君は金と保護が必要、わたしは姻戚が欲しい ~母の再婚

この投稿は、海洋科学、鉱業、建築・土木をテーマにしたフィクションです。詳しくは作品詳細をご参照下さい。


第一章 運命と意思 ~オランダ人船長 -漂流- (2)
STORY
夫亡き後、母アンヌは深い心の傷を抱えた息子を立ち直らせようとするが、教育にも治療にもお金がかかり、暮らしもままならない。かつての婚約者で裕福な実業家でもあるジャン・ラクロワが再婚を申し出て、アンヌは息子の治療の為に受け入れる。

ヴァルターが初めてジャン・ラクロワに会ったのは八月半ばのことだ。母の学生時代の友人として紹介され、東の棟の客間で一緒にアフタヌーンティーを楽しんだ。

ジャン・ラクロワは母より九歳年上の四十六歳で、父と四歳しか違わないのに、お爺さんのように老けて見える。硬質な栗毛を七三に分け、四角い体躯に上等なブランドスーツを身に付けているが、首は太く、お腹もずんぐりして、白黒のスポーツウェアが似合った父とは大違いだ。

だが、この中年紳士がエクス=アン=プロヴァンスの一族とは異なる常識人であるのは一目で分かる。やや堅苦しい感じだが、眉は豊かで、声にも張りがあり、言葉にも仕草にも円熟した男の余裕が漂っている。彼のことも変に子供扱いせず、自身の事業やフランス社会について対等に話してくれた。

母曰く、ラクロワ氏は大学時代からレジャー船舶の輸入販売やメンテナンス業を手がけ、卒業後はアパレル、観光、小売業など、様々な事業を展開し、マルセイユでも五指に入る実業家だという。有力者の知人も多く、その交友関係は北米、中東、アフリカ、アジアと広範囲に及ぶ。

それを証すように、週末の夜には地中海ナイトクルーズに招待してくれた。

白亜のクルーザーはどこのベルサイユ宮殿かと見まごうほどで、フェールダム塩湖をのんびり周遊していた屋形船とは客層もスケールも違う。レストランは『鏡の間』を彷彿とするようなロココ調で、高価なクリスタルや陶器の置物が惜しげもなく飾られ、フォーマルに装った紳士淑女が何百ユーロもするワインや海の幸に舌鼓を打っている。

ジャン・ラクロワの姿を見ると誰もが敬意を払い、船長までが個人的に出迎えてくれた。「操縦室を見たい」と言うと、すぐにチーフパーサーが船内を案内してくれ、「サッカーが好き」と言うと、乗り合わせていたプロ選手を紹介してくれた。なんとナショナルチームのセンターフォワードだ。TVでしか見たことのない顔が目の前にあり、長年の親友みたいに接してくれる。

これはいったいどんな魔法なのか。世界を統べる黄金の指輪を手に入れたみたいだ。

*

ヴァルターが船内を案内されている間、ジャン・ラクロワはアンヌ=マリーをラウンジに誘い、フルートグラスにピンクシャンパンをなみなみと注いだ。

初めて出会った時からそうだが、いつも強引に誘い、一方的に取り決める。品も教養もあり、決して野卑な人物ではないが、心から安らげる相手ではない。愛せるものなら、出会ったその日に心惹かれていただろう。それは十年経っても、二十年経っても、変わらないと思った。

「二十歳になった君が初めてシャンパンを口にした日のことを今も覚えているよ。『最初のお酒はピンクシャンパンがいい』と言うから、シャンパーニュから最高級の銘柄を取り寄せた。そして今夜も君のためだ。あの頃から、お互いずいぶん変わった。わたしには小学校に通う娘が二人。君には中学生の息子が一人。そして、お互い、また独りに戻った」

「独りではありません」

アンヌ=マリーは毅然と答えた。

「あなたを傷つけたことは謝ります。でも、今日ここに来たのは、友人と敬えばこそです」

アンヌ=マリーが鞄一つでエクス=アン=プロヴァンスを出た後、ジャン・ラクロワはしばらく独りでいたが、九年前、突然、アパレル業界のアメリカ人女性と結婚して世間を驚かせた。祖父はアメリカの有名ブランドの創業者で、自らもキャンペーンガールを務めたり、ハイティーン向けのスポーツウェアをプロデュースしたり、大変な野心家だ。近年はコンサバティブをテーマにした新感覚のスローファッション・ブランドを立ち上げ、若者から高齢女性まで幅広い支持を得ている。

ジャンが結婚した時、「朝食にクロワッサンとカフェオレをたしなむ男が、なんであんなハンバーガーみたいな女と」と周りは首を傾げたが、案の定、結婚生活は五年足らずで破綻した。しばらくマルセイユとアメリカで別居生活を続けていたが、昨年、ようやく協議離婚が成立し、名実ともに独身に戻ったばかりである。

だが、ジャン・ラクロワは奇妙に口元を歪め、「君は何か勘違いしているんじゃないかね」と言った。

「わたしはそれほどセンチメンタルではない。まして自棄で結婚するほど愚かでもない。その時にはその時の事情がある。それは君も同じだろう。もっとも、君の場合は望んで独りになった訳ではあるまいが」

「……」

「友人として、本気で君の身の上を心配しているんだよ。このままエクス=アン=プロヴァンスの屋敷に居るつもりかね。それとも半病人みたいな息子を抱えて、もう一度、マルセイユの下町で給仕をするか。どちらも良い考えとは思えぬが」

「どんな暮らしをしようと私の人生です。自分で選んだ生き方に貴いも卑しいもありません」

「そして、愛する人の忘れ形見を港の倉庫番で終わらせたいかね」

アンヌ=マリーははっと顔を上げた。

「どれほど地頭がよくても、高等教育を受けるチャンスに恵まれなければ、行き着く先はみな同じだ。あの子もいずれ貧しさに打ちのめされ、人生を諦める」

「大事なことは私が教えます」

「もちろんだとも。君なら育ちの悪い番犬も皇帝付きの軍用犬に調教できる。あの子もみっちり仕込めば雑貨屋の主人ぐらいにはなるだろう。だが現実を見たまえ。給仕に通わせられる学校などたかが知れている。同級生にドラッグを売るような連中と机を並べて、一流のビジネスマンやエンジニアになれると思うのか。高校を出る頃には酒と煙草の味を覚えて、港でたむろするのが目に見えている。そのうち小遣い欲しさに麻薬や人身売買の手助けもするようになるだろう。大学にも行かず、定職にも就かず、昼間から酒をくらって、港をうろつく野良犬の仲間入りだ」

「……」

「君が十代の頃より状況は悪くなっている。どれほど素地が良くても、場所を間違えれば一生台無しだ。教育も幸運も金で買う時代だよ、アンヌ=マリー」

「お金で買えない教育もあるわ」

「知ってるよ。君の息子を見れば分かる。十四歳にしては道理をわきまえているし、頭もいい。君に似たんだな」

「父親に似たのよ」

「アンヌ。わたしは君を恨んだことは一度もない。相手の男もだ。あの頃、君はまるで赤ん坊だった。大学を出たばかりで、色恋も知らず、旅先で出会った土木技師を白鳥の騎士と見間違えても不思議はない。君の幸福を思えばこそ、わたしも黙っていた。だが、結果はどうだ。家財もなくし、頼る人もなく、息子は心的外傷で顔付きまでおかしくなっている。君はあの子があんな状態になっても、医者にも診せず、愛と根性で治せると思っていたのかね。もう旅は終わったんだ。現実を見なさい。このままでは君もあの子も一生底辺だ」

アンヌ=マリーの瞳に悔し涙が浮かぶと、

「わたしが援助しよう」

ジャン・ラクロワが静かな口調で言った。

「君が望むなら、金に糸目はつけない。最高の教育、最高の治療、最高の住環境。パソコンでも自転車でも、何でも最高のものを与えてやろうじゃないか」

「――どういう意味ですの」

「わたしと再婚しろ」

「なんですって?」

「これはビジネスだ。君は金と保護が必要、わたしはエクス=アン=プロヴァンスの姻戚が欲しい。最初からそれが目的の出会いだった。何を驚くことがある」

「あなたがそんな卑しい考えで求婚なさるとは思いもしませんでした」

「君にどう罵られようと構わない。だが、君に給仕や売り子以上の仕事が見つけられるのかね。教育を受けるにも、心を治すにも、金がかかる。綺麗事で食べていけるなら、誰も路上で野垂れ死んだりしない。息子を廃人にしたくなければ、わたしの申し出を受けろ。それが一番賢明だ」

「あの子は決してあの人以外を『父さん』とは呼ばない。上辺だけ父親と呼ばれて平気なの?」

「どのみち、そういう世界じゃないか。夫婦が権利を争い、親兄弟が財産を奪い合う。呼び名や属性にどんな意味があるのかね。あの子も特権階級の旨味を知れば、土の匂いのする父親の教えなどすぐに忘れる。金で買えない教育もあるが、この世の幸福の大半は金で買える」

ジャン・ラクロワが傲然と言い放つと、アンヌ=マリーは激しい怒りを覚え、問答無用で席を立ちかけたが、その時、ヴァルターが一枚のポートレートを手に嬉々とした表情で戻って来た。

「母さん、ベルクール選手にサインをもらったよ」

「ベルクールって……センターフォワードのガエル・ベルクール?」

「うん。この船に乗ってるんだ。ガールフレンドのアネットという人も一緒だった。ほら、船長さんと一緒に記念撮影も」

「会いたい人があれば、いつでも言ってくれていいよ」

ジャン・ラクロワはにこやかに言った。

「君はまだ子供だ。子供が幸福になるには、いろんな楽しみが必要だからね」

*

一週間後、 アンヌ=マリーはジャン・ラクロワの言葉が上辺だけでないことを知った。

マルセイユでも一、二を争う名門私立学校から案内状が届いたのだ。それに併せて、高台にあるメンタル・クリニックの予約券も添えられている。学校はともかく、一度、受診が必要なのは確かだ。ヴァルターは嫌がったが、「夜、少しでもぐっすり眠れるように」と説得し、一度限りの約束で受診した。

クリニックは真新しい住宅街のど真ん中にあった。外観も内装も高級オフィスのように洗練され、心を病んだ人が通う医療施設にはとても見えない。ドクターも上品な中年の女医で、半時間ほどカウンセリングすると、数種類の錠剤を処方した。

「よくなるのでしょうか?」

アンヌ=マリーが強い不安を示すと、女医は声を潜めて「時間がかかります」と答えた。

「あの子の場合、未だにTVの映像が生々しく瞼に浮かぶそうです。決壊した堤防や水没した干拓地の光景です。父親が高波に呑まれる夢も繰り返し見ると言ってました。父親の後ろ姿を必死に引き留めようとするけれど、その声は届かず、あっという間に波に呑まれて、藻掻き苦しむのです。そうかと思えば、父親がライン川の向こうから手を振りながら戻ってきて、『心配かけたね、ヴァルター。もう大丈夫だよ』と抱きしめてくれる。『やっぱり父さんが死んだなんて嘘だ、俺のところに戻ってきてくれた』と幸せいっぱいに父親の胸に顔を埋めるけれど、朝が来たら何もかも幻のように掻き消え、その度に自分も死にたくなるそうです。それ以外にも、サッカー、自転車、音楽など、父親を連想するものを目にしただけで、所構わず涙があふれ、級友にからかわれたことも一度や二度ではないと。でも、お母さんに心配かけまいと、家でも学校でも張り詰めたように暮らしているのでしょう。顔半分が歪んだように見えるのも、そうした緊張の表れです。天災や交通事故、目の前で人が殺されるなど、ショッキングな体験が引き金となり、鬱、自傷、悪夢など、何年、何十年と苦しむ人も少なくありません。これといった治療法はなく、記憶を消し去る事もできませんが、根気よくケアすれば苦痛を和らげることはできます。ただ、一朝一夕に改善することは期待なさらないでください」

診察後、受付で請求書を見たアンヌ=マリーは飛び上がりそうになった。ほんの三十分で、この金額。一ヶ月の光熱費よりも高いではないか。

戸惑いながら財布に手をかけた時、「すでに診察料は頂いております」。

誰が払ったかは言わずもがなだ。

アンヌ=マリーは息子の背中を抱いてクリニックを出ると、近所の薬局で処方薬とハーブティーを買い求め、少し気分転換に遊歩道を歩いた。

頭上には太陽が照りつけ、青空が目に眩しいほどだが、ヴァルターはじっと口を閉ざしたまま、にこりともしない。クリニックでいろいろ喋りすぎたせいで、心に反動が来たのだろう。「カフェに行って、マカロンでもいただきましょうか」と促しても、黙って頭を振るだけだ。

そうして通りの端まで来ると、グラウンドでサッカーをしている少年たちの姿が目に入った。

フェンス越しにじっと見つめるヴァルターの横顔を覗き込み、「あなたも体調がよければサッカーをしていいのよ。どこか受け入れてくれそうなクラブを探してみましょうか?」と声をかけるが、彼は答えない。
そのうち誰かの蹴ったボールがここまで転がり、一人の少年が拾いにやって来た。ヴァルターと同い年くらいの体格のいい子だ。少年がよく鍛えた足で蹴り返すと、ボールは虹のような弧を描いてセンターまで飛んでいった。

「あなたも以前は、あれくらい軽く飛ばせた」

アンヌ=マリーは、アルコレ橋のナポレオンみたいにフィールドを駆け回っていた息子の雄姿を思い返した。

「少し練習すれば、すぐに勘が戻るんじゃないかしら」

だが、彼は痛いほど金網を握りしめ、幼子のように涙をこぼすだけだ。以前は肉付きもよく、ピューマのようにしなやかな体つきをしていたのに、今は痩せて見る影も無い。このままでは高校はおろか、中学校を卒業することさえままならないのではないか。子犬のように声を押し殺して泣く息子の姿を見るうち、アンヌ=マリーの脳裏にジャン・ラクロワの言葉が響いた。

「わたしが援助しよう。これはビジネスだ」

リファレンス

災害と心的外傷について ~いつまでも悲しくて当たり前
故郷の干拓地を壊滅した大洪水で、ヴァルターの父親は堤防を守りに戻って命を落とす。故郷と最愛の人を失った悲しみは十三歳の彼の心を深く傷つけ、悪夢となって繰り返される。一方、彼の心には家族を置いて堤防を守りに戻った父の行動に対する疑念も湧き、それが罪悪感となっていっそう彼を苦しめる。癒やしようのない悲しみに救いは訪れるのか。

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