでね」

「そう……」

「でも、君の心遣いは嬉しいよ。卒業祝いの車のことも」

リズが目を丸くすると、

「昼間、君のパパに聞いたんだ。君が俺の立場を心配して励ましたがっていると。ディナーの誘いも、その為だったんだろう」

どこで筋書きが変わったのか、彼はすっかり父のシナリオを信じ込んでいるようだ。

「売ることないじゃないか。卒業祝いに買ってもらったんだろう? いつかまた乗りたくなる日が来るかもしれない。それまで大切に取って置けばいい」

「あなたは怒らないの……?」

「どうして」

「パパが言ってたの。こんな事、あなたに知れたら、一生口も聞いてもらえないって……」

「大袈裟だな。居丈高に言われたら、そう感じたかもしれないが、真心だということくらい俺にも分かる。君も皆の役に立ちたいんだろう。そのことに感謝しこそすれ、恨んだりしない。車は売らなくていい。世の中には二千万、三千万の車を売って食べている人もいる。高級車を持つこと自体が罪悪なわけじゃない。それにカスタムメイドなんだろう? だったら、なおさら大事にしないと。君を喜ばせようと、真心込めて作った人ががっかりするよ。それより、今自分に出来ることを一所懸命に頑張ればいいじゃないか。君の真摯な姿を見れば、君がパパの威光を笠に着て、ぶらぶら遊び歩いているなど誰も思わない。俺の方は自分でちゃんとするから、心配しなくていい」

リズの瞳から思わず涙がこぼれると、彼はあの時と同じ大きな手を差し出した。

「仲直りしよう。君のことを誤解してたよ。いきなり海に突き落としたりして悪かった」

リズはおずおずと手を伸ばし、彼の温かな手に触れた。まるで心まで抱きしめられるような、肉付きのいい手だった。

「じゃあね、Auf Wiedersehe, Fräulein.(さようなら、お嬢さん)。俺も父親の気持ちがちょっとだけ分かったよ」

彼は自転車にまたがったまま、くるりと反転すると、風のように走り去っていった。

リズはその後ろ姿を見送りながら、「父親の気持ちが分かった」という彼の言葉を、眩しい気持ちで胸に繰り返した。

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【49】 潜水艇からの目視が重要な理由 ~海底採鉱区の地形と深層流について 採鉱システムの接続ミッションを前に、スタッフの半数は水中無人機による完全自動化を主張するが、潜水艇パイロットのヴァルターは採鉱区の地形と深層流に着目し、目視の重要性を説く。資料として『潜水調査船の技術 ~覗き窓と視野 / 深層流(底層流)と海底鉱物資源』を動画や画像で紹介しています。
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【51】重役会議とプレゼンテーション 上司のアル・マクダエルから海洋情報ネットワークのプレゼンテーションをするよう命じられたヴァルターは適当に準備して出社する。だが、彼を待ち受けていたのは重役会議だった。ヴァルターは大恥をかくが、アルは彼の優れた能力に目を見張る。
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