人間が大事なのか、商品が大事なのか ~ 共産主義思想が誕生した歴史的背景 人と思想『マルクス』小牧治

マルクス
記事について

世界を変える大潮流となったマルクスの共産主義思想はどのような経緯で誕生したのだろうか。人と思想を語る場合、まずは背景となる歴史を理解しなければならぬという小牧治氏の精神に従い、産業革命後、急速に近代化・工業化が始まった19世紀と、その弊害を目の当たりにしたマルクスの労働者救済の思いを紹介しています。

目次 🏃

人と思想『マルクス』 小牧治・著について

最近、amazonなどで、いろんな読書レビューを目にするが、つくづく思うのは、その文章が書かれた時代背景や書いた人のバックグラウンドを全く理解せず、「この本は○○である!」と決めつける人が後を絶たない事だ。今はGoogleもあるのだから、amazonやWikiを検索すれば、少なくとも初版年月日や著者のプロフィールは分かる。もう少しDigすれば、その人が影響を受けた思想や作品、師事した人物の事も分かるし、その年代に起きたことを大まかに知ることもできる。その書物に込められた思想も大事だが、それが生み出された背景を理解するのも同じくらい重要だ。そこを欠いて、言葉尻だけ捉えても、本当の読書にはならないし、誤情報を鵜呑みにして、無条件に毛嫌いするなら、大きな機会損失でもある。
初版年月日や著者プロフィールを確認するのは大した手間ではないので、本文を読む前に、軽くチェックしてみよう。そうすれば、何気ない一言がいっそう重みをもって響いてくると思う。

これから紹介する『マルクス 人と思想』は、小牧治という文学博士によって書かれた伝記だ。

マルクス 人と思想 新装版 Kindle版
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説明

著書のプロフィールより。

1913年(大正2)京都府に生まれる。東京文理科大学哲学科卒。フランクフルト大学に留学。東京教育大学名誉教授。文学博士。
主著=『人間形成の倫理学的基礎』『社会と倫理』『国家の近代化と哲学』『人と思想 カント』『人と思想 ルター』ほか。

初版年月は1966年。
東京オリンピックにビートルズ来日、「戦後は終わった」を合い言葉に、これから日本も欧米先進国の仲間入りを果たすぞと、一億総サラリーマンで息巻いていた時代である。
この三年後、全学共闘会議および新左翼の学生によって、東京大学の安田講堂占拠事件が起きることを考えれば、どういう社会の雰囲気か、だいたい想像がつくだろう。さらに、その三年後、連合赤軍による浅間山荘事件が起きる。

そういう時代の書物なので、本文も思い入れたっぷり(ロマンチック)、思想ではなく、マルクスの生き様や『共産主義宣言』や『資本論』が著されるに至る背景を丁寧に追った作りで、入門編としては最適だ。
それも決して共産主義万歳!な内容ではなく、マルクスの心髄である労働哲学に徹している。

私が一番共感したのは、冒頭のこの箇所。

かれの究極の念願、かれの究極の目的は、この人間――資本主義でゆがめられ、非人間化され、人間らしさを失ってしまっている人間――を解放して、ほんとうの人間らしい人間にすることであった。(20P)

つまり、方策がどうあれ、現状に対する疑問と労働者の救済が最大の動機である、という点である。
もし、マルクスが産業革命時のロンドンを訪れ、街角にうずくまる乞食や子供を目にして、「時代に乗り遅れた可哀想な奴」「自己責任」で終わっていたら、思想としての共産主義が確立することはなかったし、20世紀初頭、労働者が自らの権利意識に目ざめ、労働環境の改善に向けて動くこともなかっただろう。そこから先の政治的展開がどうあれ、社会に対する疑問を突き詰め、一つの解答を導きだすことは、誰にでもできそうで、簡単にできることではない。今でも発言大好きなプチ社会論者は大勢存在するが、その中の誰が徹底して考え抜く道を選ぶだろう。せいぜい、身内でいいねと頷きあって終わるだけではないだろうか。

どんな思想も、基礎となるのは、動機であり、方向性である。

その点、マルクスは類い希な頭脳と馬力と使命感をもった人ではないだろうか。

マルクスの名言はこちら: 人は労働を通して社会的存在になる カール・マルクスの哲学

マルクスの思想の時代背景

小牧氏の解説によると、マルクスの思想が生まれる時代背景は、おおよそ次の通り。

この箇所は長いので、一部アレンジしています。

マルクスが生まれた1818年といえば、ヨーロッパを震がいさせたナポレオンが没落してから三年あとである(フランス革命=1789年)。フランス革命が種をまいた自由民権の思想は、ヨーロッパ各国はもちろんのこと、さらに遠くアメリカ、とくに南アメリカにもおよんでいた。君主の圧迫をうけて苦しんでいた国民は、あちこちで独立運動を起こすにいたった。

しかし、ウィーン会議(オーストリア首相メッテルニヒの主催)にあつまった列国は、革命思想の恐ろしいことを、身にしみて感じていた。同時にまた、列国が同盟するときは、あれほど強いナポレオンをも滅ぼす力になりうることを悟った。そこで、会議にきた代表者たちは、フランス革命的な思想や運動を鎮圧して、もとの保守専制にかえそうとの考えをもっていた。

……この後、メッテルニヒは外国にまで干渉して、ドイツ、イタリア、スペインなどに起こった革命運動を、武力で鎮圧した。メッテルニヒの反革命保守主義は、一時、ヨーロッパを風靡するにいたった。だが、メッテルニヒは、アメリカ諸国の独立をおさえようとしてモンロー主義(欧米間で互いに干渉しないことを主張する外交の原理)につきあたり、ギリシア独立運動にさいして、同盟諸国に裏切られてしまった。

自由民権と保守専制の衝突は、ふたたびフランスにおいて爆発し、ブルボン王朝を倒すにいたった(1830年7月革命)

勝利に帰したこの革命の波は、ただちにベルギー・ドイツ・イタリア・ポーランドなどへおよんでいった。

ことに、産業革命や資本主義の展開、それに呼応する深刻な労働問題や労賃の対立のなかにあったイギリスでは、いろいろな運動がはげしくなっていった。 ≪中略≫ 労働問題が深刻化する反面、労働者階級が台頭し、おいおいと強力となってきた。そうした情勢の反映として、資本主義を批判し、平等な社会を実現しようとする、社会主義があらわれてきた

イギリスのロバート=オーウェン、フランスのサン=シモン、フーリエなどの「空想的社会主義」とよばれるものは、その代表である。

そうした情勢のなかで、遅れて資本主義が発展し、ようやく労働運動が深刻化してきたフランスでも、社会主義者や急進的小市民に指導された革命が勃発するにいたった。1848年2月の『2月革命』がこれである。

マルクスは、こういう波多き時代のなかで生をうけたのである。

こうして見ると、マルクスをはじめとする共産主義思想が生まれるべくして生まれたことが分かるだろう。
決して突然変異的に芽生えた思想ではなく、既にその土壌があって、様々な意見や価値観を吸収しながら大木に育ったのだ。

次いで、この一文。時代や生い立ちの背景を理解することがいかに重要か、簡潔に語っている。

わたしは舞台をえがくという名のもとに、ヨーロッパのこととか、フランスのこととか、ドイツのことを、あれこれしゃべりつづけた。わたしの問題は、マルクスの生涯や思想を話すことであったのに。だから読者のかたは、もううんざりして、しゃくにさわられたことと思う。辛抱づよくて好意のあるひとでも、一刻も早くマルクスの登場をお待ちになったことと思う。申し訳ない。だが、長すぎたと思われる舞台描写にも、大事なわけがあったのである。
じつは、「人とその思想」を語るばあい、しっかりと舞台を描写し、そのうえでその人に登場をねがうというのは、ほかならぬマルクス自身の念願であり、やりかたであり、理論であったのである。

≪中略≫

人・思想と歴史・社会(とき・ところ)との関係は、役者と舞台との関連のようにかんたんで単純なものではない。人・思想と歴史・社会との相互の関連は、瞬時もとどまることなく生成し、変遷し、運動し、流れていく。それはたえず変遷し運動していく、人間と自然との関係であり、また人間相互の関係である。人はある手奥体のとき・ところのなかに生まれ、そこで育てられ教育されて大きくなり、そこで社会や歴史をつくりかえていく。

≪中略≫

マルクスは、だから「人とその思想」をみるばあい、こういう関連のなかでみなくてはならないというのである。マルクスはいう。よく観念論者といわれる人がするごとく、ある人を神さまにしたり、ある思想を永遠絶対の真理として固定してはいけない。舞台から切り離された思想が思想だけで存在しているように考えたり、舞台から引きはなされた思想をつらねて思想史を書いてみたりしてはいけない。思想が世界をつくるかのごとく空想してはいけない、と。

≪中略≫

わたしは、これからも、こういう関連のなかで、マルクスの人と思想をあきらかにしていきたいと思う。そうでないと、ほんとうのマルクスにはならないし、墓場のなかのマルクス君は、「これは、おれとはちがう」とおこるであろう

「辛抱づよくて好意のあるひとでも、一刻も早くマルクスの登場をお待ちになったことと思う。申し訳ない」の一言に小牧氏の人柄が窺える。

'`,、'`,、ヾ(´∀`*)ノ '`,、'`

墓場のなかのマルクス君は、「これは、おれとはちがう」とおこるであろう・・味わいありすぎて、泣ける。

ともあれ、時代が作らぬ『人』はないし、人が作らぬ時代はない。

平安時代の庶民と、現代の庶民では、生き方も価値観も大きく異なるように、人間は環境に影響され、また人間の方から環境を変えていく。

歴史はこうした相互作用の連なりであり、マルクスひとりが時代の真ん中にポツンと存在するわけではない。

浅田真央ちゃんの前に伊藤みどりさんが居たように、機動戦士ガンダムの後に超時空要塞マクロスが作られたように、人も作品も政治も、全てのものは巨大な連なりの中にある。前後左右に影響を与え、時に否定されながら、流動的に形作る。

金言も、文句も、確かに「一言」に違いないが、そこに至るまでの道筋はそれぞれに違うということ。

※ 映画『マルクスとエンゲルス』より

一つの社会的事件:人間が大事なのか、商品が大事なのか

枯れ枝を拾っただけで窃盗なのか?

日々『ライン新聞』で議論を戦わせるマルクスの時代に一つの社会事件が起きる。

ライン州の議会は、慣行に従い、木材を採取した者に対する罰則や取り締まりを強化し、枯木や枯枝を拾った者まで「窃盗」扱いすることに決定したのだ。

小牧氏は、日本の「小繋事件(明治時代、近代的な私有制が確立されたことにより、村民が共同で使用していた小繋山がある個人の私有地となり、村民の利用を制限して、この山を自分の為に自由に処分できる所有権を行使しようとする)」を引き合いに出し、州議会の利己性とマルクスの怒りを分かりやすく説明している。

抜粋は一部省略しています

いったい人間が大事なのか、木が大事なのか。人間の権利は、木の権利のまえに屈服してはならないし、人間が木という偶像のまえに敗れて、そのいけにえとなってはならない。

ところが、この法(木材窃盗取締法)においては、すべてがゆがめられ、さかさまになっている。人間の権利は若木の権利のまえに屈服している。

この法律のなかの原理は、森林所有者の指摘利益の保護いがいのなにものでもない。この私的利害こそが、究極の目的なのである。なにが善であり、なにが正義であり、なにが法であり、なにが裁判の公平であり、逆に、なにが悪であり、なにが不正であり、なにが犯罪であり、なにが不公平であるかは、すべてこの森林所有者という権力者の利害感によって決定されているのである。

そこでわれわれは要求する。政治的にも社会的にも何ものも持たぬ貧しい大衆のために、次のことを要求する。貧しい最下層の大衆の権利そのものである慣習法を、かれらの手にわたせ、と。

たとえば、村人の共有地だった野生のイチゴ畑が、ある日、法改正によって、Aさんの私有地になるとする。
当然、Aさんは自分のプロパティとして、立ち入りを制限し、勝手にイチゴを採ったものは窃盗罪として訴えることができる。
イチゴが欲しかったら、Aさんに入場料を支払うか、イチゴ畑で働いて、イチゴの市場価値に見合う労働力を差し出すことになる。

その理屈は分かるが、それまで村人の共有地であり、生活の糧だったものを、法の一点で区分けしていいのか、という話だ。

そして、イチゴ畑の私有化の為に、村人が生活の手段を立たれ、飢えに苦しむなら、人間とイチゴ(法律)と、どちらが大事なのか……というのが、マルクスの論点である。

その後、非常に重要な疑問が湧いてくる。

かれは、もの(木材)とものにまつわる利害が神になり、君主になり、人間がそれの手段となり、奴隷となり、人間らしさを失っているという転倒に気付いてきた。しかし、どうしてこういう矛盾がおこるのであろうか。なまの現実で、こういう転倒がおこってくる仕組みや原理は何なのであろうか。それは、まだマルクスにはわからなかった。

つまり「村人が可哀想」「私有化したAさんはひどい」と感情論を唱えても、物事は変わらない。Aさんを悪人に仕立てて、イチゴ畑を解放することも可能だが、それでは根本から解決したことにはならない。

そうではなく、なぜそうなったのか、何が間違いなのか、どうすれば是正できるのか、科学的に分析し、具体的な解決策を提示することが重要なのだ。

人間とは社会的存在である

上記のような疑問から出発したマルクスは、政治的解決による救済を真摯に考えるようになる。
その一つがフォイエルバッハ批判だ。

なぜ人間は、みずからの本質を失い、神とか、絶対精神とかいったものを夢みるのか。
そういう自己喪失、すなわち、いわゆる人間の自己疎外は、なぜおこり、どうすれば治癒できるのか。フォイエルバッハでは、それが明らかにされていない。

問題は、人間に夢をつくらせ、人間を疎外させている現実であり、政治であるのではなかろうか。

先ほどの、サッカー部の鬼コーチを例に挙げてみよう。
「俺の言う通りにすれば勝てる」「お前たちは黙って俺の言うことを聞いておればいい」という鬼コーチは、従順な選手だけを重宝し、逆らう選手はどんどんレギュラーから外していく。それが常識になると、選手は自分で考えることを止め、何もかも鬼コーチの判断に委ねるようになる。

鬼コーチの指示に従えば、要領よく勝てるが、何かおかしい、何か物足りない、自分が自分でないような気がする……選手らは自己疎外感を覚えるようになる。

そうした問題を解決する方法は主に二つ。

1)選手が自己鍛錬し、各自で悩みを克服する。

2)鬼コーチに不満を申し入れ、部の方針を見直す。

マルクスは後者の立場で、鬼コーチの態度や部の方針を改めようとする。各自がどれほど頑張っても、同じ体制が続く限り、苦悩も続くからだ。
抜本的な改革を図るなら、個人の意識を高めるだけでは限界があり、仕組みそのものを変えようというのがマルクスらの主張だ。その為には、何が原因で、何が間違いなのか、皆に分かりやすいよう提示する必要がある。その為の勉強であり、分析なのだ。

そして、マルクスは、社会における人間を次のように定義する。

人間の本質は、実践的・主体的にかかわりあう社会的人間である。

だいじなことは、人間の社会的実践であり、現実を変革することである。

社会に生きる人々は、たとえ孤独が好きでも、無縁者でも、社会と何の関わりなく存在することはできない。一見、独りで生きているように見えても、意識下には絶えず周りの社会がある。見方を変えれば、社会というものを意識するから、孤独や劣等感、自己無価値感に苦しむのである。
社会という枠組みを無視して、人間の真の幸福は有り得ない。
個人に意識改革を求めても、社会に生きている以上、限界があるのだ。

人間の解放 ~真の自由と平等とは何か

マルクスの目指す”人間の解放”は、単なる政策や法律の変更にとどまらない。
なぜなら、小手先の方策を変えたところで、根本的な解決にはならないからだ。

小牧氏は次のように解説する。

政治的に解放されて、自由・平等の権利をあたえられたとて、それは、形式的、法律的な自由・平等であって、ほんとうの、具体的な自由や平等ではない。選挙権が平等にあたえられ、職業の自由があたえられたとて、それは形式的な平等や自由であって、現にいまおこっている不自由・不平等を解消することにはならない。

問題は、政治的な解放、つまり国家がひとしい政治的な権利や自由をあたえることでなく、人間の解放である。

人間が利己的で、みんなが個々バラバラに営利や金銭を追求してやまないかぎり、そこに対立や矛盾や闘争や不平等がおこるのはあたりまえである。だから問題は、こういう、いわば利己的・個人的な欲望そのものの争いともいうべき、この私有制にもとづく市民社会そのものにある。

だから、問題は、こういう市民社会から人間を解放することである。こういう私有制の上にたつ社会、対立、矛盾、闘争、利己の支配する市民社会から人間を解放することによってはじめて、人間の真の解放は実現するのである。

こうしてマルクスは、私有制にもとづく現実の市民社会の矛盾・対立・無秩序・悲惨・闘争を除去する道を、ばくぜんとはいえ、社会主義への方向においてとらえたのである。

この部分は、現代においては、おおいにエクスキューズがあるだろう。
ここまで物質的、あるいは技術的に爛熟した時代において、『私有を認めない』というのは無理がありすぎる。
それよりは、私有を認めつつ、格差の是正や富の偏在の解消に努めた方がいい。
確かに、全員一律、不公平をなくすことは素晴らしいが、欲望あっての進歩でもある。
それは時に強欲や支配をもたらすが、一方で、創造のモチベーションとなる。
要は「度合い」の問題であって、富も権力も一カ所に傾きかけたら、理性と仁徳をもってバランスを正すこともできるのではないか。

しかしながら、私がそのように思うのも、福祉が充実した現代に生きているからかもしれない。いわば『革命後の社会』――社会のシステムは変わらなくても、人権や平和の意識が高まり、法制度も生活レベルも著しく向上した21世紀に比べたら、19世紀など、当たり前のように人権侵害や搾取が行われていた時代である。そうした現状を目の当たりにしたら、社会のシステムを根本から変えるしかないと考えるのも頷けるし、また、そうした思想があったからこそ、労働者の権利意識も芽生えたわけで、そのあたりは、やはり必要不可欠な思潮のプロセスだったのかと思う。

小牧氏いわく、

では、この現実、この政治、この市民社会がはらんでいる矛盾は、どうすれば解決されるのか。だれがどうすればよいのか。そこでマルクスは、市民社会のなかにありながら市民として取り扱われず、人間らしい自由や平等や所有からまったく見放されているプロレタリアートに解決の力をみいだしたのである。市民社会のなかで生みだされ、しかも市民社会のなかで人間らしさをまったく喪失しているこの階級に、人間が人間らしさをとりもどし、人間が人間として解放されるための期待をよせたのである。

だが、プロレタリアートという力が、この革命をじっさいに実現するためには、武器を、頭脳を必要とする。それは、人間が、人間にとって最高であるという、新しい哲学である。この新しい哲学はその具体化のためには、この市民社会をじゅうぶんに分析し、解剖しなくてはならない。

ところで、この市民社会そのものが欲望を原理とするかぎり、それは、わけても経済的な社会であり組織である。市民社会のなかで産みだされたプロレタリアート自身が、実はこういう経済機構によって生みだされたものにほかならなかった。

したがって、そこはかつての国家や法や政治の分析をこととした法哲学ないし国家哲学に、市民社会の経済構造の分析・解剖の学、すなわち経済学がとってかわらなくてはならない。

いまやマルクスは、明確な自覚のもとに、経済学の勉強にとりくまなくてはならなくなったのである。人間の自己疎外の克服としての革命、人間の本質(類的存在)の奪回としての革命、人間の真の解放としての革命、そのような革命に、精神的武器をあたえるために。

今でこそ会社や工場で働く人には『従業員』『社員』『非雇用者』という自覚があるけれども、急激に工業化が進み、労働階級が大量に生みだされた時代においては、「雇用関係」という概念も、「労働法」の重要性も、資本社会における自身の立ち位置すら、分からなかったのかもしれない。

そう考えれば、私有化の廃止を前面に打ち出し、労働階級の結束を強く呼びかけたマルクスの真意も理解できるだろう。

たとえ100年後、200年後の社会にフィットしなくても(そんな芸当はどんな優れた経済学者にも無理)、社会問題と徹底的に向き合い、一つの解答を導き出したことがマルクスの最大の偉業だ。誰も声をあげなかったら……誰も社会科学として分析しなかったら……労働環境の改善も、権利の保障も、ずっと後回しにされていたかもしれない。

疎外された労働 『経済学・哲学手稿』の誕生

人として扱われない労働者

「プロレタリアートは市民社会のなかで産みだされながら、およそ市民らしい取りあつかい、およそ人間らしい取りあつかいから、まったく見はなされている。だから、かれらこそ立ちあがらなくてはならない(小牧氏)」

こうした社会的義憤と使命感から、マルクスは国民経済学やフランス革命について猛勉強をし、最初の書『経済学・哲学手稿』を著す。(マルクスが書きためた原稿をモスクワの『マルクス=エンゲルス研究所』が実際に刊行したのはおよそ90年後の1932年)

この本の内容は、初期マルクスの人間観、人間解放論、ヒューマニズム、あるいは人間疎外(人間の本質を失うこと)論を表現するものとして注目された。

とくに注目され問題とされる論は『疎外された労働』と編集によって名付けられた章である。

小牧氏いわく、マルクスのノートにはこう書かれている。(一部、省略して抜粋)

動物は、ただ欲望のままに生きているだけである。ところが人間は、意識的に、自覚的に生きている。人間とは、たったひとりであるのではなく、類的な存在(社会的なつながりのある存在)であった。<筆者注:”人間は労働を通して社会的存在になる”という言葉の核にあたる>

類的な生活とは、手をこまねいていることではない。自然にはたらきかけて、労働することである。自然に働きかけて、ものを生産し、それによって生きることである。労働し生産して、人間の類的本質(社会的共存)を実現する、それが人間のほんとうのありかたであり、それが人間の真の自由なのである。つまり、生産的労働こそ自己の実現であり、類をなしている人間のありかたであり、本質なのである。

ファストフードの従業員に喩えてみよう。
仕事の動機は「収入」だが、同じ働くなら「職場で認められたい」「お客さんに喜んで欲しい」という思いがある。何故なら、人は社会的存在であり、社会の評価や関わりなくして自己価値は実感できないからである。
八時間労働、時給1000円で働くにしても、職場で人として尊重されながら従事するのと、「お前なんか居ても居なくても同じだから」「イヤなら辞めてもらっていいから」と人格無視されるのでは、まったく異なるだろう。

つまり、人間というのは、もちろんお金の為に働くのだけれども、それと同時に、やり甲斐や自己肯定感、承認を求めるものでもある。それは決して見栄や贅沢ではなく、『社会的存在』という特性がそれを求めるのだ。日々の糧を得れば満足する動物とは大きく異なる点である(ペットでも飼い主の愛情は求めるものだが)

ところが現状はどうであろうか。市民社会のなかでは、逆になっている。労働の実現の成果、いいかえるならば、労働者が生産した生産物は、かれの本質の実現であるはずである。ところが、市民社会では、この生産物は、それをつくった労働者のものではなくなっている。

労働者のものではないどころか、労働者によそよそしい疎遠なものとして対抗し、労働者を隷従させ、労働者を苦しめている。

自己の実現が、非実現となっている。

自己の本質の獲得であるべきものが、ここでは喪失となっている。

つまり、労働もしなかった人、自己を実現しなかった人に、独占され私有されている。

生産物が肝心の実現者(生産者)によそよそしく対立し、かれを苦しめ、奴隷にしている。労働者はみずからの実現としての富を多く生産すればするほど、生産の力と量を増大すればするほど、ますます貧しくなる。

要するに、労働によって自分自身を、自分の本質を、人間という類いの本質を、実現していくことができなくなっている。労働によってものをつくり、もってみずからを豊かにしていくという人間らしさから、見はなされている。それが「疎外」といわれる現象である。

しかし、市民社会でのこの疎外は、たんに生産の結果(生産物)においてだけではない。生産活動そのもの、つまり人間が自己の本質を実現するプロセスそのものが、すでによそよそしいものとなり、他人のものとなり、かれじしんには属していない。だから労働者は、労働していることにみずからの創造の喜びや幸福を感じないで、苦痛や不幸を感じる。

自由な自己実現のはたらきは、肉体的・精神的エネルギーを発展させることなく、逆に肉体を辛苦させ、精神を荒廃させる。だから、労働者は、労働のなかで苦痛を感じ、労働しないときに自由やアットホームを感じる。市民社会での労働は、苦難であり、自己犠牲であり、他人のものとなっている。労働者の生活活動は、自己活動、自己実現ではなく、他人の所有に帰している。

「労働者はみずからの実現としての富を多く生産すればするほど、生産の力と量を増大すればするほど、ますます貧しくなる」というのは、何の手応えもなく働いていれば、商品はどんどん生産されて会社は儲かるかもしれないが、自分自身は摩耗して不幸感が増す、という意味だ。
ここでいう「他人のもの」というのは、「生産手段を有する者」と考えると分かりやすい。
労働者は、何万時間働こうと、会社で何億を売り上げようと、工場や設備や会社の敷地が自分のものになることはない。
給料はもらえるが、給料を何千万も積み立てても、生産手段を有することはない。
積み立てを元手に工場を作れば、生産手段を有する者になるが、そうでない限りは、何万時間働こうと、月給50万に昇格しようと、生産手段を有する者とは厳然たる差があるわけだ。
そして、月給取りは、働かなければ、収入が途絶えて、死ぬ。
それは時給1000円でも、年収1000万円でも同じこと。
自らが生産手段を有するのでなければ、一生、どこかで働いて、給料を得なければならない。病気や介護で退職を余儀なくされたら、エリートだろうが、ベテランだろうが、収入は途絶え、たちまち転落するのが労働者階級の宿命なのだ。(もちろん近代国家には生存権と福祉制度があるが、生活の質が著しく低下するのは免れない)

だから、資本家は悪、私有化は禁止――というわけではなく、時給1000円の労働者だって、いくらかのお金を貯めて、アイスクリームショップを開いたり、マンションの一室を買い取ってレンタルオフィスに利用したり、生産手段を持つ側に転じることはできる。また、そうした夢がなければ、どんな労働も続かないわけで、現代には現代の事情に応じた救済策がある。

いずれにせよ、労働においては、人間として尊重されることが何よりも重要で、それはどのような体制が布かれようと変わりない。

人間にとって労働とは給金や待遇の問題ではなく、社会の一員として生きていく為の大きなステップだからだ。

唯物史観 ~気持ちを変えるか、システムを変えるか

こうして、世界的にも、マルクスの中でも、徐々に社会科学としての共産的な考えが育まれていくわけだが、誰もが同じ方向性で労働者の解放を目指していたわけではない。小牧氏いわく、

矛盾のない理想社会をつくるために、あるものは、資本家や中産層や政治家の理性に訴えた。あるものは、共産主義的規範を示そうとした。あるものは、理論だけを高くかかげた。あるものは、いきなり武装蜂起した。しかし、それらはマルクスによれば、空想的であり、非現実的であった。マルクスは、さきにみてきたごとく、プロレタリア階級による社会革命のなかに、真の自由と平等、真の人間解放への道をみいだしたのであった。

おそらく、今、主流になっているのは、「資本家や中産層や政治家の理性に訴える」ことではないだろうか。経営者も、政治家も、思いやりを持ちましょう、弱者に救いの手を差し伸べましょう、人にやさしい社会を、という呼びかけだ。

それも大事かもしれないが、現実に制度や政策を改めなければ、根本的な問題は解決しない。
たとえば、長時間労働が当たり前の職場で、「残業代は出しませんが、職員は人間として尊重します」「皆で励まし、支え合います」と理性に訴えたところで、従業員のおかれた現状は変わらない。社長に優しい言葉をかけられるより、午後五時退社や有休消化の方が有り難い人の方が圧倒多数だろう。
個々の理性や善性に訴えかけても、改善できるのは表面だけで、問題の根っこを改めない限り、真の解決は有り得ない。
こうした考え方を「啓蒙主義的理性」あるいは「空想的社会主義」という。

対して、マルクスが目指したのは、「唯物史観(史的唯物論)」だ。

観念的見解というのは、頭であれこれ考えめぐらし、頭でつくりあげた像が、ただちに現実に存在するかのごとくみなす、非現実的で、神がかった哲学のことである。それは、ものごとを眺めてあれこれ解釈しているだけで、実践や変革をめざさない。これに対立する見解(唯物論的見解)は、ものごとを、現実の自然的・政治的・経済的・社会的な関連ないし運動のなかで考える。それは、自然をもふくめた世界のいっさいを、運動し、変化し、関係するものとして把握する(「唯物弁証法」とよばている考えかた)。そして、この唯物弁証法が人間の世界ないし歴史に適用されたものが、「唯物史観(または史的唯物論)」とよばれるものである。

その具体例として、プルードンの『貧困の哲学(正しくは、経済的諸矛盾の体系、あるいは貧困の哲学』に対する反駁が挙げられる。

プルードンは不労所得(小作料・家賃・地代・利子・利潤)を批判し、当時の小市民に支持されたが、その立場は「人々の理性に訴えかける」という点で、革新的ではなかった。つまり、経済減少の善い面は残して、悪い面は除去する、という考え方である。

それに対して、マルクスは『哲学の貧困』で、次にように批判する。

プルードンが、労働者の賃金と、その賃金による労働によって生産された生産物の価値とが同じだとするのは、とんでもない。賃金とは、労働者の生存と繁殖(家庭生活)のために必要不可欠なお金(価値)のことである。

この賃金と、この賃金のもとで労働者によって生産されたものの価値とは、けっして同一ではない。

同一ではないから、賃金によって自分の生産物の値打ちと等しいものを、つまり自分の労働時間に相当する値打ちのものを、手に入れることはできない。

逆に、労働者は、働いて富をつくればつくるほど、ますますその富から見捨てられ、貧乏になる。賃金は、プロレタリアートを解放するどころか、宿命的にかれらを奴隷にしておく公式なのである。

たとえば、amazonも、Googleも、小さな会社から出発して、世界的な大企業に成長を遂げたが、そこで必死に働いた人たちは、amazonの年間売り上げに匹敵するものを手に入れましたか? と考えれば分かりやすい。

超大雑把な計算で。
今日一日、amazonが100個の商品を売り上げて、10万円の利益を得たとしよう。
配送や梱包を担当した3人の従業員には、それぞれ日給1万円が支払われたが、残りの7万円はどうなったのだろう。
倉庫代、材料費、光熱費、いろんな経費を差し引いた分が「生産手段を持つ者」の取り分になる。
リスクや責任の重さを考えれば、会社のオーナーはマネージャーが底辺の従業員よりたくさん貰うのは仕方ないにしても、果たして、その割合は妥当だろうか。
「どうせ、こんな難しい財務は従業員には分からない。黙っておればいい」という経営者もあるだろう。
そして、従業員が無知であれば、小狡いカラクリにも永遠に気付かない。
「労働者は、働いて富をつくればつくるほど、ますますその富から見捨てられ、貧乏になる」と全てに言い切ってしまうことはできないが、悪いカラクリが存在すれば、そうなっていくだろう。

もちろん、能力に応じて出世し、並より上等な暮らしをしている人は少なくないだろうが、彼らだって会社を首になれば収入は途絶える。なぜなら、実質的に生産手段を有しているのは、会社オーナーであって、社員ではないからだ。
マルクスの考えは、そうしたシステムそのものを変えてしまおうという、現代人から見れば、かなり乱暴なものだが、当時の現状を鑑みれば、そう考えるのも頷ける。

わたしたちは、たまたま法も福祉も整った現代に生まれただけで、もし労働基準法も失業保険も育児手当も何もない時代なら、「システムそのものを変えない限り、労働者に未来はない」と考えただろう。また、そうした試みがあればこそ、現代人も様々な恩恵を受けられるわけで、先人達の試行錯誤は決して無駄ではなかったのだ(その過程で血生臭い事件も数多く起きたのは悲しいことだが)

私有化や共産主義の是非がどうあれ、労働者が自らの権利を自覚し、正しい知識を持つことが肝要。

マルクスの考え方は、

新しい生産力を獲得すると、人間は、かれらの生産様式を変える。生産様式を変えるとともに、かれらの社会生活の様式を変える。物質的生産力に応じて社会関係をうちたてる人間は、またこの社会関係にしたがって、もろもろの思想をつくりだす。こうして、増大していく生産力の運動に応じて、社会関係や思想も、歴史的に変遷し、運動していく。

たとえば、手作りアイスクリームの店が大繁盛すれば、もっと稼ぐために、店主は機械生産に切り替え、アイスクリーム工場を建設する。
すると、厨房で働いていた人の働き方も変わるし、ライフスタイルも変わる。
ある人は調理師から調理部のマネージャー(管理職)に出世し、ある人は「もう君の技術は要らないから」と切り捨てられる。
生産様式が変われば、個々の能力や性格とは無関係に生き方も左右される所以だ。
そして、大勢の働き方や生き方が変われば、考え方も変わる。
一見、私たちは自主的に新しい価値観を創出しているように見えるが、それと同じように、社会環境が人間に及ぼす影響も計り知れないものがある。
自分自身について考えることは、社会の仕組みを理解すること。
社会の仕組みを理解することは、自分の立ち位置を正しく把握することなのだ。

労働における人間の尊厳とは何か ~『経済学・哲学草稿』より

労働者にとっては、資本と土地所有と労働が切り離されていることが致命的なのだ。
賃金を決定する際の、これだけは外せない最低限の基準は、労働期間中の労働者の生活が維持できることと、労働者が家族を扶養でき、労働者という種族が死に絶えないことに置かれる。

通常の賃金は、アダム・スミスによれば、ただの人間として生きていくこと、つまり、家畜なみの生存に見合う最低限に抑えられている。

19世紀の分析は今もほとんどその通り。

そんな中、労働者=人間の尊厳とは何なのか。

近代国家においては、せめて飢えないよう、人間としての権利が尊重されるよう、生存権や福祉制度が敷かれているが、本当にそれで十分なのか。

システム上の綻びはないか。

今一度、検証してみよう。

人間への需要が人間の生産をきびしく帰省するのは、あらゆる商品の場合と変わらない。供給が需要を大きく上まわれば、労働者の一部は乞食や餓死へと追い込まれる。労働者が生存できるかどうかは、あらゆる商品が存在できるかどうかと同じ条件下にある。

そして、労働者の生活を左右する需要は、金持ちや資本家の気まぐれに左右される。供給量が需要を上まわれば、価格を構成する利潤、地代、賃金の一部が価格以下で支払われ、割に合わないその一部は生産に利用されなくなり、こうして市場価格は自然価格という中心点に引き寄せられる。

しかし、(1)大規模な分業がおこなわれている所では、労働者にとって、労働を別の方向に向けることはきわめて困難であり、

(2)資本家に従属せざるをえない関係にあるため、まずもって不利益をこうむるのは労働者だ。

たとえば「働き方」というスタイルが変わっても、賃金労働者の置かれた立場は変わらない。

就業時間が六時間に短縮したり、リモートワークが可能になったり、ボーナスが一ヶ月上乗せされたり、有給休暇の全消化が可能になったり、方法の部分が改善されても、解雇されたら収入が途絶え、生活が立ちゆかなくなる賃金労働者の宿命は同じ、ということだ。

そして、その宿命は、年収300万円でも、年収1000万円でも変わらない。

雇われ人である限り、そのリスクは生涯付いて回る。

その基本を理解しているか、いないかで、庶民の生き方も大きく変わる。

今はよくても、所詮、薄氷の上の暮らしに過ぎない、ということ。

大企業だからといって、生涯の安心が付いて回るわけではない、ということ。

etc

それはあなたが雇う側になっても同様。

相手の立場を考えられるか、否かで、社会の様相も違ってくる。

今マルクスを読み直すにあたって大事なのは、共産主義思想が世界を救うかどうかではなく、ここに綴られた分析をどのように活かすかということ。

その先に、制度をどうするか、業務をどうするか、具体的な方策を考えていけばいい。共産主義うんぬんは、結果として語られるもの。

労働者の社会的立場と権利 『賃労働と資本』 より

マルクスの真に偉大な点は、労働者の辛い、苦しいを、社会科学的に分析し、論理的に解決しようとしたことである。
なぜ、これほど心が苦しいのか、働いても働いても生活が楽にならないのか、それを資本主義的な生産システムから読み解いて、どこを、どう変えれば改善するのか、具体案を提示した。それが大多数の労働者の自尊心や権利意識や自尊心に火を付けたから、世界的な潮流となりえたのであって、もし、マルクスが机上の論議を繰り返すだけで、「ムカつく、許せん」で終わっていたら、こうはならなかっただろう。

1818年に生を受け、欧州の近代化と工業化を目の当たりにし、「なんか、おかしい」「どうにか救えないものか」という思いから、門外だった経済学を猛勉強し、世界の処方箋を編み出そうとしたマルクスの努力は、1849年、『賃労働と資本』に結実する。31歳。現代なら、まだ”若者”と呼ばれる年齢だ。

ここでは五つのパートに分けて賃労働と資本の本質が語られている。

1. 労働力の販売、賃金
2. 労働力商品の価格(賃金額)
3. 資本とは何か
4. 労働者階級の相対的な貧困化
5. 労働者の絶対的な貧困化

1. 賃金とは何か

賃金とは何か? と改めて問われて、即答できる人も少ないのではないか。

みな給料の額には敏感だが、それがどうやって、どのように決められるか、仕組みまで深く考える機会もないと思う。
「新入社員なら、こんなもの」「この業界なら、こんなもの」
その程度の認識ではないだろうか。

そこで、一度、考えてみよう。
自分の給料は、誰が、どのように決めているのか。
みな「それくらい」というけれど、本当に妥当か。
会社の収支はどうやったら分かるのか。
労働者にもそれを知る権利はあるのだろうか。

等々。

冒頭にも書いた「すべてを疑え」とは、そういう意味である。

2. 労働力商品の価格(賃金額)

”労働力”という商品の価格=賃金額は、何によって決められるか、考えたことがあるだろうか。
ファミリーレストランのウェイトレスの時給、日雇い作業員の日給、新卒サラリーマンの月給、まさか「法律でそう決まっているから」なんて思ってないよね?
たとえば、ファミリーレストランのランチタイム(12時~14時)には、毎日、100食のエビフライ定食(1000円)が売れるとする。単純計算すれば、2時間あたりの売り上げは10万円だ。そこから材料費や光熱費などを差し引いた分がレストランの利益になるわけだが、100食のエビフライ定食を売り上げる為に、時給1000円の調理師1人、ウェイトレス2人が、2時間、働くとしたら、人件費は6千円。さて、この6000円は妥当かどうか、という話だ。
当面、何の問題もなくても、近所にライバル店が誕生して、エビフライ定食を800円で売り始めたら、当然、レストランは競争面で不利になるし、レストランの売り上げが落ちれば、時給も影響を受ける。もっと競争が激しくなれば、「時給1000円は高すぎる。800円ぐらいでいい」という話にもなるだろう。業務内容やサービスの質は全く変わらなくても、調理師やウェイトレスの賃金=労働の価値は、状況に応じて変動するわけだ。

何を当たり前のこと……と思うだろう。

だが、冷静に考えれば、仕事の内容はまったく変わらないのに、1000円の時もあれば、800円の時もある。それって、おかしいんじゃない? 誰が労働の価値を決めるわけ? というのが、ここでの問いかけだ。

有名ファストフードの店員も、日本の時給と経済中進国の時給は全く違う。
業務内容もハンバーガーの値段もほとんど変わらないのに、どうして二倍も差がつくの?

そういう問題意識を持つことが、自らの立ち位置を理解し、現状の改善に繋がる

すべてを疑え。検証せよ。

本当にそれが正常なのか。何かおかしくないか、と。

3. 資本とは何か

日本も資本主義社会だが、何をもって「資本」というのか、考えたことがあるだろうか。
社長=資本家ではないし、年収1億ー資本家でもない。
逆に、小さなラーメン屋の店主でも、自分の土地と店舗を有して商いをしているなら「生産手段を有する者」であるし、まったく働かなくてもアパートの家賃収入で余裕で暮らせるなら、絶対的に賃労働が必要なサラリーマンとは立場が異なる。

ちなみに、小牧氏の著書には、次のような解説がある。

資本を有する資本家は、資本の一部である生活資料をもって、労働者の労働力を買い入れる。(手続きとしては、資本家は賃金をあたえて労働力を買い、労働者は、その賃金で生活費を手に入れる)

資本は賃金労働がなくては生存できない。資本は労働力を買い入れ、労働力を搾取しなくては破滅する。逆に労働者は、資本がやとってくれなければ破滅してしまう。

だから、資本と賃労働、資本家と賃労働者という生産関係があってはじめて、資本は資本として、労働者は労働者として、みずからを存続させることができる。

賃労働者が賃労働者であるかぎりは、かれの運命は、永久に資本に依存し、資本に隷従している。資本は、労働者を被支配・隷従の状態におく生産関係ないし階級関係をあらわしている。

この構造は今も変わらない。

仕事を辞めても生きていける人間が、この世にどれくらい存在するだろうか。

4. 労働者階級の相対的な貧困化 & 5. 労働者の絶対的な貧困化

このあたりも、ビジネスの仕組みや就労のスタイルがどんどん変わってきているので、マルクスの時代の考え方をそっくり適用することはできないが、「分業や機械の進展は、大量の労働者から職をうばい、かれらを失業者にさせてしまう。逆に、賃金の安い婦人や子供を家庭から工場へ引っ張りだす」という分析は将来も変わらないかもしれない。現代は、AI失業が言われているが、生産様式が変われば、新たな問題が生じるだけで、永久的な解決にはならないと思う。

『共産党宣言』 自らに宣誓。そして、世界へ。

マルクスと言えば『共産党宣言』。
それが全ての共産主義者のバイブルであるように思われているが、1847年にロンドンで開催された共産主義者同盟の第二回大会の後、本部の催促によって書かれた小冊子であり、現代風に喩えれば、庵野 秀明と岡田斗司夫の共著による『新世紀エヴァンゲリオン入門』みたいなものだ。
私もどんな大作かと書店に出掛けてみれば、ぺらっぺらの文庫本で、「これがかの有名な共産党宣言……」と書架の前で呆然とした覚えがある。

刊行された時、マルクスは30歳、エンゲルスは27歳。

こんな若い二人が、その後の世界を変えるような著作を次々に生みだしたのだから、さながら思想界のスティーブ・ジョブズであり、ジェフ・ベソスといったところ。
現代の若者がiPhoneやSNSに飛びつき、グローバル! イノベーション! と一斉に叫びだしたのと同様、当時の労働者層にとっては、私有財産の廃止! 我等に自由と権利を! と叫ぶのが、知的ファッションであり、歴史の必然だったのだと思う。

しかしながら、『共産党宣言』を紐解いてみれば、まずその熱意に圧倒される。
筆の運びに一点の躊躇いもなく、「共産主義思想が世界を変える」と信じて、世界中の労働者に力強く呼びかける様がありありと感じられる。
こういう文章は、権威や人気取りの為に書けるものではない。
思想の是非はともかく、大志と社会的使命感がなければ絶対に出来ないことだ。
それはさながら、長い戦いに向けた自己への宣誓であり、老獪かつ硬直化した世界に対する宣言でもある。
いろいろ差し引いても、パワフルで勤勉な若者だった事実は疑いようがないだろう。

また、同じ思想でも、マルクスが四十代なら、筆運びももう少し慎重になっただろう。
あるいは、妙に分別があって、面白みに欠けたかもしれない。

やはりこの書は20代でないと書けない。

それぐらい、希望と信念に充ちた、素晴らしい『読み物』ではある。

ただ、当時の思想をそっくり現代に持ちこむのは余りにも無理があるし、現代の先進国の庶民の暮らしぶりを見れば、マルクスもエンゲルスも肩をすぼめて苦笑するだろう。
それぐらい人類は学習したし、さらなる機械化、自動化で、人々の暮らしはいっそう便利になった。

だが、そう感じるのは、やはりそこそこの生活レベルを維持しているからであって、一度、転落すれば、三度の食事もままならず、貧困や過労で苦しむ人がいる現実は変わらない。それを自己責任で片付けるのは簡単だが、世の中には、どうあがいても上には行けない人も確実に存在して、古来から続く社会問題は何一つ根本から解決してないのが現状だろう。

では、どうするか……という話になると、これはカエルに下駄を履かせるぐらい難しい。現存する問題が資本主義的なシステムに起因すると分かっても、各部署、各職場、各々で対処して下さいというのが精一杯だろう。何故なら、世の大半は今の社会に馴染んで(賃金や待遇の問題があるにせよ)、革命を起こしてシステムを変えるより、自分も努力して高給取りを目指す方が手っ取り早いと考えるからだ。

それが現代においてはより実際的としても、問題だらけの19世紀、多くの労働者が苦しみ、まともに権利も保護されなかった時代、一心に解決策を考えた人が居た……という事実は、知っておいて損はない。

むしろ「デモも交渉もやるだけ無駄」「嫌なら辞めればいい」という風潮だからこそ、個々の自覚や努力に依るのではなく、社会全体で何ができるかを考えるのが大事ではないだろうか。

『共産党宣言』も、マルクスの思想も、今となっては合点がいかない部分もあるだろうが、
人間の崇高な意思や使命感がどれほどのことを成し遂げるか、若い時分に実感することは、たとえ資本主義社会で戦っていくにせよ、大きなモチベーションとなるはずである。

問題は実践であり、革命であるというマルクスのモットーは、現代の生き方にも通じるものがある。

何事も行動しなければ、一つも変わらない。

まとめ:現代の労働者には学ぶ機会と選択の幅がある

amazonのレビューにもあったが、

「共産」「Communism」という言葉に対する、世界的なアレルギーというものはすごい。
冷戦崩壊後、一気に資本主義化が進み、壮大な社会実験は完膚なきまでに終わったかに見える。
そしてマルクスは、時代遅れの産物として、社会的に葬られてしまっている。
しかし、今いろいろなことを言っている教授陣、それこそマルクスの影響を受けていない人間はいない。
その思想を読み解くために、マルクスの考えに戻ることは、決して時代遅れの作業ではない。
むしろ、形を変え品を変え、マルクスの思想は根っこで生きている部分が多い。
でなければ、なぜ今のこの時期に「蟹工船」が売れるのだろうか?(ビイハブ氏)

というのは本当にその通りだと思う。

今でも「共産主義」「マルクス」というだけで、味噌もくそも一緒くたにして冷笑あるいは批判する人があるが、その中身を見ても、今まで一度でも歴史書や哲学書と真剣に向き合ったことがあるのかと首をひねりたくなるようなものが多い。何故なら、本当に世界を見通す力があるなら、一つの歴史的思想として理解する部分が大きくなるからだ。

私も旧共産圏に移り住んで、つくづく思うが、第二次大戦後、ソビエトや東欧で行われてきた共産主義政策は、若きマルクスやエンゲルスが目指した理想とはあまりに違いすぎる。
それはバイブルが間違いというより、欲望に憑かれた人間が政治や産業に携われば、どんな理念もねじ曲がるし、神にも仏にも人間の性向は変えられない、といったところ。
そして、これからの時代は、政治・社会思想よりも、技術や情報にいっそう左右され、利害による結びつきが強くなるだろう。この流れがどこに至るかは分からないが、少なくとも、無権利時代に逆行することはないと思う。私たちは世界中で起きている様々な問題を瞬時にシェアし、共に考える手段を持ったからだ。

だとしても、一度はマルクスを読むべき理由というのは、何度も繰り返すように、労働者の置かれた立場を知り、労働の本質を理解し、自身も周りも幸福になる道を模索する為である。
何も知らなければ酷使されるままだし、逆に自分自身が同じ労働者を搾取するかもしれない。
雇う側、雇われる側、どちらに立っても、無知は人を不幸にし、社会全体から活気や慈愛を奪っていく。

人は労働を通して社会的存在になるの言葉通り、私たちはこの社会で役に立ち、自身の実力を認められて初めて、生きるにふさわしい自尊心を得ることができる。

それが資本主義であれ、共産主義であれ、労働者一人一人が社会に対する認識を高め、業務内容を見直したり、皆で助け合ったり、ささやかな革命を実践することが、マルクスの願いではないだろうか。

マルクスに関連する本

一度は読むべき本。
タイトルはいかめしいが、amazon換算では168ページほどの小冊子で、本の内容も注釈が大半を占めるため、半時間ほどで読めてしまう。
内容も、資本論やその他の経済論のように難解ではなく、万人向けに書かれた、ホームページの『わたしたちの理念』みたいな語調なので、中高生でも十分通じる。
まだ労働基準法も福祉制度も、ろくに機能しなかった時代、『(資本主義における)労働とは何か』を分かりやすく解説しており、世界中で支持された理由も納得がいくと思う。

共産党宣言 (岩波文庫) Kindle版
共産党宣言 (岩波文庫) Kindle版
「今日までのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である」という有名な句に始まるこの宣言は,階級闘争におけるプロレタリアートの役割を明らかにしたマルクス主義の基本文献.マルクスとエンゲルスが起草,1848年の二月革命直前に発表以来,プロレタリア運動の指針となった歴史的文書である.

マルクスの人物と思想の源流を知りたい初心者におすすめの一冊。
ユニークなイラストが満載で、まんが解説本のようにさくっと読める。
筆者は1980年のエドワルド・リウス (著), 小阪 修平 (翻訳)を所持。橋爪版は見ていません。

マルクス (FOR BEGINNERSシリーズ イラスト版オリジナル 3)
マルクス (FOR BEGINNERSシリーズ イラスト版オリジナル 3)
エドワルド・リウス (著), 小阪 修平 (翻訳) 1980年に刊行。
2010年に刊行された橋爪大三郎版とは異なるので、要注意。

マルクスの伝記は数あるが、佐々木氏の新書版が読みやすい。
マルクスに関しては、労働者の心配をするより、まずは自分の暮らしを何とかしろよ、、、と言いたくなるが、自身は貧困に陥っても、万国の労働者のために何かせずにいられなかったのだろう。
実人生を知ったら、別の意味で泣ける。

カール・マルクス ──「資本主義」と闘った社会思想家 (ちくま新書) Kindle版
カール・マルクス ──「資本主義」と闘った社会思想家 (ちくま新書) Kindle版
マルクスの理論はさまざまな悪罵を投げつけられてきた。だが、カール・マルクスその人の理論は、今なお社会変革の最強の武器であり続けている。本書は最新の文献研究からカール・マルクスの実像に迫り、その思想の核心を明らかにする。これまで知られてこなかった晩期マルクスの経済学批判のアクチュアリティが、今ここに甦る!

本を読んでも、今ひとつイメージが掴めない人におすすめしたいのが、若きマルクスとエンゲルスの奮闘を描いた伝記映画がおすすめ。
現代風に味付けされており、脚本も良い。
当時の過酷な労働環境もリアルに再現されており、「これが現実なら、見て見ぬ振りはできない」と納得がいく。
マルクスのベッドシーンだけは余計だが(^_^;

マルクス・エンゲルス
マルクス・エンゲルス
26歳のカール・マルクスは、その過激な言動により妻と共にドイツ政府から国を追われる。1844年、彼はパリで若きフリードリヒ・エンゲルスに出会う。マンチェスターの紡績工場のオーナーの子息であった彼は、イギリスのプロレタリアート(労働階級)について研究中の身であった。しかし階級も生まれも違うエンゲルスとの運命の出会いは、マルクスが構築しつつあった新世界のビジョンの、最後のピースをもたらすことになる。マルクスとエンゲルスはやがて、政治的暴動や動乱をかいくぐって、まったく新しい労働運動の誕生を牽引してゆく
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