ニーチェと『悦ばしき知識』~体得された自由の印は何か?

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ニーチェの言葉より : 体得された自由の印は何か?

多くの人は、「今の自分が好きになれない」と悩んでいるものです。好きになれない原因は、「理想通りにならない」「欲しいものが手に入らない」「周りと比べて劣っている」といった不満や不安が根底にあります。それが、つのりつのって、怒りに移り変わると、やがて激しいルサンチマン(怨念)となり、自分も周りも苦しめるようになります。

こうした怨念を克服し、創造的に生きることを説いたのがニーチェです。

「創造的に生きる」とは、絵を描いたり、音楽を作ったりすることではありません。

無の平原から、意味のある何かを立ち上げることです。

より良く生きる為に、日々、考えること、実行すること、その全てが『創造』です。どんなに小さくても、昨日よりは今日、今日よりは明日、少しずつでも歩みを進め、善きものを積み上げることを創造的な生き方と言います。

それは一足飛びに人生を変えることはありませんが、怨念を洗い流し、精神をはるか高みへと連れていきます。

本作では、故郷を洪水で押し流され、堤防管理の土木技師だった父親まで失ったヴァルターが、いつまでもそのことを恨みに思い、自分も苦しみ、母も苦しめる過程を描いています。

だけども、18歳になり、ようやく故郷の惨状と向かい合う余裕をもった時、同郷の教授から「創造的に生きる」「もはや自分を恥じない」という言葉を教えられます。

長い間、水の底で藻掻いていた彼の心に希望の光を灯したのは、故郷で復興ボランティアに取り組む幼馴染みの姿でした。

本作でモチーフにしている『自分を恥じない』の出典は、ニーチェの『ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)』です(記事後方を参照)。

体得された自由の印は何か? ――もはや自分自身に恥じないこと。

【小説】 最高の美徳とは何か:もはや自分を恥じないこと

オランダ人のヴァルターは、土木技師の父と、エクス=アン=プロヴァンスの母と、フェールダムの干拓地で幸せに暮らしていたが、未曾有の大洪水により締切堤防は決壊し、堤防を守りに戻った父も高潮に呑まれて行方不明となる。

遺された母子は、フォンヴィエイユの港町で、身を寄せ合うようにして暮らしていたが、ついに母が病に倒れ、生活も立ち行かなくなる。

そんな母子に手を差し伸べたのは、かつての婚約者で、マルセイユの裕福な実業家、ジャン・ラクロワ氏だった。

アンヌは苦悶の末、ラクロワ氏の申し出を受け、心ならずも再婚することになる。

しかし、やり手の実業家で、合理主義者のラクロワ氏と、慈愛の人だった父の価値観は余りにも違う。暮らしが豊かになるほど、ヴァルターの心の中に虚しさがつのり、学内で問題を起こして、家にも居られなくなる。

そんなヴァルターに道を示したのは、たまたま目にした商船学校のポスターだった。運命の女神に導かれるように、ヴァルターは商船学校に進学し、ラクロワ邸を出て自力で生きていく決心をする。

洋上の特別研修で、潜水艇プロテウスの潜航をを見学したヴァルターは、豊かな深海の世界に魅了され、潜水艇のパイロットを志すが、一方で、壊滅した故郷フェールダムで、幼馴染みらが中心となって復興ボランティアに取り組んでいる事を知る。

六年の歳月を経て、ようやく洪水の悲劇と向かい合う決意をしたヴァルターの胸を打ったのは、一向に再建が進まぬフェールダムの惨状と、「創造的であることが、あらゆる苦悩から我々を救ってくれる」という教授の言葉だった。

【リファレンス】 ニーチェと『悦ばしき知識』

「人間とは乗り越えられるものだよ」「創造的であることが、あらゆる苦悩から我々を救ってくれる」というのはニーチェの言葉のアレンジです。ここでいう『創造』とは絵を描いたり、作曲したり……という創作ではなく、「ゼロから価値あるものを打ち立てる」という意味です。

ニーチェの名言もいろいろありますが、特に好きなのが『悦ばしき知識』に収録されたこの一文。

体得された自由の印は何か? ――もはや自分自身に恥じないこと。

第三章の275節に収録されています。

一部を抜粋。

二六八

英雄的にさせるのは何か? ――自分の最高の苦悩と最高の希望とに向かって同時に突き進んでゆくことがそれだ。

二七〇

お前の良心は何を告げるか? ――「おまえは、おまえの在るところのものと成れ」

二七三

お前は誰をば悪と呼ぶか? ――いつもひとを辱めようとする者を。

二七四

お前にとって最も人間的なことは何か。――誰をも恥ずかしい思いにさせないこと。

二七五

体現された自由の印は何か? ――もはや自分自身に恥じないこと

ニーチェについては、上記の関連リンクにもたくさん記載しています。ぜひご参照下さい。

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