『これが生だったのか。それなら、よしもう一度!』 自己肯定と魂の幸福 ・ニーチェの哲学より

この投稿は、海洋科学、鉱業、建築・土木をテーマにしたフィクションです。詳しくは作品詳細をご参照下さい。


STORY
永劫回帰とは、もう一度、この人生を生きてもいいと思えるほど、自分自身と自身の生を愛する気持ちです。自己肯定の大切さを説いたニーチェの名著『ツァラトゥストラ』をモチーフに、死にたい子供にいかに生きる希望を与えるかというエピソードを紹介。哲学コラム「自分に『よし!』と言えますか?」と併せて。
目次

【哲学コラム】 自分に『よし!』と言えますか?

人間がこの世で生きていく上で、一番辛く感じるのは『劣等感』ではないでしょうか。

周りを見回せば、社会的にも、能力的にも、自分より優れた人はたくさんいますし、容姿、財産、住まい、肩書き、アップロードした写真や「いいね」の数まで、比較すればきりがありません。

それは時に妬みや絶望となって心を蝕み、本来、その人が持っている能力まで損ねてしまいます。

本作では『言葉の問題』にフォーカスして、生きる自己肯定について説明しています。

息子ヴァルターの言葉の問題に気付いたグンターは、「今直さなければ、将来落ちこぼれて、大変な不幸になる」と考え、あちこちの医療機関や児童施設を訪ねて回ります。それは決して強制や否定ではなかったのですが、結果的に、息子の気持ちを傷つけ、悪い方に追い込んでしまいます。

そして、ようやくオステルハウト先生という理解力のある先生に巡り会い、問題克服の突破口が開けるのですが、身内の中で改善しても、社会に出れば否応なしに周りと比較され、苛められます。

劣等感に苛まれ、生きる自信を無くしたヴァルターは「死にたい」と言い出して父親を慌てさせますが、それに対して『自己肯定』の精神を説いたのがお祖母さんでした。

自己肯定の精神は、代々、読み継がれたニーチェの著書『ツァラトゥストラ』のテーマでもあります。

「この人生をもう一度生きてもいい(永劫回帰)」と思えるほどに、自分自身と生きることを愛する。

それが本当の意味での問題解決=自己超克だと、悩むグンターに言って聞かせるのです。

そして、そのことをヴァルターにも伝えようとしますが、小さい息子に永劫回帰の思想など分かるはずもありません。

そこで『永遠の円環リング』という一つの比喩を用いて、永劫回帰の考えを教えようとします。

それが後々、『円環の海洋都市=リング』という形に結晶するのが本作の主旨です。

人生に正解はない……と言われますが、自己肯定できる人生と、できない人生の間には大きな開きがあります。

たとえ言葉に問題があっても、容姿や能力で他より劣ろうと、自分で自分に「よし」と言えて、もう一度、生きてもいいなと思えるほど、その人生を楽しむことができたら、それは何ものにも脅かされることのない、最高の幸福ではないでしょうか。

参考URL
ツァラトゥストラで読み解くニーチェの『永劫回帰』と『生の哲学』

【小説】 魂の幸福とは、自分自身を肯定し、生きることを悦ぶ気持ち

突然、誰とも話さなくなり、場面緘黙症、あるいは難読症と診断され、普通の学校に通えなくなったヴァルターは、優れたスピーチセラピスト、オステルハウト先生の指導により、幾多の問題を克服する。しかし、学校で待ち受けていたのは、彼のしゃべり方を揶揄するイジメだった。グンターは、「死にたい」と嘆く息子をどう力付ければいいのか、カールスルーエの母に相談する。

前のエピソード

【リファレンス】 ニーチェと永劫回帰について

永劫回帰にもいろんな解釈がありますが、「これが生だったのか、それなら、よしもう一度」の一言に尽きると思います。

名作『ツァラトゥストラ』も、最初は暗いトーンで始まって、最後に、この一言に辿り着く過程が素晴らしいんですよね。

ちなみに当該個所の文章は次の通りです。(ツァラトゥストラ (中公文庫) 手塚富雄・訳

第四章 酔歌

そのとき、この長い驚くべき日のうちで最も驚くべきことが起こった。最も醜い人間が、もう一度、そしてこれを最後として、喉を鳴らし、鼻息をしはじめたのだ。そして、ついにかれがそれをことばにして言ったとき、見よ、かれの口からは一つの問いが、まろやかに、清くおどり出た。一つのよい、深い、明るく澄んだ問いであった。それは耳を傾けたすべての者の心を感動させた。
「わたしの友なるすべての人よ」と、最も醜い人は要った。「あなたがたはどう思うか。きょうこの一日に出会ったために──わたしははじめて満足した。今までの全生涯にたいして。
だが、それだけを証言したのでは、まだ十分ではない。地上に生きることは、かいのあることだ。ツァラトゥストラと共にした一日、一つの祭りが、わたしに地を愛することを教えたのだ。『これが──生だったのか』わたしは死に向かって言おう。『よし、それならもう一度!』と。

永劫回帰とは「この人生をもう一度、生きてもいいと思えるほど」

「これが生だったのか。それなら、よしもう一度!」=永劫回帰の本質は、『この人生をもう一度生きてもいいと思えるほど、自分自身と自身の生を愛する気持ち』です。

それに似たもので、「もはや自分を恥じないこと」(悦ばしき知識)という言葉もあります。

劣等感や虚無感を抱え、死にたいと願う人が多い中、心の底から「この生を、もう一度!」と思える気持ちは、ある意味、最高に恵まれた、最高に幸せな人間の証かもしれませんね。

本作では、言葉の問題と学校での苛めから「死にたい」と嘆く息子のヴァルターに、ニーチェの永劫回帰の思想を説く父親のグンターが登場します。

もちろん、幼い息子に永劫回帰の意味など分かりません。

そこで、グンターは「永遠の環」という言葉に置き換え、たとえ人より劣っても、自分を好きでいる気持ちが大切だと説きます。

そうは言われても、ルサンチマンの塊で、父親の死後、激しい喪失感に陥るヴァルターにはなかなかその意味が理解できません。

何度も自滅の道に向かい、その度に、運に助けられます。

では、いつ、どのような形で、その意味に気づくのか。

それが後半のパートです。

【ギャラリー】 ゼーラント州の海岸と締切堤防

グンターとヴァルターが見つめたと思われるゼーラント州の海岸と締切堤防。

海の向こうに遠目に見えるのが可動式防潮水門。海岸沿いの自転車道は屈指のサイクリングコースになっており、防潮水門を超えて、はるか北の海岸へと繋がっています。

締め切り堤防の天端の遊歩道

オランダ 締切堤防 海岸

フェールダム、および、作中に登場する締切堤防(海岸の盛土堤防を含む)のイメージはこれに近いです。

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