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防潮水門と締切堤防の補修をめぐる対立 ~1953年 オランダの北海大洪水

本作は、海洋科学や土木・建築をモチーフにしたサイエンス・フィクションです。
投稿の前半に小説の抜粋。 後半に参考文献や画像・動画を掲載しています。
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第一章 運命と意思 ~ローエングリン・決壊(1)
STORY
言葉の問題を乗り越え、サッカー仲間もできた息子ヴァルターの姿に、グンターはようやく苦難を抜け出たことを実感する。一方、治水研究会は、締切堤防の補強工事をめぐって自治体と対立。来年開催される国際自転車競技大会に向けて、可動式台防潮水門の改修工事が優先される。 1953年 オランダの北海大洪水に関する動画と現在のオランダの海岸の風景写真と併せて紹介。
目次

防潮水門と締切堤防の補修をめぐる対立

未来の水害に備えて

翌春。

グンターは上級技師の試験に合格し、治水局でも立案を司るワンランク上の職務に昇級した。治水研究会でも地元の有識者や土木技師らと連携し、中心的な役割を担うようになっている。

関係者の目下の懸念は、ここ数年の異常気象と、フェールダムの生命線とも言うべき締切堤防の老朽化だ。

以前からフェール塩湖や河川の水位上昇が指摘されてきたが、ここ数年の突発的な集中豪雨と潮位の異常はネーデルラント南部に限ったものではなく、近隣諸国でも問題視されている。

フェール川河口に締切堤防が築かれてから、はや四世紀。幅一七〇メートル、全長三キロメートルに及ぶ頑丈な作りだが、最後に大規模な補強工事が行われてから八十年以上が経過し、その間にも河川や気象は大きく変化している。締切堤防だけでなく、沿海の盛土堤防や町中の排水施設も同様だ。

とりわけフェールダム北部沿岸の盛土堤防のように、七世紀も前に造設され、何期にも分けて盛土を施したような旧式の堤防は、定期的に補強しないと想定外の水害を引き起こす恐れがある。

高潮で盛土堤防が越水し、干拓地に大量の海水が流れ込んで、塩湖や町中の運河の水位が一気に上昇すれば、頑丈な締切堤防も非常に危険な状態になる。これに高潮が加われば、幅一七〇メートルのコンクリートダムでもひとたまりもないだろう。
また干拓地そのものも自身の重みで年々地盤沈下しており、フェールダム一帯の治水能力が落ちているのは明白だ。一刻も早く計画高水位を見直し、各施設の補強を急ぐ必要がある。

治水局でも政務担当官らが第二次デルタ計画の準備委員会に加わり、問題点の整理や計画立案に当たっているが、大都市の高機能堤防のように、幾つもの河口に跨がって築堤されている重要施設ばかりが優先され、フェールダムのような人口七千人の干拓地の盛土堤防や、中規模な締切堤防は後回しにされがちだ。また五年後にはフェールダムの東側にある可動式大防潮水門で国際自転車競技が開催されることもあり、州やイベント関係者としてはそちらの改修を急ぎたい。
先日も、自治体の代表や専門家を交えて話し合ったが、結果は何時もと同じだ。七千人が暮らす干拓地の安全より、数日で終了する自転車競技の方が重要だとでもいうのだろうか。

そんなグンターにカールスルーエの父が言う。

「まだ引っ越す気はないのか」

「それは無理だよ。ヴァルターもサッカー仲間と楽しくやっているし、僕とアンヌも地域社会との繋がりが深まって、ようやくこの町の一員になれた手応えを感じているところだ。懸念は分かるが、そんな簡単に住まいは移せない。ヴァルターも嫌がるだろう。治水のことは皆で力を合わせてやっている。ある程度は予測も立つし、いざとなればカールスルーエに避難することもできる。もう少し様子を見たい」

「それと同じことを、火砕流で埋まった町の住人も言っていた。今すぐ大噴火など起こりっこない、ある程度の予測は立つと。だが、人間が予測できる範囲は限られている。まして水や火を完全にコントロールすることは不可能だ。水位が上昇し、ひとたび越水が始まれば、何所にも逃げようなどないんだよ」

「噴火と越水は違う。僕はその為に仕事に全力を注いでいる。心配は分かるけど、そんな簡単に住まいは移せない」

「……お前も頑固だ」

父の懸念もわかるが、今の暮らしを変える気にもなれない。だからこそ、いっそう研鑽を積み、この町の治水に全力を尽くしているのだ。

これはもはや仕事などではない。信念の体現だ。自らが防波堤となり、愛する家族と町を守る。自分一人が安全な場所に逃れて何になろう。たとえこの身が砕けても、最後まで堤防を守りたい。自分の生き様が我が子の指針となるように。

締切堤防の補強工事の撤回と自治体の思惑

一方、第二次デルタ計画は全国規模で展開し、ゼーラント州でも具体的な立案が進んでいる特に水害の危険性が非常に高いフェールダム一帯については幾度となく話し合いがもたれ、フェール塩湖の締切堤防の補強工事が関係者の全員一致で採決された一八二年末には、治水政策において大きな権限をもつペーテル・ファン・エイクの確約も取り付け、長年にわたる治水研究会の活動もようやく報われた感があった。

ところが、三月になって突然、補強工事の予定が撤回され、可動式大防潮水門の改修工事が優先されることになった理由は、来年開催される国際自転車競技大会に向けて、自転車道路のリニューアルや緑地の整備、海面上昇と砂の流出によって徐々に水没している中州島の補強、老朽化した船着き場をモダンなマリーナに改装し、観光客を呼ぶ為だ。

確かに、防潮水門の中程に位置する中州島は全長七キロメートルに及ぶ広大な河口のど真ん中にあり、水門よりも中州そのものが水没の危険にさらされているそれでもフェールダム沿海の盛土堤防や塩湖の締切堤防に比べたら、はるかに頑丈で、耐性にも優れている急ぐというなら、前回の補強工事から八十年が経過し、干拓地そのものに脆弱性が見られるフェールダムの方がよほど問題だそれを裏付けるデータも治水研究会が提示しているのに、自治体は別の調査機関のデータを持ち出し、フェールダムの補強は火急の案件ではないと結論づけたそして、「防潮水門の改修工事の後、来秋以降」という条件で補強工事を延期したのだ。

この決定で、フェールダムの締切堤防と盛土堤防の補強工事に充てられるはずだった予算も人手も防潮水門に回され、田舎の干拓地には為す術もない来秋以降、本当に補強工事が実施されるのかも懐疑的だ。

長年フェールダムの治水に携わってきた関係者は憤懣やるかたないが、治水行政のトップが決めた事には従わざるを得ず、「今夏が来秋に延期になっただけ」と納得するしかない。

そうして防潮水門の改修工事が始まった一八三年八月、ヴァルターは十三歳の誕生日を迎え、大学進学を視野に入れた後期中等教育の学校に通うことになった。

進学祝いの意味もあり、誕生日には少し奮発して見映えのいいダイバーズウォッチをプレゼントした大人向けのシリコンベルトが逞しくなった少年の腕にぴたりと嵌まり、ヴァルターも嬉しそうだ。

サッカーも以前に増して上達し、この夏にはプロリーグの主催するジュニア部門の練習に参加することも叶った本気でそれを望むなら、納得がいくまでさせてやりたい。

【参照】 1953年 オランダの北海大洪水

国土の大半が海抜0以下の低地で知られるオランダは、度々、大洪水に見舞われ、何千という人々が命を落としてきました。

1953年の北海大洪水では、非常に発達した冬の低気圧と大潮の時期が重なった為に、北海沿岸を未曾有の高潮と暴風波浪が襲い、2551名(公式発表)の沿海の市民が命を落とし、多くの人が住まいを失う大災害となりました。

この水害を教訓に、オランダは国家を挙げて治水を強化する第一次デルタ計画を打ち立て、南部ゼーラント州の三角州(デルタ)地帯を中心に、堤防や水門などの治水施設を増強しました。

現在は、地球温暖化とそれに伴う海面上昇に備えて、いっそうの治水強化に取り組んでいます。

キンデルダイク博物館の説明では、もしオランダ中の治水設備が停止したら、48時間以内に国土の三分の一が冠水すると言われています。

オランダの国土がどれくらい平たいか(低地)といえば、午前中(満潮から数時間)、すぐ側まで迫っていた波打ち際が……

どんどん水際が遠ざかる

干潮の頃には、海水がほとんど引いてしまって、波打ち際も見えません。
場所によって、その差は数百メートルに及びます。

それだけ国土が平らで、海面との高低差がほぼゼロに等しい、ということです。

日本の海岸の場合、どこも数十センチから数メートルの高低差がありますから、海面が数十センチ上昇したぐらいで、海水がどっと町中に押し寄せることはありません。

でも、オランダの場合、数十センチの海面上昇でも命取りになります。

水を遮る段差もなければ、丘陵もないからです。

それが上流から流れ込むライン川の水と相成って、国土が水浸しになるわけですね。

水際が遠ざかる砂浜

オランダの水との闘いは、干拓地(ポルダー)、風車(排水ポンプ)、運河(水路)、ハイテク堤防といった、様々な文化資産を生み出してきました。

God schiep de Aarde, maar de Nederlanders schiepen Nederland
世界は神が創り給うたが、ネーデルラントはネーデルラント人が作った

と言われる所以です。

治水は、日本でも特に必要とされる技術の一つのです。

治水に努めることは、自らの手で国土を創出することでもあります。

国民生活の根幹を成す、非常に重要な施策です。

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