恋の予感 ~悦びもなく、触れ合いもない日常の片隅で

この投稿は、海洋科学、鉱業、建築・土木をテーマにしたフィクションです。詳しくは作品詳細をご参照下さい。


第二章 採鉱プラットフォーム ~くちづけ(1)
STORY
採鉱システムの接続ミッションが迫る中、ヴァルターはしばしの休暇を取る。一方、リズはアステリアの美しい海を満喫し、素敵な予感に胸を膨らませる。 アルは上司としての気遣いからヴァルターを夕食に誘うことを提案し、リズは喜びいさんで買い物に出かけるが……。

九月十四日。土曜日。

小雨がぱらつく中、ヴァルターは何人かの作業員と一緒に補給船で帰島した。

南の宿舎へはバスで帰ったが、一つ手前のバス停で降り、スーパーに立ち寄った。片手に大きな買い物袋を三つ、反対の肩にアーミーバッグを担いで、二〇〇メートルの道程をえっちらおっちら歩く。

宿舎に帰り着いた頃には日も暮れて、玄関ドアを開けると真っ暗だ。手探りで玄関ライトのスイッチを入れると、出て行った時のまんまの部屋がある。

いつもの儀式でリビングと寝室の窓を全開し、空気を入れ換えると、アーミーバッグに詰めた洗濯物を洗濯機にかけ、スーパーで買った肉やヨーグルトを冷蔵庫に移し替えた。

今日の夕食は鶏肉の炒め物とグリーンサラダだ。

最初に鍋に湯を沸かし、パック入りのライスをぽちゃんと浸ける。グリーンリーフとトマトはしっかり洗って適当な大きさに切り分け、鶏肉は一口サイズにカットして塩コショウをまぶす。フライパンにバターを溶かし、鶏肉を軽く炒めたところでケンタッキー風味のスパイスを加え、十分も加熱すれば夕食の出来上がりだ。これが一番手軽で早い。

基本的に食事はいつも手作りだ。たまに冷凍食品やインスタントも口にするが、健康に留意して、なるべく自分で調理するようにしている。外食もなるべく我慢だ。生活費の節約にもなる。

夕食のテーブルが整うと、食事の相手にTVを付ける。

よく見るのは、グルメ紀行番組だ。美食家のナビゲーターが「これは美味い!」と舌鼓を打つ姿を見るだけで、自分も満腹になった気分になる。

たまにニュースも見るが、天災や戦争の話題になるとすぐにチャンネルを変えてしまう。被災者が泣き叫ぶ姿を目にすると、自分もフラッシュバックを起こすからだ。

チャンネルを一巡すると、適当にトークショーを聞き流しながら、黙々と夕食を口にする。それは食事というより燃料補給だ。食べ物をじっくり味わうこともなければ、誰かとお喋りを楽しむこともない。火を通しただけの手抜き料理を野良犬みたいにかっこんで、空腹を満たすだけだ。これを食事というなら、飼い犬の方がまだマシだ。少なくとも、彼等は飼い主に空腹を気遣ってもらえるからである。

食事を終えると、洗濯機のビープ音が鳴った。ドラムから濡れた衣類を取り出すと、室内物干しに一枚一枚広げていく。全自動で乾燥もできるが、機械の温風に当てると生地が傷むので、面倒でも手作業で干すようにしている。Tシャツ、下着、ジーンズ。すべて干し終わったところで帰宅の儀式は完了だ。

あとは手早く皿を洗い、ごろりとリビングのソファに横になる。友達から電話がかかってくることもなければ、メールチェックを楽しみにすることもない。船を降りて陸の生活に戻れば、TVだけが話し相手だ。

彼は大きく息を吐くと、真っ白な天井を見上げた。

そこには悦びもなく、触れ合いもなく、乳白色のシーリングライトがぼんやり灯っているだけだった。

*

九月十五日。日曜日。

リズが自室のカーテンを開くと、空は澄み渡るように美しく、海も眩いほど光り輝いている。

ここに来て二週間。

アステリアのいいところは治安の良さと社会の明るさだ。便利さでいえば、トリヴィアの都心の方がはるかに充実しているが、治安は年々悪化する一方で、特に富裕層の婦女子を狙った犯罪は深刻だ。リズのクラスメートもある日忽然と姿を消し、一ヶ月後、郊外の駐車場で発見された時には、二度と人前に出られない姿になっていた。犯罪組織はターゲットの携帯電話の傍受、SNSの書き込み、同じ学校に通う生徒の話などを通して居場所や行動パターンを突き止め、巧妙に連れ出す。そして、家族に金品や権利、時には重大な施策の中止や退陣を求め、応じなければ、娘の顔を焼いたり、鼻を削いだり、いっそ殺された方がどれほど楽だったかと思うような酷い目に遭わせた。

トリヴィアに超がつくほどの富裕層が多いのは、彼等の多くが開発初期、広大な土地や権利をただ同然で手に入れ、社会の発展に伴い、巨万の富を得たからだ。その次に多いのが、ネンブロットの鉱業投資に成功し、一財産を築いた人。開発初期の税制優遇を利用してステラマリスから資産を移し、株取引や投資信託などで順調に元手を増やした人も少なくない。

彼等はそれを元手にまた新たな宇宙植民地に進出し、十分なリターンが得られたら、また次の富を求めて、新天地に足掛かりを作る。彼等の資産は眠っている間にも雪だるま式に膨らみ、使っても、使っても、尽きることがない。

その一方で、庶民の所得格差は広がり、世界最高と言われた首都エルバラードにもスラムが形成され、一般市民は強盗や誘拐、殺人に怯えながら暮らしている。トリヴィアの住環境は地下に張り巡らされた『地熱ジェネレーター』によって維持される為、犯罪に重火器が使われることはないが、暴力の恐ろしさは筆舌に尽くしがたい。

だが、それを招いたのも、五十年前の政策の誤りにある。エンデュミオンのようなサテライト都市を拡張する為、安価な労働力をネンブロットや他の植民地から大量に呼び込み、その後、社会として何の支援も施さなかった。不安定な臨時雇用や一時滞在者に対する無支援が、大量の失業者や低所得者、無縁者を生み出し、不法滞在や違法就労に拍車をかけた。その結果、持つ者と持たざる者の格差も増大し、社会不安と怨恨が犯罪の温床となった。これを解消すべく、官民をあげて様々な試みが行われているが、未だ効果は上がっていない。 富裕層の子弟――とりわけ年頃の娘たちは、桁外れの資産と誰もが羨むようなステータスを享受しながらも、身も凍るような事件に怯え、一人で行きたい所も行けず、セキュリティ会社やボディガードに監視される日々を過ごしている。リズも例外ではなく、アイスクリームショップに出掛けるにもボディガードが必須だ。

それに比べて、アステリアの洋々とした雰囲気はどうだろう。犯罪が皆無というわけではないが、老いも若きも伸び伸びと町を歩き、ショッピングやマリンスポーツを楽しんでいる。エルバラードで目にする「怖い集団」もここでは全く見かけないし、町も清潔で、ゴミ一つ落ちてない。わけても、自分と同年代の女性達がスリムなビジネススーツに身を包み、暴力や誘拐に怯えることなく仕事に打ち込んでいる姿が印象的だ。たとえ経済規模はトリヴィアの百分の一に満たないにしても、この明るさは金銭に代え難い幸福に感じる。

リズはとんとんと階段を下りると、先に朝食を済ませてリビングでくつろぐ父に「おはよう、パパ」と声をかけた。

「お願いがあるの。マリーナのショッピングセンターに行っても構わない? アルバイトで着るカジュアルな服が欲しいの」

「それは構わないが、行くならベルマンと一緒に行きなさい」

「一人でも平気だわ」

「駄目だよ。どんな時も油断するんじゃない」

「……分かったわ」

リズが踵を返すと、不意にアルが呼び止めた。

「今日はあの男をディナーに呼んでやろうかね」 

リズはどきりと足を止めたが、「パパがそうしたいなら、そうなさればいいわ」と素っ気なく答えると、身繕いの為自室に戻った。

*

一時間後、ベルマンの車がやって来た。地味な白のセダンで、遠目にはアル・マクダエルの娘が乗っているようには到底見えない。

ベルマンは今年で五十八歳になるが、トリヴィアで二十年以上も要人警護を務め、射撃や護身術はもちろん、火器、爆発物、化学薬品などの知識も持ち合わせている。見た目は田舎教師のように質朴としているが、地味なカジュアルスーツの下には、長年、武術やトレーニングで鍛えた筋肉が今もはっきり見て取れる。

マリーナの駐車場に到着すると、リズは中年のベルマンと一緒に歩くことを躊躇ったが、「ここは比較的安全ですが、一人で行かせることはできません」と強い口調で言われ、渋々従った。

「後ろで見ています。気兼ねなく、お好きな店を回って下さい」

リズは小さく頷くと、買い物客で賑わうエントランスを足早に突っ切った。

ショッピングセンターは一階と二階が庶民向けの店舗で、三階の一部に幾つかの高級ブランドがテナントを構えている。

一階のショーウィンドウを見て回り、エスカレーターで上階に行きかけた時、エスカレーター脇の店舗のマネキンが着ているシフォンドレスに目を留めた。デザインは肩紐の細いボヘミアンドレスで、生地は濃紫だが、全体にカラフルな花模様がプリントされ、奔放な中にもエレガントな趣がある。白いレースのボレロを合わせたら上品にまとまりそうだ。値札を見たら、リズがいつも買っているドレスより桁が一つ少ないが、ちょっと膝が隠れるぐらいの着丈が上品で、胸元から裾にかけてのドレープも花びらのように美しい。たまにはこんなリゾート風のドレスもいいかと迷わずレジに行く。

ドレスが決まると、今度は隣のシューズショップでヒールの高いストラップサンダルを購入した。少し甲が狭いような気もするが、光沢のある黒いエナメル素材で、アンクルストラップと銀の縁取りが足首をほっそり見せてくれる。

それから口紅と頬紅。リップグロスに新しい香水。

アルバイトに着る服を買いに来たのではなかったか?

まあいい、それは今度にしよう。だって、今日はお客さまが見えるのだもの。

リズは会計を済ますと、大きな紙袋を肩から提げて、弾むような気持ちで店を出た。

*

昼前に帰宅すると、リズは足音を忍ばせて三階の自室に上がり、ドレッサーの前に座った。

いつもの顔が鏡に映るが、その表情はいつになく明るい。猪毛のブラシで髪を梳くと、蜂蜜色の光沢がますます輝きを増す。「どんなヘアトリートメントを使ってるの?」と周りにいつも不思議がられるが、手入れの秘訣は簡単だ。髪を洗ったらタオルで優しく拭い、ジェットドライヤーで短時間で乾かす。そして、朝晩、最高級の猪毛のブラシで丁寧にブラッシングするだけだ。

たまには髪全体にパーマを当てて、映画女優のようにカールもしてみたいが、父が嫌がるので控えている。いかなる時も『アル・マクダエルの娘』らしく上品かつ清楚であること。それは不文律のように彼女の全てを支配していた。

それでも今日はサイドに大きめのカーラーを巻いて、ハイビスカスのような華やかさを演出したい。髪を小分けにし、ブロッキング用のピンで留めながら、あの人の目にも可愛く映るだろうかと頭の片隅で意識したりもする。

ふと「中身は枯れたおばあちゃん」「ドライフラワー」という言葉を思い出し、髪を巻く手が止まったが、船着き場での彼の眼差しを思い出し、あの人は他人が気付かない何かを見てくれる人だと直感する。

(だけど、本当に来るかしら)

前髪をカーラーで巻きながら、彼の朴訥とした態度を思い返す。父に声を掛けられたぐらいで、自分も大人物になったような気になる人には到底見えない。

そうして午後三時を過ぎ、ゆるくカールした髪にホワイトビジューの髪留めを付け、花柄のシフォンドレスに着替えてリビングに降りると、「なんだね、その格好は」と父が苦虫を噛みつぶしたような顔になった。

「いけませんか?」

「いつものスーツはどうしたね。上等なのを幾つも持ってたじゃないか」

「今日は日曜日よ。お客さまをもてなすのに、事務員のような格好をしろと仰るの」

「残念ながら彼は来ないよ。私的に理事長と懇意にするのは気が進まないそうだ。贔屓にされていると周りに思われたくないのだろう。まあ、当然といえば当然だが」

「……そう」

「代わりにヨットクラブに出掛けるから、お前も支度しなさい。関連企業の役員や区政の管理委員も出席するから、そのつもりで」

リズは自室に戻ると、大きく息をついた。

ほっとしたような、ひどく淋しいような、複雑な気分だった。

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