子どもの許しはいつ訪れるのか ~親殺しと再生について

目次

子どもの許しはいつ訪れるか

 

この世には、子どもに恨まれっぱなしの親もいます。

自分でもそれが分かっているので、自分から子どもに歩み寄ることができません。

いつもひりひりと子どもの恨みを感じるので、何をしても自信がもてず、惨めです。

恨まれても構わないと開き直る人もあるかもしれませんが、心は正直です。

無理に自分に言い聞かせても、いつかは強がりも折れてしまうのではないでしょうか。

しかし、やり直すチャンスが永久に失われたわけではありません。

子どもだって、親を愛する機会を願っています。

辛い出来事が重なって、意固地になっても、子どもは子どもです。

心のどこかでは、親を許して、好きでいたいのです。

子どもの許しがいつ訪れるかは、親にも、子どもにも分かりません。

誠心誠意、謝ったところで許されるとは限らないし、親のせいで好きな人と結婚できなかった、希望の学科に進学できなかった、等々、悔恨を抱えていれば尚更でしょう。

だからといって、関わることを止めてしまえばそれまでです。

憎いなら、憎んでくれて構わないと、開き直るのも賢明とは言えません。

どうしても子どもと話しづらいなら、心の間口を開けておくだけでも有効だと思います。

「帰りたい時は、いつでも帰っておいで」という気持ちでおれば、子どもにも救いになるし、親自身の余裕にもなるからです。 

人間関係は、いつ、何がきっかけで改善するか分かりません。

頑なな態度は好転の機会を遠ざけるばかりか、心まで疲弊させ、生きる活力を奪ってしまいます。

親殺しと再生

河合氏は、第十一章『家族のうち・そと』の『死を通しての再生』という節で次のように書いておられます。

子どもが大人になるということは大変なことである。既に述べてきたように、子どもは真の大人になるためには、内面的な母親殺しや父親殺しをやり遂げねばならない。このようなことをいかに内的に遂行するにしろ、それは外的現実としての母親、父親とのかかわりにおいても何らかの苦闘を必要とするものである。個々の人間が両親とのかかわりで、そのようなことを経験することなく大人になれるように、昔の人々はいろいろな工夫をこらしてきたが、そのひとつに若衆宿というものがあると考えられる。

青年がある年齢に達して若衆宿にはいることは、取りもなおさず母親からの分離を意味している。そして、若者だけの生活をしつつ、時に社会の規範を破るような行為――といっても許容範囲内のものであるが――を集団でやってみる。そこで指導者に叱られたり、反抗してみたり、そのような繰り返しの中で、青年たちは集団で、うまく母親殺しや父親殺しに相当する行為を、それらのことをよくこころえた指導者や長老たちを相手に行うことになる。その中には、母親殺しや父親殺し、あるいは、子どもが死んで大人として再生することの象徴的な表現が儀礼としても、うまく取りこまれているのである。

近代になって、われわれはこのような儀礼や風俗を排し、各家庭内で両親が自分の子どもを育てるようになった。つまり、個人主義の考えが強くなるにつれて、個人が個人の責任において生きてゆくことを良しとするようになったわけだが、それはまた大変に難しいことであるという自覚も必要である。家族のそとの力を借りず、家族のうちだけで、子どもの成長を考えることは、個性的で面白く、やり甲斐のあるものだが、失敗すると、儀式として行うべきはずの父親殺しを、あるいは、子殺しを――再生の可能性を閉ざしたまま――家庭でやってしまうような悲劇も生じてくるのである。

「親殺し』という言葉も、心の作用も、親にとっては決して楽しいものではありません。

しかし、子どもが内面的に親殺しをやってのけるうちは救いがあります。現実の付き合いでも失敗し、心の中でも失敗すれば、子どもは自分が死ぬか、親を本当に殺すか、という心境になってくるからです。実際に殺さなくても「一生許さない」と決め込んで、完全に断絶してしまうかもしれません。

子どもが内面的な親殺しを達成するのは、家族に回帰する為でもあります。

「殺し」という言葉に相反するようですが、これ以上、親を憎みたくないから、心の中で親を打ち倒し、精神的にも社会的にも独立することを選ぶのです。

むしろ「一生許さない」と復讐を誓った子どもの方が、後々まで憎しみをこじらせ、双方の人生に多大な問題を引き起こすかもしれません。

河合氏も指摘するように、内面的な親殺しに挑んだ子どもは、自分自身も心の死を体験します。親に刷り込まれた価値観やセルフイメージを完全に白紙に戻して、新しい心の指針を再構築するわけですから、楽しいはずがありません。罪悪感も伴うし、もっと極端に傾いて、人生に躓く恐れもあります。それでもゼロ回帰を目指すのは、復讐や破壊が目的ではなく、心の死を通した再生だからです。その後、職場の上司や学校の先輩、優れた書物や社会的指導者といった『親的なもの』と出会い、良い影響を受ければ、それは回り回って親にも還元されます。やみくもに子どもの心を繋ぎ止めようとするより、好ましい結果が得られるのではないでしょうか。

親の言い付けに従うからといって、「いい子」であるとは限りません。むしろ真っ当な知性や感性が育っているからこそ、親の矛盾も目に付くし、現在の自分に疑問を感じて、より良い方向に進もうとするのです。親の目には裏切りにしか見えないとしたら、それこそ親子関係をこじらせている原因ではないでしょうか。

内面的な親殺しは、子どもの人生だけでなく、親の人生も変えます。

なぜなら、内面的な親殺しを達成した子どもは、一人の人間として親を理解し、支える器があるからです。

次のエピソード
子どもの許しはいつ訪れるのか ~親殺しと再生について 子どもが真の大人になるためには、内面的な母親殺しや父親殺しをやり遂げねばなりません。それは決して恨みや憎しみではなく、親の定めた規範や価値観を乗り越えることです。内面的な親殺しに失敗すれば、子供は「自分が死ぬか、親を殺すか」という気持ちに追い込まれ、精神的自立に失敗するのです。
次のエピソード
親の死を願っても、人生は変わらない 親の死を願っても人生は変わりません。親が変わることを願っても、親は死ぬまで変わりません。変えられるのは自分の気持ちと生き方だけ。無理に許す必要はありません。親の呪縛を逃れて、自分らしい人生を生き直してみませんか。
誰かにこっそり教えたい 👂
TOP
目次
閉じる