生きて、生きて、最後まで生き抜いて、素晴らしい人生を送ってくれ

この投稿は、海洋科学、鉱業、建築・土木をテーマにしたフィクションです。詳しくは作品詳細をご参照下さい。


第一章 運命と意思 ~ローエングリン -決壊- (4)
STORY
未曾有の大洪水が故郷の干拓地を遅う。土木技師のグンターは生命線である締切堤防を最後まで死守するが、高潮がすぐ足元まで迫っていた。いよいよ決壊の危機が迫る中、グンターは妻のアンナと息子のヴァルターをシャトルバスに乗せ、安全な場所に避難させる。

一八四年二月十三日。

アンヌ=マリーはキッチンの窓から夜の車道を眺めながら、「それにしても、よく降る雨だこと」と心配そうに言った。

「この季節、以前は連日のように降雪して、気温も零下が当たり前だったのに、ここ数年は暖冬続きで、ほとんど雪も降らなくなったわね」

グンターも夜の雨が激しく叩きつけるガラス窓を見つめ、いったい欧州の気候はどうなっているのかと首を捻った。春先に大量の雹が降ったり、十月半ばに突然吹雪いたり、真夏なのに気温が二十度前後しかなかったり。

そして、今年も雪が降らず、運河も十分に凍らない。運河スケート大会も、今回はついに開催を見合わせた。暖かい冬は二月になっても変わらず、積雪もしない。
そのくせドイツ西部の山岳地帯はどこも豪雪で、カールスルーエも交通に支障が出るほど記録的な積雪に見舞われた。もっとも、この大雪は初めてスキーに挑戦したヴァルターを喜ばせたけれれど。

アンヌ=マリーは温かいホットチョコレートをテーブルに置くと、

「こんな日まで体育館でトレーニングなんて、ずいぶん厳しいわね」

と溜め息をついた。

「三月に大事な試合があるから気が抜けないんだよ。それに今度の大会はエールディヴィジ(プロサッカーの1部リーグ)の関係者も来るからね。選手にとっては又とないチャンスだ」

「だけど、もう二十時を過ぎてるわ。外も真っ暗なのに、本当に大丈夫かしら」

アンヌ=マリーは再び窓の向こうに目を凝らした。

半時間前に電話があり、バス停まで公団の子と一緒だと話していたが、確かに少し遅すぎるようだ。グンターも窓の外を見やり、もう一度、電話をかけようと立ち上がった時、パシャパシャと足音がし、勢いよくドアが開いた。激しい雨音の中、ヴァルターが息せき切らして、ずぶ濡れの防寒ジャケットを脱ぐ気配がする。

アンヌ=マリーは玄関先に飛んで行くと、「まあ、大変! 早くシャワーを浴びないと」と濡れた服を脱がせ、かいがいしく世話をやく。もう中学生なのだから、そこまで手を掛けなくていいのにと思うが、やはり気になるのだろうか。

ヴァルターは二階の浴室で手早くシャワーを浴びると、キッチンに顔を出し、「母さん、お腹が空いたよ。何か食べる物ない?」と冷蔵庫を開けた。

アンヌ=マリーはキノコのクリームスープを温め直すと、麦芽パンのオープンサンドイッチを添えてテーブルに置いた。ヴァルターは分厚いステーキハムがのったサンドイッチにかぶりつき、黙々とクリームスープを口に運ぶ。今が食べ盛りの伸び盛りだ。朝起きる度に身長が一センチ高くなっているような気がする。最後にキュウリのピクルスをぺろりと平らげると、グラスになみなみと注いだ野菜ジュースを一気飲みし、満足したように口元を拭った。

「今日はどうだった?」

「絶好調だよ。ボールの繋がりが格段に良くなって、あっという間にゴール前に運べるようになった。FC Groen(フルン)は全員総攻撃だ。皆、ユニフォームを緑からオレンジに変えたいと言ってる」

「そうか。それは楽しみだな」

「三月の大会で好成績をあげたら、今度こそ新しいパソコンを買ってよ。機能限定のキッズ・パソコンは飽き飽きだよ」

本来、それはクリスマスに買う予定だったが、母親への態度があまりに悪いのでお預けになっていた。

「そうだね。考えておくよ」

「それから、五月の連休にはヤンと一緒にヤンのお祖母さんの家に行きたい。車で半時間ほどの所にでっかい遊園地があるんだ。ジェットコースターとか急流すべりとか、すごく面白いって」

「それよりフランスに行かないか? お母さんはこっちに来てから一度も故国に帰ったことがないだろう。マルセイユでなくて西海岸の方だ。前にTVでモン・サン=ミシェル修道院(*33) の潮の満ち引きを見て、一度こういう場所に行ってみたいと言ってただろう」

「ほんと? でも、ヤンと遊園地にも行きたいしなぁ」

「遊園地はいつでも行けるじゃないか。でも、モン・サン=ミシェルは五月の連休でないと無理だ。夏休みはお前も練習で忙しいし、今年はスペイン遠征にも行くだろう? だから、その前にゆっくり家族旅行でも、と思ってね」

「そう……」

「ノルマンディーの風景も格別よ」とアンヌ=マリーが言った。「印象派絵画の発祥の地だし、エトルタの断崖やオンフルールの港、壮麗なカテドラルもたくさんあるわ。それに美味しいホタテ貝も」

「コキーユがあるの?」

「ええ、お腹いっぱい食べられるわよ」

「これで決まりだね」とグンターは笑った。「ヤンと遊園地に行くのは復活祭の休日にしたらどうだ? 四月上旬ならだいぶ温かいし、金土日の三連休だ」

「ヤンに相談してみるよ」

ヴァルターとアンヌ=マリーがフランス語で楽しそうにノルマンディー地方のことを語り合っている間、グンターはふとインターネットラジオから流れてくるアナウンスに聞き耳を立てた。シュトゥットガルト放送のニュース番組で、男性アナウンサーが繰り返し気象速報を読み上げている。

北から張り出した大型低気圧の中心気圧が九八〇ヘクトパスカルに達し、さらに勢いを増しながら南下しているという。

*

二月二十一日。

二月上旬から断続的に降り続けた大雨は塩湖や運河の水位上昇を引き起こし、人々の生活にも重大な影響を及ぼしていた。

干拓地の四方を海と河川に囲まれたフェールダムも日に日に状況が悪化し、北海岸の盛土堤防の底部からは漏水が始まっている。

この一週間、治水関係者のみならず、町中の男たちが力を合わせ、盛土堤防や塩湖の護岸に土嚢を積み上げたり、三角形の水嚢チューブを設置して決壊に備えているが、大型低気圧の威力は一向に衰えず、明日の夜には高潮が盛土堤防のキャパシティを超えて干拓地に流れ込む恐れがある。そうなれば塩湖の水位も一気に上昇し、幅一七〇メートルの締切堤防もどうなるか分からない。

グンターも五日前から不眠不休で排水ポンプを取り付けたり、土嚢や水嚢を設置して必死に堤防を守っているが、水の勢いは増す一方だ。

毎日ずぶ濡れになって帰ってくる夫の為に、アンヌ=マリーはボリュームのある料理をこしらえ、必死に心身を支えているが、その食材も徐々に店頭から姿を消し、今は小売店もスーパーも固くシャッターを閉ざしたままだ。既に住民の半分以上が避難しており、今日明日が運命の分かれ目である。

午後十時過ぎ、グンターは家に帰ると、濡れた作業服を脱いでオニオンスープを食べたが、雨と風で冷え切った身体はすぐには温まらず、まだ手先がかじかんでいる。アンヌ=マリーが残りわずかな薪を燃やして、湯たんぽも用意してくれたが、激しい疲労もあり、暖炉の火が目に眩しいほどだ。

しばらく暖炉の前に座り、身体をさすっていたが、そのうち猛烈な眠気に襲われ、カウチに横になった。十分ほど深く寝入り、ふと胸の苦しさで目を覚ました時、カウチの側にぼうっと立っているヴァルターの気配に気が付いた。

「どうしたんだ。まだベッドに入らないのか」

グンターが上体を起こすと、ヴァルターはカウチの端に腰掛け、声を震わせた。

「父さん、怖いよ。雨も、風も、あんなにゴウゴウいってるよ。家の前の運河も今にも溢れそうだし、隣の三姉妹もどこかに避難したみたいだ。ヤンも、クリスティアンも、イグナスも、みんな親戚の所に行ってる。うちも早く逃げようよ。今夜のうちに洪水が襲ってくるよ」

「洪水はすぐには襲ってこない。夜じゅう、大勢が堤防を守っているし、人工衛星の監視システムも水の動きを見張ってる。いよいよ危険が差し迫ったら、すぐに避難するから大丈夫だ」

「堤防が壊れたら、この家も水に流されてなくなるの?」

「古い家だけど、丈夫なレンガ造りだ。そんな簡単に水に流されたりしないよ」

「でも怖いよ……怖い……」

グンターはひな鳥みたいに怯える息子の背中を抱きながら、「大丈夫だ。心配するな。どんな時も父さんが一緒だ。お前一人、洪水の中に置いていったりしない」と力付けた。偉そうな口を利いたり、女性の裸に興味をもったり、大人の男の真似事をしても、まだまだ子供だ。親をなくして平気なわけがない。

「今夜はゆっくり休みなさい。明日にはバスを幾つも乗り継いで、カールスルーエに行くかもしれない。きっと何所も避難者でごった返しだ。最後は体力勝負だよ」
ヴァルターは小さく頷くと、今一度、父親の存在を確かめるようにグンターの背中を掻き抱いた。

グンターはアンヌ=マリーを伴って二階の子供部屋に上がると、幼子の時のように二人で息子を寝かしつけた。頭まですっぽり掛け布団をかぶり、赤ん坊みたいに身体を丸めて、ようやく眠りに就くと、グンターは彼女と一緒に階下のキッチンに降りた。

アンヌ=マリーはホットチョコレートを入れながら、「堤防はどんな具合なの?」と心配そうに訊いた。

グンターはホットチョコレートを口にしながらしばらく黙っていたが、

「アンヌ。明朝、あの子と一緒に荷造りをしてくれないか」

「それほど状況が悪いのですか?」

「いや、念のためだ。明朝の状況を見て対策委員会が最終決定を下す。だが、全員退避となれば、堤防は無理だろう。そうなると、この家もどうなるか分からない。全倒壊することはないと思うが、貴重品を持って、あの子とカールスルーエに避難して欲しい」

「あなたはいらっしゃらないの?」

「明朝の状況を見て決める。決定がどうあれ、僕は最後まで現場を離れるわけにいかない」

アンヌ=マリーは目を伏せ、しばらく思い巡らせていたが、

「分かりました。今夜のうちにも支度しますわ。いったん州の避難所に向かい、そこからカールスルーエに行けばいいのね」
と気丈に答えた。

「そうだ。後でルートを記した地図を渡すよ。もし身動きがとれなくなったら両親に連絡してくれ。父がすぐに迎えに来てくれる」

「でも、決して無理はなさらないで。たとえ卑怯者と呼ばれようと、あなたの命以上に大切なものはありません」

「僕もだよ、アンヌ。君とあの子を守るためなら、僕は何を引き替えにしても構わない。君に出会って、恋をして、あの子が生まれて、本当に幸福な人生だったと感謝している……」

「あなた、何を仰るの。これからもずっと一緒ですのに。きっと疲れがたまっているのだわ。今夜はもうお休みになって。明日もまた早いのでしょう」

アンヌ=マリーは彼の肩を抱き、席を立たせようとしたが、彼はその手を取ると、彼女の身体を掻き抱いた。

「できるものなら、僕もこの場から逃げ出したい。堤防の向こうはまるで地獄絵図だ。黒く渦巻く水を見ていると、本当に明日という日が来るのか、絶望的な気持ちにすらなる。恐怖に打ち克つ力が欲しい。いつまでも君やあの子と一緒に暮らしたい……」
アンヌ=マリーはそんな夫の身体を胸に優しく抱くと、聖書の一句を口にした。

「『父よ、この苦しみの杯をわたしから取り除いて下さい。けれど、私の願いからではなく、御心のままに*34』――その時が来れば、魂があなたの行くべき道を示してくれるでしょう。逃げようと、留まろうと、どんな時も私はあなたの良心を信じるわ。さあ、寝室に上がって休みましょう。一晩ぐっすり眠れば、新しい希望も湧くわ。明日の夜には水も引いて、いつもの太陽が顔を出すはず」

アンヌ=マリーに支えられ、どうにか寝室に上がったが、ベッドに入ってからも胸が締めつけられるように苦しく、悪夢にうなされる。

「あなた、どうか心を鎮めて。安らかにお休みになって……」

彼の背中をさすり、胸に抱きながら、アンヌ=マリーは優しく力づける。

だが、低気圧は衰えるどころか、いっそう勢いを増し、四世紀続いた干拓地(フェールダム)を丸呑みするが如くだった。

*

二月二十二日。

グンターは午前六時に起床すると、七時にはカーキ色の作業着と白いヘルメットを着けて堤防に向かった。

激しい雨は一晩中降り続き、家の前の運河も溢れんばかりである。

避難勧告はフェールダムのみならず、北はロッテルダムから南はアントウェルペンに至るまで沿岸一帯に発令され、主要な自動車道では大渋滞が発生している。上空には救助ヘリや偵察機が飛び交い、警察や陸軍の特殊車両も全台が出動して、避難民の誘導や防災に当たっている。

グンターはヴァルターに「お母さんをしっかり手助けするように」と強く言い聞かせ、身を切られるような思いで堤防に出かけた。

ヴァルターは父の言い付けを守って、必死に母を手伝った。

一階の書斎に置いている父のパソコンやホームサーバーや書類棚は二階の主寝室に移動し、高価な調度や電化製品は居室に収納する。

それから一階の窓や戸口を厳重に塞ぎ、浸水しそうな箇所は古いタオルなどを詰めて万一に備えた。

十時、十一時と、不安な中で時が過ぎ、ラジオ中継に耳を傾けるが、希望のもてるニュースは一つもなく、各地の騒然とした様子だけが伝わってくる。

午後一時を回ると、アンヌ=マリーは残り物のハムとチーズを使って手早くパンネンクーケンを作ったが、ヴァルターは「食べたくない」と首を横に振る。

「しっかり食べるのよ。もしかしたら、今夜はゆっくり食事する暇もないかもしれない。こんな時は体力が物を言うの。身体さえ丈夫なら、どんな苦難にも耐えられる」

母に諭され、ヴァルターは喉の奥に押し込むようにして大きなパンネンクーケンを食べた。

もう食糧も底を尽き、コーンフレークとパック入りミルク、豆や小麦粉などが僅かに残っているだけだ。

だが、食事ぐらいどうにでもなる。一時間もバスで走れば内陸部に避難できるし、カールスルーエには祖父母もいる。まだ世界の終わりではない。

それより夫の安否が心配だ。夕べもほとんど一睡もせず、今朝も早くに出掛けていった。現場の作業員らも心身ともに限界だろう。今日峠を越えなかったら、明日にはみな力尽きるかもしれない。

さらに一時間、二時間と過ぎ、辺りが暗くなる頃、ようやく夫から連絡があった。午後六時に最後のシャトルバスが出発するから、すぐに支度して欲しいとのことだ。

「父さんはどうするの? 俺たちだけバス停に行くの? ねえ、父さんが帰ってくるまで待とうよ」

幼子のようにぐずるヴァルターを励ましながら荷造りさせ、アンヌ=マリーも貴重品や思い出の品をバッグに詰めた。エクス=アン=プロヴァンスを出る時、慶福を願って持ち出した幸運の旅行鞄だ。

午後五時半、夫の指示したバスターミナルに行くと、夫も十分ほど遅れてやって来た。父親がまだ作業着姿であるのに気付くと、ヴァルターは涙目になり、「父さん、どうしてそんな格好してるの……一緒に逃げるんじゃなかったの……」と声を潤ませた。

「心配するな、ヴァルター。父さんも必ず後から行く。明日の夜、カールスルーエで会おう。お祖母ちゃんがお前の好きなバームクーヘンをいっぱい用意して待ってるよ」

「バームクーヘンなんかいらないよ。俺も父さんと一緒に居る」

「そんな世界の終わりみたいな顔をするな。ワーグナーの『神々の黄昏』も、最後は希望のメロディで幕を下ろすだろう。明日には何もかも良くなってるよ。海は凪ぎ、空には同じ太陽が顔を出す」

「いやだよ、父さん、一緒にカールスルーエに行こう」

「愛してるよ、ヴァルター。君が幸せであることが僕の最大の願いだ。早くお母さんとバスに乗って。無事にカールスルーエに着くまで、お母さんの言うことをしっかり聞くんだよ」

むずがる息子を五十人乗りのシャトルバスに乗せると、アンヌ=マリーは車窓を小さく開き、左手を伸ばして夫の温かな頬に触れた。

グンターもまた妻の温かい手を握りしめると、

「ずっと側に居てやれなくてすまない。だが僕は心の声を聞いた。これこそ命の道と信じる。僕は生きる為に堤防に戻るんだよ。君に出会えて本当に幸運だった。Je t'aime pour toujours(君を永遠に愛してる)」

と最後の口づけを交わした。

それからヴァルターに向き直り、ダイバーズウォッチを巻いた左手をしっかり握りしめると、

「ヴァルター。どんなことがあっても決して諦めるな。父さんはいつでもお前と共にある。生きて、生きて、最後まで生き抜いて、素晴らしい人生を送ってくれ」

ヴァルターは自分の人生に何が起きているのか、この先、何が起ころうとしているのか、何も考えられないし、考えたくもない。ただ目に涙をいっぱい浮かべて、父の手を握り返すのがやっとだ。

やがてバスのエンジンがかかり、アンヌ=マリーが車窓を閉めると、バスはゆっくり発進した。

振り返ると、父は風雨の中に一人立ち尽くし、安全な方にバスが走り去るのを笑顔で見送っている。

それが生きた父の姿を目にした最後の瞬間だった。

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