人生の半ばにおいて、人生は私を失望させはしなかった

この投稿は、海洋科学、鉱業、建築・土木をテーマにしたフィクションです。詳しくは作品詳細をご参照下さい。


第一章 運命と意思 ~ローエングリン -大堤防- (8)
STORY
言葉の問題を乗り越え、サッカー仲間もできた息子ヴァルターの姿に、グンターはようやく苦難を抜け出したことを実感する。一方、締切堤防の補強工事をめぐって自治体と対立。水害の脅威が迫っているのに可動式台防潮水門の改修工事が優先される。
第一章 運命と意思 ~ローエングリン -決壊-  (2)
目次

ニーチェの『悦ばしき知識』より

言葉の問題を乗り越え、サッカー仲間もできた息子ヴァルターの姿に、グンターはようやく苦難を抜け出したことを実感する。一方、締切堤防の補強工事をめぐって自治体と対立。水害の脅威が迫っているのに可動式台防潮水門の改修工事が優先される。

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そうして再びチューリップの季節が訪れ、向かいの緑地に子供の声が戻って来た頃、グンターは大雪で傷んだ樋を直そうと壁にスチール梯子を立てかけた。接着剤と小道具を携えて梯子を登り、継ぎ手のズレを直したまではよかったが、うっかり梯子を踏み外し、右足をひどく挫いた。幸い骨に異常はなかったが、くるぶしは赤く腫れ上がり、二週間以上のギプス固定が必要になった。

サッカーの相手もできず、緑地のベンチで休んでいる傍らで、ヴァルターは一人淋しくボールを蹴っている。そろそろ仲間も欲しいだろうに、地元のサッカークラブに入ることを勧めても、頭をぶんぶん振るだけだ。

しばらくすると、同じ年ぐらいの男の子が六人やって来て、サッカーコートで三対三のミニゲームを始めた。この公団では見かけない顔だ。遠くから来たのか、フェンス脇には自転車が折り重なるように立てかけてある。

隣町から来たのかな……と眺めていると、これがびっくりするほど上手い。まだ十歳くらいなのに、パス、ドリブル、フェイント、ウェッジコントロールなど、基礎のテクニックがほとんど身についている。

特に司令塔の男の子。年齢は十一歳か十二歳くらい、ダンプカーみたいに頑丈で、仲間に力強く指示を出している。一緒にプレーしている子たちも豹のように俊敏で、中学生でもここまで統制のとれたコンビネーションプレーは難しい。

ヴァルターも一緒にプレーしたいのか、サッカーコートの側で彼らに併せてドリブルしたり、リフティングしたり。「仲間に入れて」の一言が言えず、身振り手振りでアピールだ。自分が子供の頃は、サッカーボール一つで誰とでも友達になれたものだが、それもこの子の性格だ。気長に見守るしかない。

ヴァルターは父親の助けが欲しいのか、時々、こちらをチラ見するが、グンターは本を片手に気付かない振りをする。気持ちは分かるが、一から十までお膳立てするのも賢明ではないだろう。

そのうちダンプカーみたいな少年が「よぉ、お前も一緒にプレーしたいのか」とヴァルターに声を掛けた。「来いよ。一緒にやろう」。

ヴァルターは不安げにグンターを見やったが、グンターが背中を押すように息子の目を見つめ返すと、おずおずとコートに入った。

ヴァルターが加わると、少年たちは速やかにプレーを再開し、四対三に分かれてボールを蹴り始めた。

ヴァルターも最初は皆の動きに圧倒されて、後を追いかけるだけだったが、途中でダンプカーみたいな少年が気遣ってボールを回すと、よほど嬉しかったのか、積極的に攻撃に転じるようになった。
なんとまあ。

子供同士の遊びなのに、あの子一人が本気になって、まるで「俺様ワールドカップ」だ。鬱屈した心のエネルギーをぶつけるようにボールを蹴り、果敢にゴールを攻める。この子のどこに、こんな火の玉みたいな激しさがあったのか、グンターもただただ圧倒されるばかりだ。

だが、それに刺激されるように他の子たちも熱気を帯び、今は実戦さながらのプレーを展開している。さすがにヴァルターはコンビネーションプレーは出来ないが、ダンプカーの少年にアシストしてもらって、積極的にシュートを打っている。

半時間も走り回ると、少年たちは息を切らしてその場に座り込み、手持ちのスポーツドリンクをがぶ飲みした。

ヴァルターも肩で息せき切らしながらグンターの方に戻ってくると、「みんな、すごく上手いんだ!俺、付いていくのに精一杯だったよ!」と顔を輝かせた。

そのうちダンプカーみたいな少年も彼らの方にやって来て、
「お前、すごいじゃないか。どこのクラブでプレーしてるんだ?」
と太い声で尋ねた。

ヴァルターが父親を指差すと、
「そうか、父ちゃんに習ってんのか。でも、もっと上手になりたければクラブに入った方がいい。サイド攻撃やポゼッションはチームでないと身に付かないからな」
と少年は言った。

ヴァルターはぶんぶん頭を振ったが、少年は気にする風もなく、「気が向いたら、また来いよ。オレたち、来週もここでプレーするから」と声をかけると、自転車にまたがり、颯爽と団地の向こうに走り去っていった。

言葉通り、少年たちは次の土曜日もやって来て、今度は公団の子らも交えて十数人でプレーを始めた。

ヴァルターは二階の自室の窓から緑地を眺め、「父さん、あの子が来たよ、俺も行っていい?」と嬉しそうに叫ぶ。友達と遊ぶのに、もう父親は必要なく、仲間の輪に入って、生き生きとプレーに興じている。

小さなライオンみたいにフィールドを駆け回る息子の姿を見ながら、グンターはつくづく思う。

《人生の半ばにおいて(In media vita)――いな!人生は私を失望させはしなかった! それどころか、私には、年を重ねるにつれ人生は一そう豊かな、一そう好ましい、いよいよ神秘に充ちたものに感じられる》

《「人生は認識の一手段なり」――この原則を抱懐するわれわれは、ただに勇猛であるだけでなく、悦ばしく生き悦ばしく笑うことすらできるのだ!何はさておきまずもって戦闘と勝利の道に通暁する者でなければ、そもそも誰が一体良く笑い良く生きるすべを解しえようぞ!》*30

辛いことも悲しいことも、いつかは通り過ぎていく。

苦しみばかりの人生もなければ、楽しいことだけに彩られた暮らしもなく、物事の様々な側面を味わい、その時々の学びや感情を噛みしめることが生の意義なのだ。

ヴァルターもその意味を理解できたなら、些細なことで落ち込んだりせず、一日一日を楽しむことができる。他人に嗤われようと、けなされようと、これが自分だと胸を張り、肩肘張らずに生きていくことができるだろう。

生きて、ヴァルター。

どんな時もだ。

その為に、僕がいる。

いつの日か、君が「もう一度!」の気持ちを感得するまで、僕はいつまでも君の側を離れない。

<中略>

翌春。

グンターは上級技師の試験に合格し、治水局でも立案を司るワンランク上の職務に昇級した。治水研究会でも地元の有識者や土木技師らと連携し、中心的な役割を担うようになっている。

関係者の目下の懸念は、ここ数年の異常気象と、フェールダムの生命線とも言うべき締切堤防の老朽化だ。

以前からフェール塩湖や河川の水位上昇が指摘されてきたが、ここ数年の突発的な集中豪雨と潮位の異常はネーデルラント南部に限ったものではなく、近隣諸国でも問題視されている。

フェール川河口に締切堤防が築かれてから、はや四世紀。幅一七〇メートル、全長三キロメートルに及ぶ頑丈な作りだが、最後に大規模な補強工事が行われてから八十年以上が経過し、その間にも河川や気象は大きく変化している。締切堤防だけでなく、沿海の盛土堤防や町中の排水施設も同様だ。

とりわけフェールダム北部沿岸の盛土堤防のように、七世紀も前に造設され、何期にも分けて盛土を施したような旧式の堤防は、定期的に補強しないと想定外の水害を引き起こす恐れがある。

高潮で盛土堤防が越水し、干拓地に大量の海水が流れ込んで、塩湖や町中の運河の水位が一気に上昇すれば、頑丈な締切堤防も非常に危険な状態になる。これに高潮が加われば、幅一七〇メートルのコンクリートダムでもひとたまりもないだろう。
また干拓地そのものも自身の重みで年々地盤沈下しており、フェールダム一帯の治水能力が落ちているのは明白だ。一刻も早く計画高水位を見直し、各施設の補強を急ぐ必要がある。

治水局でも政務担当官らが第二次デルタ計画の準備委員会に加わり、問題点の整理や計画立案に当たっているが、大都市の高機能堤防のように、幾つもの河口に跨がって築堤されている重要施設ばかりが優先され、フェールダムのような人口七千人の干拓地の盛土堤防や、中規模な締切堤防は後回しにされがちだ。また五年後にはフェールダムの東側にある可動式大防潮水門で国際自転車競技が開催されることもあり、州やイベント関係者としてはそちらの改修を急ぎたい。
先日も、自治体の代表や専門家を交えて話し合ったが、結果は何時もと同じだ。七千人が暮らす干拓地の安全より、数日で終了する自転車競技の方が重要だとでもいうのだろうか。

そんなグンターにカールスルーエの父が言う。

「まだ引っ越す気はないのか」

「それは無理だよ。ヴァルターもサッカー仲間と楽しくやっているし、僕とアンヌも地域社会との繋がりが深まって、ようやくこの町の一員になれた手応えを感じているところだ。懸念は分かるが、そんな簡単に住まいは移せない。ヴァルターも嫌がるだろう。治水のことは皆で力を合わせてやっている。ある程度は予測も立つし、いざとなればカールスルーエに避難することもできる。もう少し様子を見たい」

「それと同じことを、火砕流で埋まった町の住人も言っていた。今すぐ大噴火など起こりっこない、ある程度の予測は立つと。だが、人間が予測できる範囲は限られている。まして水や火を完全にコントロールすることは不可能だ。水位が上昇し、ひとたび越水が始まれば、何所にも逃げようなどないんだよ」

「噴火と越水は違う。僕はその為に仕事に全力を注いでいる。心配は分かるけど、そんな簡単に住まいは移せない」

「……お前も頑固だ」

父の懸念もわかるが、今の暮らしを変える気にもなれない。だからこそ、いっそう研鑽を積み、この町の治水に全力を尽くしているのだ。

これはもはや仕事などではない。信念の体現だ。自らが防波堤となり、愛する家族と町を守る。自分一人が安全な場所に逃れて何になろう。たとえこの身が砕けても、最後まで堤防を守りたい。自分の生き様が我が子の指針となるように。

<中略>

一方、第二次デルタ計画は全国規模で展開し、ゼーラント州でも具体的な立案が進んでいる特に水害の危険性が非常に高いフェールダム一帯については幾度となく話し合いがもたれ、フェール塩湖の締切堤防の補強工事が関係者の全員一致で採決された一八二年末には、治水政策において大きな権限をもつペーテル・ファン・エイクの確約も取り付け、長年にわたる治水研究会の活動もようやく報われた感があった。

ところが、三月になって突然、補強工事の予定が撤回され、可動式大防潮水門の改修工事が優先されることになった理由は、来年開催される国際自転車競技大会に向けて、自転車道路のリニューアルや緑地の整備、海面上昇と砂の流出によって徐々に水没している中州島の補強、老朽化した船着き場をモダンなマリーナに改装し、観光客を呼ぶ為だ。

確かに、防潮水門の中程に位置する中州島は全長七キロメートルに及ぶ広大な河口のど真ん中にあり、水門よりも中州そのものが水没の危険にさらされているそれでもフェールダム沿海の盛土堤防や塩湖の締切堤防に比べたら、はるかに頑丈で、耐性にも優れている急ぐというなら、前回の補強工事から八十年が経過し、干拓地そのものに脆弱性が見られるフェールダムの方がよほど問題だそれを裏付けるデータも治水研究会が提示しているのに、自治体は別の調査機関のデータを持ち出し、フェールダムの補強は火急の案件ではないと結論づけたそして、「防潮水門の改修工事の後、来秋以降」という条件で補強工事を延期したのだ。

この決定で、フェールダムの締切堤防と盛土堤防の補強工事に充てられるはずだった予算も人手も防潮水門に回され、田舎の干拓地には為す術もない来秋以降、本当に補強工事が実施されるのかも懐疑的だ。

長年フェールダムの治水に携わってきた関係者は憤懣やるかたないが、治水行政のトップが決めた事には従わざるを得ず、「今夏が来秋に延期になっただけ」と納得するしかない。

そうして防潮水門の改修工事が始まった一八三年八月、ヴァルターは十三歳の誕生日を迎え、大学進学を視野に入れた後期中等教育の学校に通うことになった。

進学祝いの意味もあり、誕生日には少し奮発して見映えのいいダイバーズウォッチをプレゼントした大人向けのシリコンベルトが逞しくなった少年の腕にぴたりと嵌まり、ヴァルターも嬉しそうだ。

サッカーも以前に増して上達し、この夏にはプロリーグの主催するジュニア部門の練習に参加することも叶った本気でそれを望むなら、納得がいくまでさせてやりたい。

*30) ニーチェ全集『悦ばしき知識』 信太正三(訳)ちくま学芸文庫

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