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心の漂流 ~何所にも帰る場所はなく

本作は、海洋科学や土木・建築をモチーフにしたサイエンス・フィクションです。
投稿の前半に小説の抜粋。 後半に参考文献や画像・動画を掲載しています。
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第一章 運命と意思 ~オランダ人船長・漂流(4)
STORY
継父のジャン・ラクロワはヴァルターの心を開こうと、プライベートジェットでハワイに連れて行くが、旅が豪華なほど、父の素朴な愛と教えが思い出され、ますます心を閉ざしてしまう。イルカの見学ツアーで自殺騒ぎを起こした帰路、ヴァルターは継父の口から「甘やかし、無責任」という思いがけない言葉を聞かされる。 継父の言葉に心を乱されるヴァルターは苦しみを紛らわせる為に上級生マルコの差し出すハーブシガレットを口にする。 記憶も消し飛ぶほどの爽快感に酔いしれるが、継父との関係はますます険悪になり、母にも当たり散らすようになる。
目次

心の漂流 ~何所にも帰る家はなく

父の愛は甘やかし? 無責任? 

それから一ヶ月が過ぎ、復活祭のイースターエッグが飾られる頃、ラクロワ氏がプライベートジェットでハワイ島に連れて行ってくれた。「キラウエア火山が見たい」と言ったら、次の週末には旅行の手配をし、魔法の絨毯を飛ばしてくれたのだ。

ハワイに到着すると、さっそくベテランの現地ガイドが世界有数の活火山に案内してくれた。その後、ブルナウ黒砂海岸でウミガメを観察し、ハマクア・コーストの豊かな熱帯雨林を小型飛行機で遊覧した。

雄大な景色は一瞬悲しみを忘れさせてくれるが、感動が大きければ大きいほど、父の居ない淋しさに胸を締め付けられる。どれほど豪華な部屋に泊まろうと、目の前にご馳走が並ぼうと、心の空白が埋まることはない。

そして、最終日。

彼はハワイ島のコナ沖でドルフィン・スイミングに参加した。ライフジャケットとシュノーケルとフィンを装着し、インストラクターのボートで沖に出て、イルカの群れと触れ合う。

だが、イルカに囲まれて遊ぶうち、どうしようもなく父のことが思い出され、水中メガネの奥で涙が止まらなくなった。

小学校に上がる前、誰とも喋らないのを気にした父が、わざわざ国境を越えてドルフィンセラピーに連れて行ってくれたことがあった。母がプールサイドで見守る中、父とインストラクターと三人でプールに入り、大きなイルカの背中に乗った。「父さん、イルカが俺のこと『大好き』って言ってるよ!」とはしゃぐ彼の身体を水中でしっかり支え、優しい笑顔で励ましてくれた。

イルカの感触はあの時と同じなのに、父はどこにもない。

海に沈めば会えるだろうか。

「よく来たね」と両手を広げて迎えてくれるだろうか。

彼は水中メガネとシュノーケルを外し、ライフジャケットのロックも解くと、イルカの背中から滑り落ちるようにして海中に沈んだ。
一メートル、二メートル、三メートル……。

ふと目を開くと、太陽の光が水面に反射して、教会のステンドグラスのように見える。ああ、やっぱり海の底が天国だ。父もきっとそこで待っているに違いない。
やがて手足が痺れ、胸が潰れそうになったが、もうすぐ父に会えると思えば怖くない。

苦しい。でも、あともう少し――。

ところが、海中深く泳いでいたイルカが突然彼の身体を突き上げ、あっという間に水上に運んだ。一匹、また一匹と、彼の方に寄ってきて、代わる代わる彼のお尻を突っつく。その度に彼の身体はゴムボールのように跳ね、潜水どころではなくなった。

激しくむせながら、ようやくイルカの背中にしがみつくと、異変に気付いたインストラクターが慌ててボートを寄せ、彼を引き上げた。彼がライフジャケットを付けていないことに気付くと、「おかしいな、どうして外れたんだ」と首を傾げたが、彼は毛布にくるまり、カタカタと身体を震わせるだけだ。

海岸のカフェで待っていた母は、インストラクターから「海で溺れた」と聞くと蒼然とし、午後の予定を全てキャンセルして帰り支度を始めた。

プライベートジェットの中で、彼は軽く夕食を済ますと、疲れた身体をシートに横たえ、うつらうつらした。身体は鉛のように重いのに、神経は冴え、なかなか眠りに就くことができない。何度か寝返りを打ち、ようやく気が遠のきかけた時、彼が寝入ったと勘違いしたジャン・ラクロワがワイングラスを傾けながらぽつりと言った。

「なかなか気難しい子だね。わたしもいろいろ気遣っているが、どうしたら心を開いてくれるのか。君の息子だから、もっと素直で明るいと思っていた」

「素直で明るい子なのよ。今も父親の死から立ち直れず、心が塞いでいるけれど、本当は太陽みたいに溌剌としてるのよ。ただ、何かにつけて時間がかかるの。
心を開くのも、新しい環境に馴染むのも。どうか長い目で見てやって」

だが、ジャン・ラクロワは納得がいかぬようにワインを口にすると、

「君の前の夫は、少々甘やかし過ぎたんじゃないか」

と耳を疑うような事を口にした。

「いつもべったりくっついて、子供に闘うことを教えなかった」

だが、もっと耳を疑ったのは、それに続く母の言葉だ。

「そういう部分もあったかもしれない。でも、この子は幼い頃から特別なの。誰かがいつも気を付けて見てないと、心が閉じてしまうのよ。だから、あの人がいつも側に付いて、手取り足取り教えてきたの。自分の愉しみも後回しにして、朝から晩まで気に掛けて……」

「だが、世間ではそういうのを『甘やかし』と言うんだよ。手取り足取り世話した結果がこれだ。いつまでも赤ん坊みたいに背を丸めて、ろくに話もしない。何をするにも助けが必要な子供と分かって、どうして置いていったりしたんだ。父親として無責任じゃないか」

「誰も自分が洪水で死ぬなんて考えないわ」

「そうかね。聞いた話じゃ、堤防は決壊寸前で、避難勧告が出ていたというじゃないか。そうと分かって現場に戻るなんて、とても賢明とは思えんがね」
ジャン・ラクロワが侮蔑するように言うと、母も押し黙り、彼も毛布の端を握りしめた。

甘やかし。

無責任。

思ってもみなかった言葉に、頭の中がガンガン鳴り響く。

そして、なぜ母は強く言い返さないのか。

喧嘩してでも「父は正しい」と主張しないのか。

家に帰ってからも彼は塞ぎ込み、何かにつけて母に突っかかった。

母はひどく心配し、高価なサプリメントを飲ませたり、別のクリニックに連れて行ったり、時には有名なサッカー選手を自宅に招いて気を紛らわせようとするが、そんなもので心が晴れるわけがない。

父さんを返せ。

今すぐ、父さんの所に行って、どうして俺を置いて堤防に戻ったのか、納得いく理由を聞いてこい。

彼が荒れる度に母は動転し、やれ医者だ、セラピストだと大騒ぎした。中国から生薬を取り寄せ、専属の栄養療法士を雇い、何万ユーロもする*38フローティングタンクも購入しようとしたが、そんなものが父の代わりになるわけがない。しまいに母が中世の祈祷師みたいに見えて、その非科学性が余計で彼を苛立たせた。

だが、激情が過ぎると、父との約束が思い出され、「自分が悪い子供だから、父は懲らしめる為に遠くに行ったのだ」という罪悪感に苛まれる。

朝目覚めても何の救いもなく、父に置き去りにされた悲しみだけが胸に突き上げる。

せめてぐっすり眠ることができたら、どれほど気持ちが楽になることか。

誰でもいい。

誰か、俺を助けてくれ。

ドラッグの誘惑

四月末。

彼はいつものように登校し、昼の休憩時間、校庭の裏手にある《鹿の苑》に足を運んだ。

そこは十メートル四方の空き地で、隣接するリセの狭間にある。鬱蒼と生い茂る草や低木が目隠しの役目をすることから、学生たちの格好の隠れ場となっていた。暇をもてあます生徒が入れ替わり立ち替わりにやって来ては、オンラインゲームに興じたり、女の子といちゃついたり。彼も時々訪れては、タブレット端末でサッカー中継を見たり、売店で買ったホットドッグをかじったりしていた。

クラスメートはみな品行方正で、思いやりもあるが、田舎育ちの彼とは暮らしぶりも価値観も異なる。表面的に付き合えても、胸の苦しみを打ち明けられるはずもなく、まして生まれ育った文化や母国語が違えば疎外感もひとしおだ。

その日もランチを終えると、タブレット端末を持って《鹿の苑》を訪れたが、このところの寝不足と、出がけに母と口喧嘩したこともあり、動画やゲームを楽しむ気にもなれない。突然激情にかられ、側に落ちていた木切れを投げつけると、数メートル先に居た背の高い男子生徒が「おいおい、大丈夫かい?」と優しく声をかけた。

相手はドジョウみたいにひょろりとしたリセの生徒だった。

彼が決まり悪そうに俯くと、

「誰でも虫の居所の悪い時はある。僕は全然気にしないから、君も気にするな。中等部の子だね。ここにも時々、来てる」

そう言えば、その男子生徒もしょっちゅう鹿の苑に来て、リセの仲間と動画を眺めたり、学外の女の子とビデオチャットを楽しんだりしている。すぐにそれと分からなかったのは、襟足まで伸びた髪をスポーツ選手みたいに丸刈りにしたからだろう。

「そう身構えるなよ。ここでは皆仲間だ。名前は何というの?」

「ヴァルター・フォーゲル」

彼は躊躇いもせず、以前の名を答えた。

「ドイツ人?」

彼が首を振ると、男子生徒は顔をほころばせ、

「僕もいろんな血が混じっているよ。名前はマルコ。リセの三年生だ。どうしてここに来たんだ? 君はマルセイユの生まれじゃないだろう?」

「……」

「実際、よそ者にはやりにくいよな。一種独特の雰囲気があって、生活レベルが異なれば仲間にも入れない。《鹿の苑》に来ている連中も、みな似たり寄ったりだ。クラスメートと話が合わず、土日のパーティーやイベントにも付き合えない。『桁が違いすぎる』ってやつさ」

マルコが苦笑すると、彼も洪水で父を亡くしたことをぽつりと口にした。

「僕の知り合いにも似たような境遇の子がいるよ。事故で両親を亡くして、親戚宅に身を寄せている。でも、今もとても辛いって。そりゃそうさ。本当の両親と生まれ育った我が家が一番に決まってる」

マルコは心底同情するように答えた。

それから二、三、言葉を交わし、次の日も、また次の日も、マルコと《鹿の苑》で話した。

マルコはここの生徒には珍しく下々の事情に理解があり、移民家族の貧困や片親の苦労、下層民の鬱屈や人種差別などについて語ってくれた。以来、マルコと話すのがちょっとしたガス抜きになり、毎日のように《鹿の苑》に顔を出すようになった。

そんなある日。マルコは制服のポケットからシガレットケースを取り出すと、「君も一本どう?」と勧めた。

彼はすぐさま首を振ったが、

「害毒を心配してるんだね。でも、これは大丈夫。ニコチンフリーのハーブシガレットだ。ほら、外箱の成分表にも明記されているだろう。原材料はワイルドレタス、パッションフラワー、ミント、シナモン、『神経を鎮め、口臭予防や消化促進に効き目があります』。ここでふかしている連中もハーブシガレットの愛好家だ。それも通常のタバコの何倍も値の張る高級シガーさ。まあ十代には早すぎるけど、月に一、二本、気分転換に吸うぐらい、どうってことない。君も試しに吸ってみろよ。全然怖くないから」

それでも彼は首を振る。

「いいじゃないか、一口ぐらい。気分がすっとするよ」

マルコが彼の口元までシガレットを近づけると、彼もほんの一口、口にした。

軽く吸い込むと、ミントが口の中いっぱいに香り、思ったほど苦くない。まるで甘い煙を舐めるような感覚だ。

「なっ、全然平気だろ。こんなの普通のタバコに比べたら霞みたいなものさ。僕は勉強する前に一本ふかすんだ。頭の隅々までスッキリして、微分積分も楽々解ける」

「悪い薬草じゃないの?」

「それも量によるさ。節度を守れば、ほとんど害はない。スナック菓子の食べ過ぎの方がよほど身体に悪いくらいだよ」

マルコは快活に笑い、彼の罪悪感も少し和らいだ。

実際、ヤンの父親も似たようなタバコを吸っていたし、都会に行けば、それ専用の*39コーヒーショップもある。本当に害悪なら、皆とっくに死んでいるだろう。

次の日も、また次の日も、彼は一口、二口とハーブシガレットを口にした。あの厳めしいジャン・ラクロワや母が嫌がりそうな事をあえてやる。ささやかな反抗だ。
一週間が過ぎ、すっかり抵抗がなくなると、マルコは制服のポケットから小さな銀器のピルケースを取り出し、「特製の清涼剤だ」と彼に見せた。

「こうやってシガレットの先にまぶして吸うと、効き目が倍増する」

「……清涼剤?」

「ハーブシガレットをより楽しむ為の香辛料さ。ペパーミント、シトラス、マスカット、リンゴ、いろんな味がある」

「それは毒じゃないの?」

「無害だよ。果汁やハーブエキスを乾燥して粉末にしたものだ。みな普通に使ってる」

「本当に?」

「本当さ。嘘だと思うなら、リセのカレルに聞いてみな。この前、一緒に吸ってた奴だ。彼も愛好者だよ。学園きっての優等生」

優等生と聞くと、少しガードが緩む。

マルコに言われた通りシガレットの先に粉末をまぶし、深く煙を吸い込むと、甘いペパーミントの香りがし、ハーブシガレットとは比べものにならないほど心地よい刺激が広がった。瞼に光が差し、脳細胞の隅々まで冴え渡るような爽快感だ。彼が目をぱちくりして辺りを見回すと、

「どう、気持ちいいだろ。一度口にしたら、忘れられない」

マルコが笑った。

「君に少しあげるよ。寝付かれない時、試してみるといい。嘘みたいにぐっすり眠れるよ」

彼は銀のピルケースを受け取ると、上着のポケットにしのばせ、家に持ち帰った。

その晩、試しにバスルームで吸ってみると、やはり段違いの快感だ。胸の中がすうっと軽くなり、頭の中が清明とする。そのままベッドに入り、布団をかぶると、本当に朝までぐっすり眠れた。身体中に活力がみなぎり、生き返ったような気分だ。

マルコにそのことを話すと「よかったね」と顔をほころばせた。

「また欲しくなったら、いつでも声かけして。君の為にいくらでも都合するから」

その晩も、次の晩も試したが、効果は絶大で、朝から笑顔が浮かぶほど気分がいい。母は中国から取り寄せた生薬が効いたと思い込み、ジャン・ラクロワも彼が心を入れ替えたと見直す。大人は馬鹿だ。こんな簡単に騙されるなんて。

ピルケースの粉末はあっという間に無くなり、次も欲しくなった。しかし、値段を聞いてびっくりだ。

「これでも安い方だよ」

マルコは苦笑する。

「なにせ手作業で果汁を粉末にするんだ。使用するフルーツの量も半端ない。小遣いはいくらもらってるの? 君の家なら大した額じゃないだろう?」

さすがに(おかしい)と感じた。わずか十グラムの粉末がレストランのディナーコースより高いなんて。

それでも胸のすくような高揚感や熟睡感が忘れられない。

もっと欲しい。

記憶も消し飛んで、別の何かになるくらい。

そんなある日。

いつものように朝七時に目覚め、一階の小サロンに足を運ぶと、いつも彼より早く朝食のテーブルに着いている母がいない。家政婦に「どうしたの?」と尋ねると、「少しお加減がすぐれないそうです。でも、すぐにいらっしゃいますよ」。

もしや自分のせいで母は病気になってしまったのだろうか。不安な気持ちで待っていると、十分ほど遅れて母がやって来た。いつもと同じ、シックなワイン色のワンピース姿で席に着くと、家政婦にグレープフルーツ・ジュースを頼み、ナプキンを広げた。

しかし、まだ気分がすぐれないのか、じっと下を向いたまま、彼と目を合わせようともしない。ひどく苦しんでいるようにも見え、それはそれで彼を不安にさせた。

「母さん、どうしたの?」

子供らしい口調で尋ねると、母ははっと顔を上げ、「何でもないのよ。さあ、いただきましょう」と明るい笑みを浮かべた。

丸パンにバターとハチミツを塗り、手渡してくれる姿はいつもの母と変わりない。

ひとまず安心し、いつも通り登校したが、なんとなく気持ちが落ち着かず、午後の課外授業をキャンセルして二時間ほど早く帰宅した。

母の姿を求めて一階のサロンやサニールームも探すが、どこにも見当たらない。

仕方なく、彼は二階に上がった。

「年頃の男の子がいつまでも母親(レディ)の部屋に足繁く通うものではない」とジャン・ラクロワに言われ、二階には極力行かないようにしていたが、どうしても母の様子が気にかかる。

そろそろと階段を上がり、母の居室がある西側の廊下を覗き込むと、馴染みの家政婦が母の寝室を清掃している。家政婦は使用済みのシーツやタオルを黙々と運び出し、清掃用のワゴンに積んだ。

「母さんは?」

彼が声をかけると、家政婦はぎょっとして振り向いた。奥さま(マダム)の寝室は、息子が学校に行っている間に掃除するよう、きつく言い付けられている。まさかこの時間に帰ってくるとは夢にも思わない。

彼が再度、母の居所を尋ねると、

「サン=ルイ通りのクリニックにお出かけです」

家政婦は正直に答えた。

「クリニック? やはり、どこか具合が悪いの?」

「私も詳しくは存じませんが、もしかしたらお目出度かもしれません」

「お目出度? 母さんはもう三十九歳だよ」

「今は四十代で授かる方も珍しくありませんよ。赤ちゃんができたら、坊ちゃんもお兄ちゃんですね」 

家政婦は励ますように言ったが、彼はざーっと血の気が引いた。

恐る恐る寝室を覗くと、母の寝台のフットボードに男物の黒いバスローブが掛かっている。それが家政婦によって置かれたものではなく、シャワーを浴びた後、この場で脱ぎ捨てられたのが一目瞭然だ。彼も十五歳になり、大人の男と女が何をするかも知っている。それは清楚な花柄の寝台に黒豹みたいに照り光り、脂ぎった体臭まで匂ってきそうな生々しさだった。

彼は一気に階段を駆け下りると、自転車にまたがり、屋敷の外に飛び出した。

父も、幸福な思い出も、全てが穢された気分だった。

*

自転車を押して丘の上のラクロワ邸に帰り着いた時には、時計の針は午前零時を回っていた。母は厳しく叱責し、ジャン・ラクロワも強い口調で窘めたが、彼の目には獣みたいに絡み合う、汚らわしい一組の男女にしか見えない。ぷいと無視して自室に駆け込むと、母は補導員のように彼の後を追ってきて、家政婦がゴミ箱の中から見つけた錠剤を見せた。

「ちゃんと処方通りに服用しているのかと思えば、全部棄てるなんて……! 診察費も薬代も無料(ただ)ではないのよ。どうしてこんな粗末なことをするの!? 薬が身体に合わないなら、そのように説明なさい」

「なんだよ、俺のゴミ箱まで漁るのかよ! いつもいつも俺のすることを警察みたいに監視しやがって、汚い真似をするな、va te faire foutre*40(くそ野郎)!」

「なんという下品なことを口にするの! お父さまと約束したでしょう、悪い言葉は使わないって。あなたにあれほど願いをかけ、愛情もって育てられた気持ちを忘れたの?」

「俺が下品なら、母さんは何だ? 一緒に暮らすだけと言いながら、やってることは Putain(娼婦) と同じじゃないか。身売りしてまで俺を養えとは言ってない!」

母の美しい瞳はみるみる涙でいっぱいになり、矢で撃たれた牝鹿のように部屋を飛び出した。その後、母と入れ替わるようにジャン・ラクロワがやって来て、彼が口答えする間もなく、「母親を何だと思ってる」と胸ぐらを掴まれた。

「世の中には、もっと酷い目に遭っても、努力して名を成した者は大勢いる。いつまで赤ん坊みたいに甘えているつもりだ」

彼は床に転げ、どうにか上体を起こしたが、地位でも腕力でもジャン・ラクロワに敵うはずもない。

父さんが悪い! 俺を置いていった父さんが悪い! 父さんなんか嫌いだ! みんな、流されっちまえ!

彼はバスルームに駆け込むと、ありったけの処方薬を口にして、喉の奥に流し込んだ。

が、次の瞬間、猛烈な吐き気に襲われ、胃の中のものを全部便器にぶちまけた。それでも嘔気と震えが止まらず、顔面蒼白で床に転がっていると、再び母がやって来て、救急車を呼んだ。やはり息子のことが心配で、様子を見に戻ってきたのだ。

彼は速やかに救急外来に運び込まれ、点滴治療で改善したが、激しい自己嫌悪に陥り、母の顔もまともに見られない。

芋虫みたいにシーツにくるまっていると、母が彼の背中を優しく摩りながら言った。

「どうしてもここで暮らすのが嫌なら、一緒にフェールダムに帰っていいのよ。お母さんが間違ってた……あなたの望み通りにすべきだった」

「今更、何所に帰るというんだ。家もない、町もない、お金も、思い出の品も、みな流された。何も無いのに、どうやって帰るんだ」

「ヴァルター……」

「何所に行っても同じ事の繰り返しだ。俺には自活する力もないし、俺を養うとなれば、母さんだって苦労する。それなら母さんだけでも、ここに居た方がいい」

彼は頭から掛け布団をすっぽり被ると、悔し涙を浮かべた。

母は目に涙を溜めたまま、彼の側にじっと腰掛けている。 母子二人、言葉もなく、希望もなく、舵をなくした小舟のように悲しみの海を漂い、父の居ない虚しさを噛みしめるばかりだ。

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