① 淫蕩父と神の人・アリョーシャ 人類救済の真理を探究する《原卓也のカラマーゾフ随想》

フョードル イワン
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第一部 第一編 ある家族の歴史 / 第一章 フョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ
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カラマーゾフ家の三兄弟

田舎の淫蕩オヤジ フョードル・カラマーゾフ

長編小説『カラマーゾフの兄弟』において、物語の核となるのが、人柄卑しい地主、フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフである。

後に何ものかに殺され、三人の息子を悲劇に陥れる。

語り手いわく、父のフョードルは『およそ俗物で女にだらしないばかりか、同時に常識はずれの、ただ常識はずれと言っても自分の財産上の問題を処理するうえでは大いにやり手で、それだけしか能がないといった感じのするタイプの人間だった』。

これだけで、酒臭い、喋り口調も下品なオヤジ臭が漂ってくる。

善行をなすわけでもなければ、社会問題に関心を寄せるわけでもなく、ただ飲み、遊び、金勘定に明け暮れる。

周りに疎まれ、蔑まれても、およそ悔い改めることがない。

不信心な、淫蕩オヤジである。

三人の息子と神の人・アリョーシャ

そんなフョードルには三人の息子があった。

先妻の子、ドミートリイ。

後妻の子、イワンとアリョーシャだ。

二人の妻はいずれも早世し、三人の息子は他人の手で育てられる。

捻れた生い立ちもあって、長男のドミートリイは、激しやすい、粘着質の男。
(参考 愛の欠乏と金銭への執着 ~父に捨てられた長男ドミートリイの屈折(2)

次男のイワンは、頭は切れるが、冷笑系の無神論者。
(参考 無神論と自己卑下と高い知性が結びつく時 ~人間界の代表 イワン (3)

三男のアリョーシャだけが、奇跡的に善良で、信仰の道に進む。
(参考 幸福に必要な鈍感力・アリョーシャ ~鋭い知性はむしろ人間を不幸にする (4)

アリョーシャは、淫蕩父フョードルをして「とにかく俺は、お前だけがこの俺を非難しなかった、この世でたった一人の人間だと感じているんだよ」と言わしめた人物。

この一言は、アレクセイがフョードルにとって「キリスト的存在」であることを意味する。

自他とも認める道化で、好色で、およそ羞恥や改悛などとは全く無縁な人物ながら、一方で「俺はかねがね、俺みたいな人間のために、そのうちだれかが祈ってくれるだろうかと、そればかり考えておったもんだよ」というようなことを、修道僧を志す三男のアリョーシャに素直に打ち明けているのも興味深い。

アリョーシャと話した後、最後に涙を流す姿は、さながらレンブラントの『放蕩息子』の逆バージョン。

こんな卑しい人物にも「許されたい」「愛されたい」という感情が存在する点が、いかにも人間的で、信心の源泉という気がする。

『罪と罰』もそうだが、本作にも「神の在・不在」をテーマにしたエピソードが繰り返し登場する。
(参考 米川正夫・訳で読み解く ドストエフスキー『罪と罰』 の名言と見どころ

その中で、ドストエフスキーは「信じる者」「信じない者」、両者の心理をつぶさに描いているが、フョードルにしても、イワンにしても、結局のところ、『それ』を求めずにいない……というのが彼の回答ではないだろうか。

Rembrandt Harmensz. van Rijn - The Return of the Prodigal Son - Detail Father Son

アリョーシャの信仰と現実主義

自分が見たいものを見て、信じたいものを信じる

さて。

淫蕩父にイエス・キリストのように信頼されるアリョーシャだが、語り手に言わせれば・・・

わたしには、アリョーシャはだれにもまして現実主義者(リアリスト)だったような気がする。
もちろん、修道僧に入ってから彼は全面的に奇蹟を信じてはいたが、わたしに言わせれば、奇蹟が現実主義者を困惑させることなど決してないのである。
現実主義者を信仰に導くのは、奇蹟ではない。
真の現実主義者は、もし信仰をもっていなければ、奇蹟をも信じない力と能力を自己の内に見いだすであろうし、かりに反駁しえぬ事実として奇蹟が目の前にあらわれたとしても、その事実を認めるぐらいなら、むしろ自己の感情を信じないだろう。

≪中略≫

現実主義者にあっては、信仰が奇蹟から生まれるのではなく、奇蹟が信仰から生まれるのである。現実主義者にあっては、信仰が奇蹟から生まれるのではなく、奇蹟が信仰から生まれるのである。現実主義者がいったん信じたなら、まさしく自己の現実主義によって必ず奇蹟をも認めるはずである。

宗教をスピリチュアル・ブームと見立てて、現代風に置き換えてみよう。

一個30万円のパワーストーンが存在する。

教祖が息を吹き込め、一日三度、拝むだけで幸福になれる、奇蹟の紫水晶だ。

もし、あなたが単純に奇蹟を信じるなら、パワーストーンだけで、このスピリチュアル・マスターを盲信するだろう。

だが、現実主義者は違う。

そのパワーストーンが実際にどのように人を幸福にするのか、目で見て、確かめて、初めて信仰の対象とする。

「信じれば救われる」からパワーストーンを購入するのではなく、パワーストーンのご利益が本物だから心を許すのである。

そう考えると、アリョーシャは「最初に教会ありき」の人ではない。

聖書の言葉が、あるいは教会の存在が、実際に人を救う様を見て心を決めたのだ。

つまり、何の疑いもなく宗教にのめり込むお人好しではなく、「自分が信じるものを信じ、見るべきものを見る」という、極めてクールな知性の持主である。

それは本作を読み解くにあたって、非常に重要なファクターだ。

何故なら、アリョーシャが、田舎の信心深いお婆さんみたいなタイプなら、無神論者のイワンや激情家のドミートリイに丸め込まれて終わりだからである。

実は、カラマーゾフ家の中で、誰よりもクールな諦観の持ち主だからこそ、一家の大事に動じることなく、イカれた兄や父親の心の支えともなる。

人を救うには、善良なだけではダメで、物事を見極める知性が何よりも重要なのだ。

神の道を目指した動機

そんなアリョーシャが神の道を目指した動機は...

彼がこの道に入ったのは、もっぱら、当時それだけが彼の心を打ち、闇を逃れて光に突きすすもうとあがく彼の魂の究極の理想を一挙にことごとく示してくれたからにほかならない。
さらに、彼がすでにある程度までわが国の現代青年であったことも、付け加えてみるがいい。
つまり、本性から誠実で、真理を求め、探求し、信ずる人間であり、いったん信ずるや、心の力のすべてで即刻それに参加することを求め、早急に偉業を要求し、その偉業のためにならすべてを、よし生命をも犠牲にしようという、やむにやまれぬ気持ちをいだいている青年なのである。

アリョーシャの場合、人生に救いを求めるというよりは、持って生まれた知性と善性によって、求道者になったと言うべきだろう。

それがたまたまキリスト教だっただけで、感性が違えば、科学や哲学に進んだかもしれない。

『わが国の現代青年』というのは、もちろん、ドストエフスキーの生きた19世紀後半のこと。

『1917年のロシア革命以前』『産業革命の只中の、急激な工業化と庶民の不満』をキーワードに考えれば、青年の傾向は現代とさほど変わらない。

ただ一点異なるのは、現代は真理を追求するより、持論の正しさを証明することにウェイトが置かれ、皆で知恵を持ち寄って道を究める姿勢からは程遠いこと。

ネットで偉そうに発言しても、実際に行動に移す人は少ないということだ。

その点、本当に革命を起こしてしまった、ロシアの青年とは、かなり異なる。

もっとも、現代は『思想に命を懸ける』とか『愛する母国に身を捧げる』といったことは流行らず、大衆受けするやり方で、大勢の共感を得た者が世論を変えていくのが主流だが。

いずれにせよ、熱狂的で、純粋真っ直ぐは、いつの時代も若者の特性であり、アリョーシャもみずみずしい理想に燃える一人の若者である。

彼の求道に邪心はなく、彼の人生の問いに答えてくれる唯一の存在が、イエス・キリストだったのだろう。

無神論と社会主義

そんなアリョーシャも速やかに気付く。

真剣に思いめぐらして、不死と神は存在するという確信に愕然とするなり、彼はごく自然にすぐ自分に言った。

『僕は不死のために生きたい。中途半端な妥協は受け入れないぞ』

これとまったく同じことで、かりに彼が、不死や神は存在しないと結論をだしたとすれば、すぐに無神論者か社会主義者になったことだろう(なぜなら、社会主義とは、単に労働問題や、いわゆる第四階級(*1)の問題ではなく、主として無神論の問題でもあり、無心論の現代的具体化の問題、つまり、地上から天に達するためではなく、天を地上に引きおろすために、まさしく神なしに建てられるバベルの塔の問題でもあるからだ)。

無神論とは何ぞや。

よくある無神論者の10の主張とそれに対する答え方(1)

よくある無神論者の10の主張とそれに対する答え方(2)

『無神論』とは単純に神の不在を意味するのではなく、『人類を一つに束ねる絶対的真理など存在しない』というアナーキーな発想である。

喩えるなら、『神』とは、絶対的正義にして、永久不変の真理だ。

いつの時代、いかなる状況においても、「正しい」とされる人間社会の規範である。

ぶれない規範があるから、人は欲望を慎み、あるべき方向を目指す。

プロレスやサッカーで死者が出ないのは、そこに厳然たるルールが存在し、皆がそれに準じるからである。

だが、無神論はルールそのものを否定する。

フィールドでは、一人一人が自由な存在であり、個々の価値観に基づく。

その結果、鎌で相手を襲ったり、場外乱闘する者が現れても、止めることはできない。

かといって、集団の秩序を過度に重んじれば、個々の自由より公益が優先される社会主義となる。

ルールそのものを否定すれば、無神論者か、逆に社会主義者になる所以である。

神なしに建てられるバベルの塔

後述に注目しよう。

地上から天に達するためではなく、天を地上に引きおろすために、まさしく神なしに建てられるバベルの塔の問題でもあるからだ。

たとえば、学校で一番偉いのは校長先生だ。

校長先生が学校の方針を決め、生徒に指導する。

しかし、生徒が自主性を重視し、校長先生に生徒に従うことを求め(天を地上に引きおろす)、ルールも無しに学校自治を始めたらどうなるだろう。

「皆、髪型もスマホも、何でも好きにしていい。これからは生徒自身が学校生活を取り仕切る」となれば、それでも安全で快適な学校生活が保証されるだろうか。

授業中に音楽を鳴らしたり、気の向いた時に登校したり、各自が好き勝手に振る舞うようになれば、教育機関としての学校は崩壊するのではないだろうか。

その点、アリョーシャは、自らの規範を『神』に求め、それを否定することを良しとしなかった。

中途半端にルールを守るのではなく、何が真理で、何が正しいのか、どうすれば人は幸福になれるのか、根源的な答えを求めて、自身を修道に捧げた。

信仰とは神に自分を委ねることではなく、知性と想像力を働かせ、人類救済の真理を探究することだ。

そして、そんなアリョーシャだからこそ、淫蕩父フョードルさえも涙を流して、救いと温もりを求めたのだ。

これがこの作品の原点であり、一番重要なテーマだと思う。

(*1) 訳注
封建社会で第一階級は国王や大名、第二階級は貴族、僧侶、第三階級はブルジョアジーを中心とする平民、そして第四回旧はプロレタリアートを示す。

この投稿は、原卓也『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)をモチーフとした文芸コラムです。
より詳しい解説は『江川卓のカラマーゾフの兄弟』でどうぞ。訳文も読みやすいです。復刊リクエスト受付中。

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