第一部– tax –
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ドストエフスキーという作家の全てが凝縮した『カラマーゾフの兄弟』~作者より
ドストエフスキー最後の大作『カラマーゾフの兄弟』は主人公アレクセイ・カラマーゾフに詳しい”書き手”の回想録として始まる。「これが蛇足だという意見には、私もまったく同感だが、なにせもう書いてしまったものであるし、このまま残しておくことにしよう」の一文に長文体質ドストエフスキーの性情が感じられる。 -
ラチーキンは裏切り者のユダ? 嫉妬が悪意に変わる時(12)
アリョーシャの秘めた好色と生きる意欲の源泉、ラキーチンの野心とカラマーゾフ一族に対する屈折した感情が見え隠れするスリリングな場面。江川卓氏の解説を交えて、幻の後編に描かれたかもしれない皇帝暗殺計画についてコメント。 -
性があるから人間らしく生きていける 『好色な人々』の真摯な生き様(14)
カラマーゾフの兄弟の登場人物は揃って『好色』とされるが、ドストエフスキーは性を揶揄するのではなく、人間から切り離せない生きる力として描いている。科学の発達した現代と19世紀の性に対する考え方についての考察。 -
淫蕩父 フョードル・カラマーゾフ 指針を欠いたロシア的でたらめさ (1)
不幸の元凶である淫蕩父は金勘定に長けた地方の小地主。愛も責任も持ちあわせない結婚をして、幼い長男ドミートリイを放り出す。右に左に迷走するロシア社会のでたらめさを体現するような人物で、非情というよりは、心の指針を欠いた俗物であるのがありありと解る。 -
慈愛と優しさの違いとは ~いやな臭いのリザヴェータと聖痴愚(ユロージヴイ)(15)
シュメルジィ(臭い)の呼び名をもつ白痴女のリザヴェータに対する町民の優しさと男たちの下品な欲望について、江川卓氏の解説を交えながら、スメルジャコフのルーツを説く。 -
現代は自由主義のご時世、汽船と鉄道の時代ですぜ! 時代の変化の先の『救済』とは (13)
社会の変化は人々の価値観やライフスタイルを否応なしに変え、それに付いていけない人は落ちこぼれて貧苦に喘ぐ。指針も見えず、救いもなく、混沌とした時代の中で神の教えにどれほどの意味があるのか、それよりもパンを寄越せのフョードル論。 -
『どうしてこんな人間が生きているんだ!』 なぜゾシマ長老は大地に頭を垂れたのか(11)
本作屈指の名場面。ドミートリイはなぜ「こんな人間が生きているんだ」と嘆き、ゾシマ長老は「お赦しくだされ」と彼に頭を下げたのか。その後の悲劇を示唆する内容で、非常にドラマティックな一幕の解説。 -
人類一般を愛すれば、個々への愛は薄くなる ~愛の実践には厳しさを伴う(9)
声高々に愛を説く人ほど身近な人間を愛せなかったりする。愛を実践することではなく、慈愛の人と賞讃されることが目的になれば、面倒を避け、愛するという本来の目的からかけ離れてしまうからだ。ゾシマ長老は行動する愛の厳しさを説く。 -
僧院の『薔薇の谷間』とフョードルの洞察力 田舎のオヤジは本当に道化なのか?(6)
父フョードルと長男ドミートリイの金の分配をめぐって一家で集うことになったカラマーゾフ家。高徳の僧ゾシマ長老に裁量を仰ぐ為、僧院に赴くが、さっそくフョードルの下卑た言動が始まる。ハチャメチャな未来を予感させる印象的な場面。 -
無神論と自己卑下と高い知性が結びつく時 ~人間界の代表 イワン (3)
イワンがニヒルになるのも無理はない。幼少時、人生一番最初にして、もっとも身近な『神』である父親に見捨てられたのだから。それも”口に出すのもはばかるような男”となれば、自分を恥じ、自身や周囲に対しても、自嘲的かつ冷笑的にもなるだろう。一番信仰を欲しているのは、他ならぬイワン自身ではないか。 -
愛の欠乏と金銭への執着 ~父に捨てられた長男ドミートリイの屈折(2)
父親に厄介払いされた長男ドミートリイは幼少時からたらい回しにされ、金で周囲の歓心を買う、無節操な人間に育っていく。自分の父親が金持ちの小地主と知った途端、実際以上の資産を受け継げるものと勘違いし、金勘定に長けた父親が自分を騙そうとしていると逆上したところから悲劇が始まる。 -
自分にも他人にも嘘をつけば真実が分からなくなる フョードルの実体とは?(7)
僧院でもふざけた態度を取り続けるフョードルに、ゾシマ長老は「自分自身に嘘をつけば、自分のうちにも周囲にも真実が見分けられなくなり、自分にも他人にも尊敬を抱けなくなる」と諭す。長老の洞察力とフョードルの真の姿が垣間見える場面。
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