愛し、愛されて、生きる悦びを感じたい
父に支配される娘
リズは船会社のオフィスを訪ねると、電話を借りてセス・ブライトに連絡した。
程なくシルバーグレーの車が到着し、リズはバスタオルを身体に巻いたまま後部座席に収まった。
セスは無言で車を走らせ、島の西側にある高級住宅街に向かった。
ローレンシア島の住民の大半は、工場の建ち並ぶ東側でなく、美しい砂浜海岸が広がる西側に住んでいる。島の中心地であるセントクレアや、一番古い港町のメアリポート周辺だ。
だが、地位も財産もあるアッパークラスの人々は、セントクレアから十五キロほど離れた北の高台に住み、高度なセキュリティシステムに守られたゲーテッド・コミュニティを形成している。一般車両の乗り入れも禁じられた秘密の花園だ。セス・ブライトの自宅もそうしたコミュニティの一角にあった。
十二年前に購入した二階建ての邸宅は、モダンなスパニッシュスタイルで、さほど大きくはないが、随所にガラスと木材を取り入れたデザインがシティホテルのように洗練されている。オフホワイトを基調としたシンプルな内装で、カタルーニャ地方にルーツを持つイーダ夫人が選んだシュールレアリスムの抽象画や、ヴィヴィッド色合いの家具調度が華やかなアクセントを添えている。
イーダ夫人はいつものようにセスを送り出した後、夕食の煮込み料理を作りながら、個人で請け負っているスペイン語翻訳に取り組んでいた。ところが午前九時過ぎ、会社に行っているはずの夫が突然帰宅し、ずぶ濡れのリズを連れて帰ると、夫人はすぐに二階のバスルームに案内した。タオルと着替えを手渡し、ジェットマッサージ付きのバスタブにシャワージェルが十分に泡立つと、「お茶とお菓子の用意をしておくわ」と声かけし、階下に降りた。
だが、夫人が行ってしまうと、リズはへなへなと床に座り込み、幼子みたいに涙を流した。海に突き落とされた事より、男性の腕に抱きすくめられた事の方がはるかにショックだった。
*
エリザベス・ベアトリクス・マクダエルが生まれたのは、UST歴一七六年三月二十日だ。トリヴィアでは縁起がいいとされる『うお座*48の女の子』で、アルが三十五歳の時の子だ。物心ついた時には母はなく、だだっ広い邸宅に、父と伯母ダナと数人の家政婦だけが住んでいた。
母のアンナは、金属材料研究所の主席研究員に迎えられたエリク・ブレアの妹で、ラテン語研究会を主宰する聡明な人だったが、生まれながらに視覚障害をもち、大人になる頃にはほとんど盲目だった。その上、十八歳の時に前方不注意のオートバイにはねられ、下半身に重傷を負い、車椅子生活を余儀なくされていた。にもかかわらず、父が熱心に求婚したのは、人間的にも知性においても素晴らしい女性だったからだ。
だが、母は産み月に早期胎盤剥離で大出血を起こし、リズは生き延びたが、母は助からなかった。ゆえに母の記憶は全く無く、写真やビデオで知るのみである。
リズは父と伯母と選りすぐりのナニー*49の手で大事に育てられ、美しく成長した。母のない子供時代ではあったが、エルバラードの邸宅には気立てのいい家政婦が何人もいて、孤独を感じたことはない。ちょっぴり淋しいと言えば、父と伯母が揃って出張に出る時ぐらい。
だが、その淋しさも、十代になると開放感に取って代わった。大人向けの恋愛映画を鑑賞したり、伯母が若い頃に着ていたベアバックの夜会ドレスに袖を通してみたり。
それでも、いつかは父や伯母の元から飛び立ち、自力で生きたいと願う。
だが、『アル・マクダエルの娘』であることは、いろんな意味で彼女の自由を奪った。
第一に、セキュリティ。
第二に、社会的イメージだ。
彼女には常にボディガードが付き、一人で気ままに町を歩くことも叶わない。学校、デパート、アイスクリームショップ。女性専用の美容サロンにさえ護衛が付き、待合室でファッション誌を眺める若い女性客に交じって、武骨な男性がテンプル騎士団の団長みたいに丸椅子に腰掛け、リズのチョコレートエステが終わるのをじっと待っているのだ。こんな状態で自活など夢のまた夢。「新婚旅行にまで護衛が付いてくる」という大学の先輩の言葉も決して誇張ではない。
また父とMIGの社会的イメージを保つのも彼女の重要な役目だ。
世の中には、娘や息子の不祥事が原因で企業イメージを損なったり、親の社長が引責辞任したり、世間に厳しく糾弾されて、表舞台から姿を消す人も少なくない。父が仕事に専念し、名声がいっそう高まるよう、彼女自身も研鑽を積み、真面目で清廉なイメージを保つことが何よりも重要だ。
そんな娘を父はいっそう慈しみ、宝物のように大事にしてくれるが、父の愛念は時に重荷だ。行動のみならず、心や価値観まで支配されているように感じる。
それを嫌というほど思い知らされたのが、『エヴァン・エーゼル基金』の謝恩会だ。
リズはエルバラード大学の社会学部に進学する際、「在学中に何か一つ、自分の力で成し遂げること」を父と取り決めた。
初めはなかなかテーマを見つけることができなかったが、二十歳の時、ネンブロットの鉱害病に関するドキュメンタリー番組に衝撃を受け、父に「援助できないか」と申し出た。
「それなら自分で組織して、支援金を集めてごらん。わしの懐から出すのは簡単だが、それではお前の為にならない。活動が実を結び、大勢に支持されたら、その時には喜んで寄付させてもらうよ」
リズは早速、女子大生の社交クラブ『ヴァージニア・ソロリティ』のメンバーを中心にエヴァン・エーゼル基金を結成した。最初は個人の寄付金やバザー収益を元に、医薬品を提供したり、専門医を派遣するような細々した活動だったが、十代二十代の美しい乙女らが、鉱工業メーカーや行政の管轄部署を訪ね歩き、熱心に援助の必要性を説いて回る姿が興味半分にメディアで取り上げられると、あちこちから協力者が現れ、活動の幅も広がった。
くわえて、中心メンバーに『アル・マクダエルの娘』がいるという話題性も手伝って、エヴァン・エーゼル基金はますます注目を集め、ネンブロットの遠隔の居住区に鉱害病専門の高度医療センターを設立するという大きな目標を達成することもできた。
そして、二十四歳の誕生日を間近に控えた三月十四日、基金の主要メンバーは、大学内外の協力者をはじめ、積極的に支援してくれた企業や行政機関の担当らを招いて、グランドホテルの宴会場で謝恩会を催した。
リズは基金の代表としてスピーチに立つことになり、行きつけのオートクチュールでロイヤルブルーのサテンドレスをオーダーしたが、いつもの年配デザイナーが腰痛を患って休職中の為、リズのドレスは若い女性デザイナーが担当することになった。それは少しも構わないのだが、代理のデザイナーは「若い女性はもっと大胆に装った方がいい」と、肩から胸元にかけて大きく開いたオフショルダーを勧めた。一度くらい、そういうデザインもいいかもしれないと承諾したが、出来上がったドレスは、リズが思い描いていたより、ずっとカッティングが深く、挑発的だった。しかも胸のボリュームがいまいちだとジェルパッドを詰められ、胸元がメロンのように盛り上がって見える。最初は我慢していたが、周りの男性にあまりにジロジロ見られるので途中で嫌気が差し、化粧室の個室に駆け込んだ。
指先で胸元の裏地を探り、小さな隙間を破って、どうにか片方のジェルパッドを取り出したが、もう一つがなかなか取り出せない。狭い個室で四苦八苦していると、三名の女性が中に入ってきた。一番親しくしていたキャサリンとその仲間だ。
彼女らは化粧ポーチを開いて洗面台の前に立つと、
「今日のあの人の格好、見た?」
一人が面白おかしく言った。
「無理して、肩出しのドレスを着てたわわね。いつものおばあちゃんデザイナーに頼まなかったのかしら」
「今日はパパが居ないから、背伸びしたんじゃないの」
もう一人がクスクス笑う。
私のことだ――リズはすぐに直感し、個室の中で身をすくめた。
「それにつけても腹が立つと思わない? あの人ばかり注目されて、いったい誰のおかげでここまで活動が大きくなったと思うのよ」
さっきの女性が口を尖らせると、もう一人も頷き、
「セキュリティやら何やらで、あの人が身動き取れない時も、十軒、二十軒と会社回りをして寄付金を集めたのは私たちよ。なのに、アル・マクダエルの娘というだけでチヤホヤされて、いったい何様のつもりかしら」
すると、黙って聞いていたキャサリンが口紅を塗りながら、
「しょうがないでしょう。あの人のパパは超がつくほどの有名人。どこで何をしようとパパの威光が付いて回る、そういう定めの人よ」
その言葉を聞いて、リズは(やっぱりキャサリンは解ってくれていた)と胸を撫で下ろした。
だが、他の二人は口々に不満を漏らし、「あなたは腹が立たないの?」とキャサリンに同意を求めた。
キャサリンは、しばらく無言でパウダーパフをはたいていたが、
「あの人と一緒に活動すると決めた時から、どうせこうなるだろうと諦めてたわ。いい年して、二言目には『パパ、パパ』って、気持ち悪いったらありゃしない。あの人もパパの名声がいっそう高まって嬉しいんじゃないの。なにせ口紅の色を決めるのも、ドレスの型紙を選ぶのも、ぜーんぶパパにお伺いを立てるような『パパ大好き人間』ですもの」
すると他の二人も「言ったぁ!」「それ、禁句でしょう」とケラケラ笑いながら相づちを打った。
「ファザコンもあそこまでいくと重症ね。やんごとなきお姫さまみたいに取り澄まして、堅苦しいったらありゃしない。あの人、いつも私たちの話を分かったような顔でウンウン頷きながら聞いてるけど、本当は男のことなんて、なーんにも知りやしないのよ。この前もアマンダがモニカのボーイフレンドと寝たことを打ち明けたら、『そんなの不実だわ。二人に謝罪すべきよ』なんて説教を始めて、どっちらけもいいとこ。アマンダだって自分が悪いのは先刻承知、だから苦しんでるのに、追い打ちをかけるような事を平気で口にして、どこまで無神経なんだか。あんなパパっ子に男女の機微など逆立ちしたって分かりやしない。顔は綺麗だけど、中身は枯れたおばあちゃん。あんな子と付き合っても、男はすぐに退屈して、あっという間に逃げ出すわよ」
他の二人もキャハハと笑い、「まるでドライフラワーね」とそしりながら化粧室を出て行った。
リズは頭の中が真っ白になり、その場にくずおれそうになった。
セキュリティのことも、『アル・マクダエルの娘』としての立場も、理解してくれていたのではなかったか。不審な男に付きまとわれ、警備会社から外出を控えるよう厳しく言われた時も、「あなたも大変ね」と皆で励ましてくれた、あの気遣いは嘘だったのか。
リズの目に涙があふれ、化粧室の個室で泣き叫びそうになったが、スピーチの時間が迫っている。今日はエヴァン・エーゼル基金の代表として、総額百五十億エルクもの寄付金が集まったことに謝意を示す大事な日だ。涙に濡れた顔で壇上に立つわけにいかない。
リズはぎゅっと唇を噛みしめると、(誰が何と言おうと、私は精一杯やった。企画、調整、PR、皆が尻込みしてリストから外した企業や団体にも自分から出かけて、必死に助力を請うた。百五十億エルクの寄付金が集まったのは『アル・マクダエルの娘』だからではない。ネンブロットの鉱業問題に対して社会の理解を得られたからだ)と自分に言い聞かせた。
それからドレスを整え、堂々と演壇に上がると、立派にスピーチを務めた。私は『アル・マクダエルの娘』ではない、エリザベス・ベアトリクス・マクダエルという、一人の自立した女性だと身体の奥から叫ぶように。
活動は高く評価され、寄付金を元に高度医療センターの建設も始まったが、リズの心は晴れない。仲間の揶揄が楔のように胸に突き刺さり、自我というものが根底から揺らぎ始めたからだ。
それを機に、父に対する態度も変わった。
自分では決して言いなりになっているつもりはないが、もしかしたら、キャサリンの言う通り、心も価値観も父に支配されているのかもしれない。口紅を選ぶ時、ドレスの型を決める時、常に父の顔が脳裏に浮かび、父の好みに合わせている自分がいるからだ。
そうなると、父の一言一言が神経に障るようになり、口答えも多くなった。父も小言が多くなり、ここ最近は口喧嘩ばかり。エンデュミオンに行ったのも、逃避というよりは、自分の力量を示す為だ。六〇〇キロを一人で移動する。普通の女性には何でもない事も、彼女には大冒険だ。物心ついた時から、ほんの数キロさえ、一人で町を歩いたことがなかった。
恋の予感
それだけに、ヴァルター・フォーゲルの話を聞いた時、どれほど興味を掻き立てられたことか。「十三歳で父親と死に別れた」「十六歳で商船学校に進み、寄宿舎に暮らして、観光船の切符もぎや船掃除のアルバイトで身を助けた」「大学時代から復興ボランティアに参加し、再建コンペでは世界的な建築家と真っ向勝負して、自身のアイデアを語った」等々。
それほどに強い翼をもって自力で生きられる人が羨ましい。どんな顔をしているのか。どこからそんな勇気が湧いてくるのか。リズには想像もつかない。しかも、父が直々に拾い上げた人だ。並であるはずがない。
リズはヘラクレスのように猛々しい男性をイメージしていたが、今朝、海で出会った人は、潮騒のように優しかった。あの逞しい腕や碧い瞳を思い出すだけで、胸の奥がきゅっとなる。
だが、彼女の甘い回想も、彼のくれた白いバスタオルのロゴマークが目に入った途端、吹っ飛んだ。ニッコリ笑うお日様のイラストの下に「Happy Anniversary 10th. Sunny drug store(開店十周年記念。お日さま薬局)」という文言が小さくプリントされていたからだ。
(なんてケチな人なの!)
可笑しいやら、腹が立つやら、リズは涙を拭って立ち上がると、濡れた服を脱ぎ、香りの立つバスタブに全身を浸した。
まだ誰の愛も知らない無垢な身体だ。年齢の割には稚く、腰骨が浮き出たようなボディラインが気になるが、肌はミルクのようになめらかで、弾力がある。まだ髪や指先にヨードの腐ったような臭いが残っているが、スポンジで軽く擦ると、嫌な臭いも消えた。最後に熱いシャワーをたっぷり浴びて、大判のバスタオルを身体に巻き付けて洗面台に立つと、いつもの瑞々しい乙女の顔が鏡に映った。
瞳はアクアマリンのような水色で、世界を見澄ますように大きく見開かれている。つんと上を向いた鼻筋はいまいち好きになれないが、唇は柔らかい珊瑚色で、ほころびかけたバラの蕾のように愛らしい。
ラファエル前派の絵画のように清麗とした顔立ちは、母よりも伯母に似ている。若い頃、「百年に一度の美貌」と称えられた伯母は、六十五歳になった今も女性向けビジネス誌やシニア・ファッション誌の表紙を飾るほど麗しいが、あなたはそれ以上だと誰もが褒めてくれる。
だが、誰にも愛されない美しさにどんな価値があるというのだろう。強く抱きしめられたこともなければ、「好きだよ」と打ち明けられたこともない。顔や首筋をじろじろ見られることがあっても、それは大抵、欲情の入り交じった、気味の悪い視線だった。
もちろん、男性には興味があるし、恋愛に対する憧れも人一倍強い。だが、そこまで心惹かれる人はなかったし、大学の仲間みたいに、ちょっと気が合っただけで一夜を共にするほど気安くもなれない。それを「お高くとまっている」と取られては、真実の愛も探しようがないだろう。
リズは軽く溜め息をつくと、化粧台の美容クリームに目を留めた。
イーダ夫人は既に五十代だが、目尻の小皺も、そばかすも、まるで気にならないほど魅力的だ。むしろ子を産み育て、愛する夫と幸せな家庭生活を営む女性の円熟味が全身に漂い、若いだけのリズより、うんと輝いて見える。
このまま、恋も知らず、仕事もせず、ドライフラワーみたいに年だけとって、惨めな気持ちで人生を終わりたくない。
あの人が羨ましい。
自力で海を渡り、悦びも悲しみも人一倍経験しながら、ますます逞しくなっていく。
それに比べて、私はまるで篭の鳥だ。父の鎖に繋がれたまま、一人で生きる術もなく、頭の中だけで人生に憧れている。
自由が欲しい。
愛し、愛されて、生きる悦びを感じたい。
リズはふと彼の腕の強さを思い出し、ぽーっと顔を赤らめた。
男の人って、あんなに大きくて、胸も広いもの?
女性の身体がすっぽり収まるくらい……。
その時、階下からイーダ夫人の声がし、リズは慌てて身繕いした。手早く髪を乾かし、イーダ夫人に借りたホームウェアに着替えると、ぱたぱたと階段を下りていった。
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