海洋小説 MORGENROOD -曙光 海とレアメタルの本格SF小説

【39】 海に落ちる、恋に落ちる ~孤独な二つの魂が出会う時

海に落ちる、恋に落ちる ~孤独な二つの魂が出会う時

フォルトゥナの娘

「約束が違うじゃないか」

アルは社長室の応接ソファに深く身を沈め、呆れたように娘の顔を見つめた。

「だから約束通り、真っ直ぐ帰ったじゃないの、パパの所に」

リズは悪戯っぽく笑った。

「屁理屈を言うんじゃない。お前の言葉を信じればこそ、一足先にエンデュミオンを発ったんだ。それを何だね。鉄砲玉みたいに飛んできて、挙げ句に、救命具も付けずミニボートを乗り回すとは。もう少しで衝突事故を起こすところだったんだよ」

「パパったら大袈裟ね。あんなの、五分で操縦を覚えたわ。エンジンのスタートボタンを押して、ハンドルを左右に切るだけじゃない。車の運転より簡単よ」

「ともかく、明日の朝一番の便でトリヴィアに帰りなさい。航空会社にはわしから話しておく」

「いやよ。絶対に帰らない」

「なんだって?」

「私も接続ミッションに立ち会うわ」

「馬鹿な事を言うんじゃない。見世物じゃないんだ。お前が立ち会ったところで、皆の迷惑になるだけだ」

「どうして迷惑なの? 管制室で一緒にモニターを見るだけよ。お茶を出せ、ケーキはどうした、なんて愚かなことは言わないわ」

「お前がいるだけで皆が気を遣う。エンデュミオンに行った時もそうだ。何の断りもなく金属材料研究所に顔を出して、エリク叔父さんが周りにどれほど気を遣ったか分からないかね」

「私に会えて嬉しいと仰ってたわ。パパもダナ伯母さまも遠慮して、なかなか訪ねて下さらないから、もっと気軽に声をかけて欲しいと。私にとっては一番近い身内じゃないの。それを迷惑だの、遠慮だの、構える方がおかしいわ」

アルが少し詰まると、リズは我が意を得たように身を乗り出し、「あの人を右腕にするの?」と瞳を瞬いた。

「誰のことだね」

「知らない振りをするのね。パパの隣に居た人よ。気に入ったから、自分でここまで連れて来たのでしょう。娘の私にはプラットフォームの見学さえ渋るのに」

「リズ。これは仕事だ。学園祭の演し物ではない。彼を呼んだのは、潜水艇のパイロットが不可欠だからだ。海のこともよく知っている。自分で案内したのは、一日も早くチームに馴染ませ、採鉱システムを理解させる為だ」

「その割には、あの晩、嬉々として語っておられたわ。『夕べ、面白い男に会ったよ』って」

アルは、ヴァルター・フォーゲルと話した次の夜、リズと『水晶宮(クリスタル・パレス)』でディナーをとった時のことを思い浮かべた。

娘の態度もようやく軟化し、娘のお気に入りのレストランで海鮮料理に舌鼓を打っていたが、白目を剥いた焼き魚の頭を見るうちに、ヴァルター・フォーゲルのことを思い出し、なんとなく口にしたのだった。

そんな嬉々として話した覚えはないが、若い娘のことだから、「十三歳の時に洪水で父親を亡くした」とか、「母の再婚先に馴染めず、十六歳で商船学校に進んで、それからずっと一人暮らし」みたいなお涙頂戴のプロフィールに興味を引かれたのだろう。だが、気にするな。口を利いたところで、あんな気難しい男の心底など解るはずがない。

「ともかく帰りなさい。ここはお前の居る場所じゃない」

「だったら、どこが私の居場所だというの? 仕事に行くわけでもなければ、家で料理や洗濯をするわけでもない。何かしようとしても、二言目には危険だ、迷惑だと遮って、何一つ私の思うようにさせてくれないじゃないの。それが私の人生なの? 歴史の変わり目となるミッションに立ち会う資格さえないの?」 

「そのことはミッションが終わってから話し合おう。とにかく、今は帰りなさい。それがお前にとって最良の選択だ」

「どうして、そんな風に言い切れるの。私だって、パパみたいに価値あるものを築きたい。このまま苦労も知らず、何かを作り上げる手応えも知らず、海鮮料理だけ楽しんで、一体どんな素晴らしい未来があるというの? 私はあの人の事など何も知らないけど、一つだけ共感することがあるわ。どんな荒波に揉まれても、自分で帆を立てて生きたいという願いよ」

アルはまじまじと娘の顔を見つめた。

「人はパンのみに生きるにあらず」と教えたのは、他ならぬアル自身だ。娘が贅沢より魂の充足を求めるのは当然の帰結であり、称賛こそすれ、責めるべきではない。

かといって、好きにさせておけば、また一人でふらふらと何所に出掛けるか分からず、それならミッションが一段落するまで目の届く所に置いた方が得策だろう。

「では条件付きで、しばしの滞在を許そう。まずは勉強、そして仕事だ。だが、一人で海に出ることは絶対に許さない。分かったね」

すると、リズは少女のように瞳を輝かせ、「パパ、ありがとう! 大好きよ」とアルの太い首に抱きついた。

娘の甘い香りが鼻先をくすぐると、アルも稚い娘の背中を抱きながら、「まったく、お前にはいつもハラハラさせられる。いったい、いつになったら好い人に嫁いで、わしを安心させてくれるのかね」と頬を緩めた。

アルの脳裏にお下げ髪の頃が懐かしく思い出され、娘こそ我が命と痛感する。

もし遠くに連れ去る者があれば、地の果てまで追いかけて、息の根を止めてやろう。娘を傷つける者があれば、千年かけてその血を償わせる。

エリザベス・ベアトリクス・マクダエルは、この世で唯一、アルにそう思わせる存在だった。

*

一方、リズは社長室を出ると、若魚のようにぴょんぴょん飛び跳ねながら階段を下りていった。

ほらね、結局、パパは私の言いなりなのよ。

難しい顔で経営哲学を説いたって、娘の私に勝るものなどないのだから!

さあて、次は何を見に行こうかしら。

歓喜に顔を輝かせ、二階の踊り場に差しかかった時、階段を上がってくるヴァルター・フォーゲルと鉢合わせた。

一瞬、海のような瞳に吸い込まれそうになったが、彼がすっと彼女の横を通り過ぎると、「あなた、私に謝る気はないの?」と呼び止めた。

「『謝る』って、何を?」

「私にバカ野郎と言ったことよ」

「バカに『バカ』と言って何が悪い。走行する船の前を横切る奴は大馬鹿野郎だ」

リズは唖然と彼の顔を見上げたが、彼は彼女に振り向きもせず、大股で階段を上がっていった。

仕事始め ~何をするかは自分で考えろ

九月五日。木曜日。

ヴァルターは午前六時半に起床し、トマトと目玉焼きトーストの朝食をとると、七時過ぎに宿舎近くのバスに向かった。

彼に用意された宿舎は、島の南西部、馬の首のように突き出たフェロー岬の袂にある。幹線道路から少し離れた海辺に建ち、周囲に建物はほとんどないが、敷地の斜め向かいにバス停があり、その200メートル先にはスーパーマーケットもある。スーパー周辺では新しい住宅地の造成が急ピッチで進んでおり、島の中心部であるセントクレアへもバスで十分ほどだ。

建物は築十年の三階建て、三十戸の単身者用アパートで、複数の企業が共同管理している。間取りはいずれも1LDKだが、見た目も綺麗で、敷地内には小さな庭園もある。

彼の部屋は一階左端の十号室で、びっくりするほど静かだ。玄関を開けると小さなダイニングキッチンがあり、対面式カウンターの向こうに十八平米のリビング、その隣に十四平米の寝室とシャワーブース付きのユニットバスがある。壁はやさしいクリーム色で、ベッド、クローゼット、二人がけソファ、TV、冷蔵庫、電磁調理器など、最低限の家具と家電に加え、キッチンには食器、鍋、カラトリーなど、必要なものが全て揃っている。またガラスの引き戸からは海が一望でき、テラスも広々として、ガーデンチェアとお揃いのカフェテーブルもあった。

ミッションの度に住まいを転々とするのはいつもの事だし、船に乗れば、四人部屋、二段ベッド、言語の異なる外国人船員との共同生活、シャワーの故障、汚水の逆流など不便は付きものだ。それに比べたら、この宿舎は五つ星だ。おまけに家賃もたったの五万エルクである。

『エルク』は《みなみのうお座 通貨同盟》で使用されている電子通貨で、硬貨や紙幣は有さず、すべてオンラインで決済される。長ったらしい正式名称を省略したのが『ELC(エルク)』で、ラテン語で『電子』を意味する「エレクトロン」からきているらしい。ちなみに「100エルク」は缶ジュース一本の値段だ。

いつも仮住まいで、人に「淋しくないか」と問われるが、一年の大半を海で過ごすのに辛いも淋しいもない。洪水で家を無くしてからは「住まい」と呼べるものもなく、どこに暮らしても同じだった。

それにつけても腹が立つのは、アル・マクダエルの言い草だ。夕べ、仕事のことで電話して、自分の所属や肩書きについて尋ねたら、

「そんなものはお前には無い」

じゃあ、何をすればいいのかと聞くと、

「笛が鳴ったら、『ワン』と鳴けばよい」

「それじゃ飼い犬と同じじゃないか」

「そう思われるのが嫌なら、自分で考えろ」

一方的に電話を切られた。

まったく人を馬鹿にしている。

自分でスカウトしておきながら、所属もなければ、肩書きもなく、業務内容さえ指示せず、「自分で考えろ」とは一体どういう了見なのか。

彼も海の仕事は一年五ヶ月のブランクがある。しかも未知の海だ。ここでは初心に返って、謙虚に取り組むつもりだったが、初日から肩透かしにあったみたいだ。これから初仕事というのに、むかむかと腹が立ち、いっそ怠惰な犬みたいに、一日中寝そべってやろうかと思ったりもする

しかし、考えようによっては、その方がやりやすいかもしれない。

先日、プラットフォームを訪れた印象では、人手不足で困っているというより、既に出来上がったチームに新人が入ってくる方が迷惑そうだった。それなら指示された場所に無理に割り入るより、必要の有る所に自分から入っていく方がいい。どのみち行く当てもなく、帰る場所も無いなら、せめて居場所ぐらいは自分で作るしかないだろう。

南の桟橋で連絡船を待つ

少々不安な気持ちでバスを待っていると、午後七時三十五分、時間ちょうどに自動運転のミニバスがやって来た。

ミニバスは三十人乗りの中型車で、丸みのある白い車体に「Laurencia Bus」と銀鼠色のロゴマークが描かれている。運転はメアリポートのコントロールセンターで完全制御され、社内に取り付けられたビデオカメラやセンサーが車内と路上をモニタリングしている。支払いはIDカードか通信端末を使ったオンライン決済だ。区の住民課から割り振られる個人ID番号と、電子マネー『エルク』のウォレット・ナンバーがあれば、税金の払い込みもスーパーの買い物も一元管理できる。彼は乗車口のリーダーにIDカードをかざすと、後部座席に腰を下ろし、車窓に広がるローレンシア島の風景を興味深く眺めた。

セス・ブライトに聞いた話では、用地造成も、道路建設も、遠隔操作の重機で一気に完了するらしい。昔のように何百人が土方をすることはなく、シミュレーション・ゲームみたいに、ほんの数人でジョイスティックやコントロールパネルを操作し、複数の重機を同時に稼働するそうだ。

それでも道路周辺の景観はステラマリスの町並みと変わらない。歩道には生長の早いケヤキやイチョウが植樹され、真新しい家屋やオフィスビルが整然と立ち並ぶ。

聞いた話では、テラフォーミングの間、空中からは絶え間なく植物の種子と栄養剤を散布し、裸地に緑を根付かせるという。それだけでステラマリスと似たような自然環境を再現できるのか、途方もない試みに思えるが、塩害で壊滅した農地でも、しっかり手入れすれば数年後には耕作が可能になるように、どんな土にも自浄や生育能力があるのかもしれない。

ミニバスは島の西海岸を走るB1幹線を北上し、ローレンシア島の中心地セントクレアのバスターミナルでかなりの乗客を拾うと、ロータリーを東に抜け、片側二車線の快適な横断道路を走り始めた。ここでは時速100キロにスピードを上げて、一気に東海岸に向かう。

目的地の船着き場は、海岸線500メートルほどの入り江にあり、水は深みのある藍色で、波も静かだ。十数年前、島南部の開発拠点として開かれ、三つのコンクリート桟橋を中心に、倉庫、工場、ガレージ型店舗が建設されている。

七年前、船着き場のロータリー近くにエンタープライズ社の新社屋が建造されたのも、ここに第二の補給基地を確保する為だ。工業港とその周辺は、アステリアの発展と共に年々地価や倉庫代が値上がりし、施設を拡張するのが難しくなっている。そこで南の船着き場に第二の補給基地を築き、少しでもコスト削減を図るのが狙いだ。

現在、採鉱プラットフォームについては、大きな機材や物資は工業港から、食材、リネン、事務用品といった細々した物は小型の補給船を使って船着き場から発送している。物資と一緒に交代要員が乗船することもあり、彼もまたプラットフォームに向かう一人だ。

二十分ほどで島を横断し、船着き場のロータリーに差し掛かると、彼は身支度を調え、A1幹線のバス停で降りた。それから500メートルほど歩道を歩き、船会社の倉庫やオフィスを通り過ぎると船着き場だ。入り江には長さ30メートルのコンクリート製の浮き桟橋が三つあり、小型の作業船や貨物船が行き来している。

それとは別に、南の外れにも長さ20メートルほどの浮き桟橋がある。合成木板のデッキ材をつなぎ合わせた簡易式の係留桟橋で、それがエンタープライズ社の専用だ。桟橋の先には全長18.5メートルの補給船が待機し、既に食材やリネンの搬入が始まっている。

左手のダイバーズウォッチを見れば、八時過ぎ。

出航まで、まだ十五分ほどある。

どこにも居場所はなく ~人間、所詮一人じゃないか

彼は波止場の係留ピットに腰掛けると、ジーンズのポケットからメタリックシルバーの細長いシガレットケースを取り出し、いつも一本だけしのばせているハーブシガレットに火を付けた。

彼が今も吸っているのは『エクスタシー』という銘柄だ。葉たばこを使用しないニコチンフリーのシガレットで、代替タバコとして人気がある。成分は、ワイルドレタスやセージ、イヌハッカといった合法ハーブで、バジルとメンソールを混ぜたような香味がある。「合法ハーブ」といえども、ワイルドレタスはアヘンの代用として使われた歴史もあり、実際のところ何が含まれているのか、彼も詳しく知らないし、知りたくもない。大学時代、薬局で煙草の代用品として勧められ、それ以来だ。一時期、一日に十本以上吸っていたが、必死にセーブして、今は月に二、三本に止めている。

できれば止めたい。

だが、最初の一口の、得も言われぬ快感が忘れられない。

吸えば一瞬、頭の中がすっきりし、生まれ変わったような気分になる。

その度に『マニトゥール』の強烈な高揚感を思い出すが、それだけは二度と手を出してはならない悪魔の薬(ドラツグ)だ。どれほど欲しくても、忘れるしかない。

彼は煙を吐き出すと、なんとなくヤンのことを思い浮かべた。

トリヴィアに来てから何度かメールを送り、『水を治める技術のアーカイブ』もエンデュミオンのローカル通信サービスを使って『TrsutIn』に公開していたが、未だ何の連絡もない。よほど立腹しているのか、それとも彼のことなど気にも留めないのか、案外、友だち甲斐のない奴だと淋しい気持ちがする。

ヤンとの仲はいつでも複雑だ。

子供の頃から同じクラブでプレーし、週末にサイクリングを楽しんだり、キャンプで寝泊まりしたり、一番長く時間を過ごした割には、ほとんど本音で話したことがない。故郷の再建をどうするか、自治体の方針をどう思うか、政治や仕事に関する話なら明け方まで議論が弾むが、内面的な話になると、たちまち口が重くなる。母のこと、マルセイユのこと、ボランティアでも自分一人が浮き立ち、どこにも居場所が無いように感じるとか。だが、話したところで、何がどうなる訳でもなく、「それくらいで、くよくよすんなよ。家も農地も無くして、途方に暮れてるのはお前だけじゃないんだぜ」と肩を叩かれて終わりだろう。好きとか嫌いとかの問題ではなく、ヤンはそういうタイプなのだ。

そして、ヤンの方も、自分みたいに陰気で堅苦しい人間と一緒に居るより、クリスティアンやイグナスのようにからりとした同郷の仲間とつるむ方がはるかに楽しそうで、それを目の当たりにすると、ますます何も言えなくなる。

そういう彼のいじけた性格がヤンにも歯痒かったのだろう。時々、冗談とも本気ともつかぬ口調で彼のプライドを傷つけ、笑いものにした。彼が渋面を作ると、「なんだよ、真に受けるなよ。ちょっと、からかっただけじゃねえか」とはぐらかし、周りも一緒になって笑うのだ。

わけても腹が立ったのは、ギーゼラのことだ。

二十七歳の時、いつものように休暇を利用してフェールダムに帰ると、ヤンに代役を頼まれた。妹のギーゼラと野外コンサートに行く約束だったが、急用ができたので、代わりに一緒に行って欲しいという。ロックバンドなど、まるで興味はなかったが、ギーゼラが相手では断れない。億劫に感じながらも待ち合わせ場所に出掛けてみれば、なんと可憐な乙女に成長しているではないか。子供の頃はアレルギー皮膚炎をこじらせ、顔も首筋も真っ赤に腫れ上がり、どれが素顔か分からぬほどだったのに、今は早春のクロッカスのように輝いて見える。

そのことをヤンに話すと、ヤンは腹を抱えて笑い、「あいにくだったな! もうすぐ結婚するんだ。相手はミデルブルフの法律事務所の跡取りだ。玉の輿だぞ!」と冷やかした。そればかりか、クリスティアンやイグナスにまで「俺の妹に懸想しやがった」と吹聴し、皆にからかわれる羽目になった。それだけでも十分腹が立ったが、

「お前、案外、女にモテないよな。まあ、お前みたいに年中海に出て、年に数えるほどしか帰ってこないような男じゃ、どんな気立てのいい女も躊躇するだろうが。だが、もうちょっと、なんとかならんのか? その調子じゃ、お前、一生独り者だぞ」

ヤンは何気に言ったが、彼の胸にはぐさりと突き刺さった。それぐらい軽く受け流せばいいのかもしれないが、それができるくらいなら、職場でも故郷でも、これほど人付き合いに苦痛を感じたりしないのだ。

それでもエンデュミオンのトレーラーハウスで、いよいよという状況になった時、誰よりも『リング』を見せたいと願った相手はヤンだった。俺はGeoCADが使えるし、『緑の堤防』も自分で一から描いた。他の誰に疑われるより、君に疑われるのが一番辛いと。それで感傷的になって、『水を治める技術のアーカイブ』のトップページに『Beste Jan(ヤンへ)』というメッセージを記し、パスワード保護された隠しページに『リング』の鳥瞰図を掲載したりもした。『リング』を見れば、きっと信じてもらえると期待したからだ。だが、それもどうやら独り相撲だったようだ。『リング』は再び彼の胸の底に沈み、誰にも言えない秘密になった。もう二度と、ヤンと話すこともないだろう。

思えば、人付き合いが苦手な彼にとって、ヤンだけが唯一、故郷との架け橋だった。ヤンの後ろにくっ付いておれば、サッカーやボランティアの仲間に入れたし、故郷の人々の共感を得ることもできた。だが、それも無くなって、今は一人ぼっちの浮き草だ。片思いの犬みたいに鼻を鳴らして、地面を掘っている自分がいる。

彼はふーっと煙を吐き出すと、(人間、所詮一人じゃないか)と自分に言い聞かせた。この年になって友達ごっこもあるまいし、今更、誰かに愛されたいとも、理解されたいとも思わない。本当に解ってくれたのは父親だけだ。その人を亡くして、この世にまだ何を期待することがあるのだろう。

彼は『エクスタシー』を吸い終わると、シガレットケースの中でぎゅっと揉み消し、ジーンズのポケットにしまった。

まだ胸の中は釈然としないが、こうして海を見ていると、やはりここが自分の生き場所と痛感する。情けで拾われた悔しさはあるが、もう一度海に出て、プロテウスの操縦桿を握れるなら、これほど嬉しいことはない。

海に落ちる、恋に落ちる

気を取り直し、アーミーバッグを肩に担いで、再び波止場を歩き出した時、浮き桟橋に急ぐ作業員の中に若い娘の後ろ姿を認めた。白いスリムパンツに花柄プリントのチュニックブラウスという軽装で、供も付けず、蜂蜜色の長い髪を風になびかせながら補給船に向かっていく。

彼は足早に近づくと、「おい」と後ろから声をかけた。

彼女が無視して先を急ごうとすると、彼は後ろからその腕を掴み、「こんな所で何をしてるんだ」と凄んだ。

「離してよ、痛いわ」

「何をしているのかと聞いてるんだ」

「あなたに関係ないでしょう」

「パパに内緒で海に出るつもりだな」

「一日だけよ。あなたに偉そうに指図される覚えはないわ」

リズはくるりと背を向け、彼の手を振りほどいた。

「そんなに海が見たいのか」

「そうよ」

「だったら面白いものを見せてやる。桟橋の端に行ってみろ」

「『面白いもの』って、何よ」

「いいから、行くんだ」

リズが不審に感じながらも桟橋の端まで歩いて行くと、突然、彼に背中を押された。リズは「きゃーっ」と叫んで海に落ち、激しくむせながら「何するのよ!」と叫んだ。

彼は器用に立ち泳ぎする彼女の姿を観察しながら、「一応、泳げるんだな」と感心した。

「当たり前じゃない。こう見えても、週に二回はフィットネスプールで泳いでるのよ」

「フィットネスプールなんて、大洋のど真ん中に落ちたら何の役にも立たないよ」

リズは必死に手を伸ばし、衝突防止用の古タイヤにしがみついた。それから自力で桟橋に上がろうとしたが、海水で衣類がまとわりついて、思うように手足が動かない。

すると、彼は彼女に手を差し伸べ、「上がってこい。そして真っ直ぐ、パパの所に帰るんだ」と促した。

ちらと見ると、二つ折りにしたカジュアルチェックの袖口から海賊みたいに太い腕が覗いている。日焼けした肌にブロンドの産毛が光り、丸々したパパの手とは大違いだ。

リズが水中で戸惑っていると、

「どうした、早く上がってこい」

彼が再び促した。

恐る恐る見上げると、朝日の中に勇壮な男の姿が見える。背も高く、肩幅もがっしりして、まるで映画のキャプテン・ドレイクみたいだ。ダークブラウンの髪を風になびかせ、運命に選ばれた若獅子のように、船の舳先に立つ――。

リズがおずおずと手を伸ばすと、彼はひょいと彼女の二の腕を掴み、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「よくこんな細っこい腕で海に出る気になったな。これじゃロープも結べない。君はフィットネスプールでワンツー、ワンツーとエクササイズしている方が似合ってる。嬢ちゃんは嬢ちゃんらしく、パパのお船でシャンパンでも飲んでろ」

リズは唖然とし、彼の手首を両手で掴むと、思い切り手前に引っ張った。油断していた彼も真っ逆さまに海に落ち、大きな水しぶきが上がった。

「これでおあいこね」

リズは再び古タイヤに手をかけると、自力で桟橋に上がろうとしたが、強い力で腰を掴まれ、あっという間に水中に引き戻された。

魚みたいに手足をばたつかせ、彼の手を振りほどこうとするが、強い力で捉えられ、息もできない。二度、三度、網にかかった人魚みたいに藻掻き、とうとう彼の腕の中で観念すると、彼も腕の力を緩め、彼女の身体を古タイヤに預けた。

リズはかたかたと震え、顔を上げることもできない。次は何をされるのかと、本気で怯えているのだ。

彼もさすがに罪悪感を感じ、彼女の顔をそっと覗き込むと、

「君に何かあったらパパが悲しむ。海で溺れて家族を悲しませるような真似はするな」

と真摯な口調で言った。

すると、リズの瞳からつーっと涙がこぼれ落ち、白い手に滴った。

これには彼も驚きだ。さっきの生意気はどこに消えたのだ?

彼はそっと彼女を抱き寄せると、恐れと羞恥心に身を堅くする彼女に優しく諭した。

「海に出たい気持ちは分かるが、プラットフォームは君のような女の子が物見遊山で出かけていい場所じゃない。激しく波が打ち付ければ、俺でも恐怖を感じるほどだ。どうしても行きたいなら、パパにちゃんと訳を話して、安全な船を用意してもらえ。そうすれば、俺が連れて行ってやる」

リズは恐る恐る彼の方を向き、水色の瞳を瞬いた。

濡れた前髪から水が滴り、浅く日焼けした頬をゆっくりと伝う。さっきは、ぼさぼさ頭で分からなかったが、こんなに綺麗な顔をしていたのか。眉は一筆に描いたように男らしく、瞳は海のような碧色で、映画のキャプテン・ドレイクより、ずっと端正に見える。

だが、彼は自力で桟橋に這い上がると、もう一度、彼女に手を差し伸べ、今度こそリズを海から引き上げた。それからアーミーバッグのサイドポケットから携帯電話を取り出し、アルに連絡を取ろうとしたが、

「パパには言わないで」

リズが泣きそうな声で言った。

「助けなら自分で呼ぶわ。だから、あなたから電話しないで」

「本当だな」

「本当よ」

すると、彼はバッグの底から白いバスタオルを取り出し、彼女の濡れた肩にふわりと掛けてやった。

「パパの所まで送ってやりたいが、俺もすぐに出港しないといけないんでね。その先に船会社の小さなオフィスがある。電話を借りて、すぐに迎えに来てもらえ」

リズが小さく頷くと、彼もアーミーバッグを肩に担ぎ、自分もずぶ濡れのまま補給船に乗り込んだ。

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【解説】 洋上プラットフォームの連絡船

洋上プラットフォーム(石油リグ)に人や物資を運ぶ船は、一般に『Support Vessel(供給船)』『Support boat』と呼ばれます。

洋上に浮かぶといっても、実際は、洋上から高く突き出た「やぐら」のような形状をしている為、簡単に接舷や搭乗できるものではありません。

『Offshore Support Vessel』

こちらは全長38メートルの補給船。本作の補給船が18.5メートルなので、ほぼ二倍の大きさです。
移動中、クルーが快適に過ごせるよう、船室も観光船のようにきれいです。

『38m Supply Vessel / Oil Recovery Ship – ARENA OFFSHOR』

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海洋小説 MORGENROOD -曙光

宇宙文明の根幹を成すレアメタルと海洋社会の覇権を懸けて水深3000メートルの深海に挑む。
リストラされた潜水艇パイロットが恋と仕事を通して再び生き道を得る人間ドラマです。
海洋小説 MORGENROOD -曙光 海とレアメタルの本格SF小説

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