⑦ 屁理屈と無神論 その理論は本心ですか? 《原卓也のカラマーゾフ随想》

スメルジャコフ カラマーゾフの兄弟
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第一部 第三編 好色な男たち / 第六章 スメルジャコフ
目次 🏃

スメルジャコフの屁理屈と無神論

⑥ 淫婦グルーシェニカと好色な一家 ~人間社会こそ最大の修行場 《カラマーゾフ随想》 原卓也訳の続きです。

呪われた出生 ~白痴のリザヴェータ

カラマーゾフの兄弟の中でも、きわめて理知的で、独特の世界観をもつ次男イワン。

秀でた頭脳をもちながらも、大学時代は貧困に苦しみ、父に棄てられた惨めな生い立ちから、『不死がなければ、善行もないわけであり、したがってすべてが許される』という極端な思想を持つに至る。(一般には、「神がなければ、全てが許される」で知られる)

そんなイワンに同調するのが、カラマーゾフ家の調理係スメルジャコフだ。

スメルジャコフの母親は、町でも有名な『神がかり行者』リザヴェータ・スメルジャーシチャである。
(江川卓訳では、「いやな匂いのリザヴェータ」、神がかり行者=聖痴愚と翻訳されている)

神がかり行者といっても、聖人ではない。

語り手いわく、「140㎝そこそこしかない、非常に小柄な娘だった。血色のいい顔は、完全に白痴の顔だったし、眼差しは柔和でこそあったが、少しも動かず、深いだった。一生の間、夏も冬も、粗末な麻の肌着一つに、はだしで通していた。それだけでなく、いつも地べたや泥濘で眠るため、いつ見ても髪は土や泥にまみれ、木の葉や、木片や、鉋屑などがこべりついていた」。

ある時、フョードルの一行が通りかかり、眠りこけているリザヴェータを見つけて、破廉恥な冗談を飛ばし始める。

調子に乗ったフョードルは、リザヴェータを女として扱える、むしろ、刺激的だと豪語し、周囲の笑いを誘う。

ところが、五、六ヶ月たつと、リザヴェータのお腹がみるみる膨らみ、腹の子の父親はフョードルだという噂が流れ始めた。

フョードルは必死で否定したが、産み月になると、リザヴェータがフョードルの家の庭に現れ、男児を産み落としたのである。

これがスメルジャコフだ。

彼は、カラマーゾフ家の忠僕グリゴーリィと老妻マルファによって育てられ、成人してからは、腕のいいコックとしてフョードルに仕えるようになったが、「およそ感謝の念を知らずに育ち、いつも隅の方から世間をうかがう、人見知りのはげしい少年になった。少年時代には、猫を縛り首にして、そのあと葬式をするのが大好きだった」という、ねじけた人間になる。

棄教すれば、罪もなくなる

ある時、忠僕グリゴーリィは、ルウキヤーノフの店に買い出しに行き、あるロシア兵士の噂を耳にする。

兵士はどこか遠い国境で、アジア人の捕虜となり、キリスト教を棄てて回教に改宗することを迫られたのに、信仰を裏切ることをいさぎよしとせず、皮を剥がれ、キリストを讃美し、たたえながら死んでいったという。

それを伝え聞いたフョードルは、「そういう兵士はすぐに聖者に祭りあげて、剥がれた皮はどこかの修道院に寄付すべきだ、そうすりゃ人がわんさと殺到して、賽銭も集まるしな」と不信心な事を口にする。

するとスメルジャコフは薄笑いを浮かべて、こう答える。

その立派な兵士の英雄的な行為が、たいそう偉大だとしましても、ですね。わたしの考えでは、かりにそんな不慮の災難にあって、キリストの御名と自分の洗礼とを否定したとしても、ほかならぬそのことによって苦行のために自分の命を救い、永年の間にそれらの善行で臆病をつぐなうためだとしたら、やはり何の罪もないだろうと思うんです」

*

「もしわたしがキリスト教の迫害者の捕虜になって、神の御名を呪うことや、神聖な洗礼を否定することを強要されたらとしたら、わたしは自分の分別でそれを決める完全な権利を持っているんですよ。なぜってこの場合どんな罪もないんですからね。 ≪中略≫

だって、わたしが迫害者たちに『いいえ、わたしはキリスト教徒じゃありません、自分の本当の神を呪っているんです』と言うやいなや、そのとたんにわたしは特に最高の神の裁きによって、ただちに呪われた破門者にされ、まるきり異教徒と同じように神聖な教会から放逐されてしまうんですからね。 ≪中略≫

わたしがただちに神さまに呪われたとたん、まさにその最高の瞬間に、わたしはもう異教徒と同じになって、洗礼も解かれ、何事にも責任がなくなってしまうんですよ」

一言で要約すれば、『棄教すれば、罪もなくなる』ということ。

全てのキリスト教徒は、罪を背負っている。

だが、もはやキリスト教徒でなければ、罪もなくなる。

いわば、究極の屁理屈だ。

元々、人間には、罪も、神もなく、信仰の対象としてキリスト教を選んだ時点で、罪も一緒についてくるだけの話。

信仰をすれば、罪もなくなる、という理屈である。

さらにスメルジャコフは続ける。

「どんな正義にもとづいて、あの世へ行ってから、信仰を棄てたことに対してキリスト教徒と同じように、責任を問われなけりゃいけないんですか、実際には信仰を棄てる前に、そう考えただけで、わたしは洗礼を剥奪されてしまっているというのに? わたしがすでにキリスト教徒でないとしたら、つまり、キリストを棄てることもできないわけです」

*

「自分で考えてごらんなさい。聖書にだって書いてあるでしょうに。せめていちばん小さな穀粒ほどの信仰を持っているなら、この山に向かって、海に入れと言えば、山はその命令一つで、少しもためらうことなく、海に入るだろうって。もしわたしが不信心者で、あなたがのべつわたしを叱りつけるほど信仰が篤いんだったら、ためしに自分であの山に向かって、海にとは言わぬまでも、うちの庭の裏を流れている、あの臭いドブ川になりと入るように命じてごらんなさいよ、そうすればそのとたんに、いくらあなたが叫んだところで、何一つ動こうとせず、何もかも今までどおりそっくりしつづけていることが、わかるでしょうから。あなただって本当の意味では信仰しておらずに、ほかの者をなんだかんだとりとばしているだけだってことじゃありませんか。あなただけじゃなく、現代ではだれ一人、それこそいちばん偉い人から、いちばんどん尻の百姓にいたるまで、文字どおりだれ一人、山を海に入らせることなぞできやしないんです。

*

この地上の住人がみんな不信心者ということになれば、はたしてその人たち全部を神さまが呪って、あれほど慈悲深いことで知られておいでなのに、だれ一人赦してくださらぬ、なんてことがあるものんでしょうか? だからわたしは、いったん疑ったとしても、後悔の涙を流せば、赦してもらえるだろうと期待してるんです」

信仰心で山は動かせない ~無神論とは何か

スメルジャノフの屁理屈はさらに続く。

篤い信仰心があるなら、「山に向かって海に入れ」といえば、そうなるはずなのに、現実には山はピクリとも動かない。

この世のどこを探しても、山を動かせる人間などないはずなのに、インチキではないか。

そして、地上がそうした不信心者で溢れかえったとしても、慈悲深い神なら、赦してくれるはず。命まで差し出すような罪悪感を抱く必要はまったくなし。

突き詰めれば、信仰など何の意味もなく、信じたい人が勝手にそう信じているだけ、神も罪もありはしないのだという、究極の無神論だ。

それに対して養父のグリゴーリィは次のように窘め、スメルジャノフはまたも屁理屈でやり返す。

「ここにいる俺たちみんなは、軽薄だから信心していないだけなんだ。そんな暇がないからだよ。第一、仕事がしんどいし、第二に、神さまが時間を少ししかくださらず、一日にわずか二十四時間しか割り振ってくださらなかったもんだから、悔い改めることはおろか、十分に眠る暇もありゃしない。お前だって迫害者の前で信仰を棄てるのは、信仰以外に何も考えることがないときだからの話で、本当はそういうときこそ信仰を示さにゃならんはずなんだぞ!」

「自分の信仰のために迫害を受けることをせず、いまわしいマホメット教にでも転向したとすれば、たしかに罪深いでしょうよ。でも、そういう場合なら、迫害を受けるまでにいたりもしないはずです。なぜって、わたしがその瞬間に山に向かって動け、この迫害者を押しつぶしてくれ、と言いさえすれば、山が動きだして、たちどころに迫害者を油虫みたいに押しつぶしてくれるでしょうし、わたしは何事もなかったように、神をたたえ崇めながら帰ってこられるはずですからね。

でも、もしわたしが、まさしくそうした瞬間にあらゆることを試みた末、もはや山に向かって、この迫害者どもを押しつぶしてくれと、わざわざ頼んでも、山が押しつぶしてくれなかったとしたら、どうしてその場合に疑いをいだかずにいられるでしょう。それも死というたいへんな恐怖を前にした恐ろしいときに、ですよ?

それでなくたってわたしは、天上の王国にはとうてい行きつけないことを承知しているのに(なにしろ、わたしの言葉で山は動かなかったんですからね、つまり、わたしの信仰なんぞ天国ではあまり信用してもらえないんだし、あの世でわたしを待っている褒美もたいしたものじゃなさそうですからね)いったい何のために、そのうえ、何の得にもならないのに、皮を剥がれなけりゃならないんですか?

とすれば、あの世にもこの世にも自分の利益や褒美が見当たらないために、せめて自分の皮くらい守ろうとしたからといって、なぜわたしが特に罪深いことになるんですか? だから、わたしは神さまのお慈悲を大いに当てにして、すっかり赦していただけるだろうという希望をいだいているんですよ……」

つまり、神の為に忍び、神の教えに身を捧げたところで、奇跡など起こりはしないし、我が身が救われるわけでもない。

なんでそんな実体のない神の為に、我慢したり、犠牲になったり、しなければならないのか、、、、という冷めた疑問だ。

その通りといえば、その通りだが、『山を動かす』というのは、あくまで喩えであって、実際の事象を指すわけではない。

教徒もそれを承知で信仰しているのだから、これもやはり屁理屈といえる。

そんなスメルジャコフの同志に見えるのが、同じ無神論者のイワンだ。

だが、イワンのスメルジャコフに対する評価は冷たい。

「僕を尊敬しようって気を起こしたんですよ。あれはただの召使いの、下種野郎です。もっとも、時期がくれば、最前線の肉弾になるでしょうがね」

フョードルもまた、スメルジャコフの底の浅い屁理屈にうんざりしながら言う。

「もし神があるなら、神が存在するなら、もちろん俺は罪があるし、責任もとるけど、もし神がまったく存在しないんだとしたら、お前のとこの神父たちなんぞ、もっとひどい目に会わせてやらなけりゃ。なぜって、やつらは進歩をはばんでいるんだからな。 ≪中略≫
ロシアじゅうのああいう神秘主義を一挙に全部ひっとらえて、ばか者どもをすっかり正気づかせるために、閉鎖しちまいたいくらいだ」

このように、屁理屈を連ねるだけの知力をもちながらも、卑しい母親から生まれたせいで、イワンやフョードルとの間には厳然たる格差がある。

どれほど頭のいいところを見せても、召使い以上のものにはなれず、そのコンプレックスが、スメルジャコフをいっそういじけた人間にする。

「スメルジャコフはイワンに感化された」という解釈もあるが、実際は逆で、自らが運命の神となり、裕福な一家に復讐したのではないだろうか。

一般に、イワンもスメルジャコフも無神論者と解釈されるが、イワンの根底には愛も信仰心もあり、スメルジャコフのように、最初から茶化して、否定しているわけではない。

本当は誰よりも高徳でありながら、不条理な現実を見るうちに、「信仰は人を救わない」と絶望し、冷笑系に転じただけで、本物の無神論者であり、アナーキストはスメルジャコフの方だ。

無神論者といえば、「神など存在しない」「神は人を救わない」といった否定論と思われるが、突き詰めれば、「万人に共通の真理も正義も存在しない」「個人は好き勝手に生きればいい」という究極の個人主義である。

個人主義が救われないのは、神を信じないからではなく、自分以外に恃みにするものがなく、最後は自分とうい壁に頭を打ち付けて、そこで終ってしまうからだろう。

創世記 ~最初の日にはどこから光がさしたのか?

宗教史について教え聞かせるグリゴーリィに対し、十二歳になったスメルジャノフがせせら笑いながら言ったこと。

神さまが世界を創ったのは最初の日で、太陽や月や星は四日目なんでしょ。だったら、最初の日にはどこから光がさしたんですかね?

おるおる、こういうヤツ。

クラスに一人か二人は必ず居る。

先生や学級委員の言うことに屁理屈で返しては、議論の進展を妨げるタイプ。

そして、生真面目なグリゴーリィは、ついカッとなって、「ここからだ!」とスメルジャノフの頬を激しく殴りつける。

それから、スメルジャノフに一生の持病となる癲癇の発作が起きるようになる。

ちなみに、スメルジャノフの台詞は、旧約聖書の冒頭の冷やかし。

『始めに神が天地を創造された。地は混沌としていた。暗黒が原始の海の表面にあり、神の霊風が大水の表面に吹きまくっていたが、神が「光あれよ」と言われると、光が出来た。神は光を見てよしとされた。神は光と暗黒との混合を分け、神は光を昼と呼び、暗黒を夜と呼ばれた。こうして夕あり、また朝があった。以上が最初の一日である』

最初の光の出所は……確かにその通りだ。どこから光が差したんでしょうね(^_^;

アイキャッチ画像  Smerdyakov By theTieDyeCloak

この投稿は、原卓也『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)をモチーフとした文芸コラムです。
より詳しい解説は『江川卓のカラマーゾフの兄弟』でどうぞ。訳文も読みやすいです。復刊リクエスト受付中。

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