何を信じ、どう貫くか リュック・ベンソンの映画『ジャンヌダルク』と正しい信仰心

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『現代は信じられるものがない。だから何かを信じぬいた少女を描きたかった』とリュック・ベンソン監督。聖女ジャンヌ・ダルクは本当に神の声を聞いたのか。思い込みの激しい少女、それは傲慢であるという斬新な解釈のもと、劇的に描く歴史スペクタクルをテーマにした映画コラムです。

この記事は最後までネタバレを含みます。未見の方はご注意下さい。

新作『ジャンヌ・ダルク』を完成させた 映画監督リュック・ベンソンの言葉。

質問: なぜ世紀末のヒロインに、 ジャンヌ・ダルクを選ばれたのですか?

ベンソン: 現代は、信じられるものがない。だから、何かを信じぬいた少女を描きたかった。

公開当時のシネマ情報より

目次

リュック・ベンソンの【ジャンヌ・ダルク】について

映画のあらすじ

リュック・ベンソンの『ジャンヌ・ダルク』は、SFエンターテイメント・アクション『フィフス・エレメント』で、世界を救う”第五の要素”、リールーを体当たりで演じ、世界を魅了したミラ・ジョボヴィッチ(近年のファンには『バイオハザード』のイメージが強いかもしれません)を主役に迎え、聖女ジャンヌ・ダルクを「何かを信じ抜いた少女」として描いた異色の歴史ドラマです。

スレンダーなボディと天性の美貌を併せ持つミラ・ジョボヴィッチが、ここでは少年のように断髪し、銀色の甲冑に身を包んで、大国の思惑に翻弄される少女をドラマティックに演じています。

ジャンヌ・ダルク(字幕版)
ジャンヌ・ダルク(字幕版)
14世紀にフランスの霊能者たちは予言していた。ロレーヌの森の乙女が奇跡をもって国を救うであろうと…。15世紀、イギリスとの戦争に明け暮れるフランスに突如現れた17歳の少女、ジャンヌ・ダルク。「神の声を聞いた」というジャンヌは、国王の元を訪れ自分にフランス軍を指揮させてくれるよう懇願する。果たして少女に国が救えるのか?疑問視する周囲をよそ目に、烈火の如く激した彼女は、劣勢のフランス軍を率いて奇跡的な勝利を収める。だが栄光も束の間、彼女には過酷な運命が待ち受けていた…。

現代のジャンヌ・ダルク ~何かを信じ抜いた少女

広く知られるように、ジャンヌ・ダルクは、フランス対イングランドの百年戦争において、フランス軍に勝利をもたらし、シャルル7世の戴冠に貢献しました。

しかし、ブルゴーニュ公国軍の捕虜になった後、身代金と引き換えにイングランドに引き渡され、カトリック教会の異端審問にかけられます。

両国の思惑から、『異端者』とみなされたジャンヌは、わずか19才で火刑に処されました。

その後、ジャンヌ・ダルクの功績は再評価され、カトリック教における聖人に列せられています。

が。

実際のところ、それが本当に「神のお告げ」だったかどうかは誰にも分かりません。

ジャンヌ一人が勝手にそう思い込んでいただけかもしれないし、フランス軍を勝利に導くために、プロパガンダ的に利用された面もあるでしょう(我が軍には神の娘が付いているぞ、みたいに)。

証拠となる文書が存在するわけでもなければ、それを証明する超能力があるわけでもない、いわば『自己申告』です。

その点にフォーカスし、「何かを信じ抜いた少女」として現代風に演出したのが、リュック・ベンソン監督です。

本作には、 『ジャンヌの良心』(いわば神そのもの)ともいえる、幻想の僧が登場します。(ダスティン・ホフマン)

僧は、最後の最後に、囚われのジャンヌの前に現れ、

お前は自分が見たいものを見て、自分が信じたいものを信じた。それは傲慢だ

とジャンヌの罪を咎めます。

映画でも、草むらに落ちていた剣を「天からの授かりもの」と思い込み、猪突盲信するジャンヌの姿が描かれていますが、「もし、それが真実ならば、自分は聖なるお告げを聞いた」と過信すること自体が罪ですよね(キリスト教においては)。

そして、そうした「思い込み」は、どんな人間にも当てはまるものです。

目の前の事象を、自分の都合よく解釈し、「彼はまだ自分を愛している」とか「あの人は私を憎んで嫌がらせをしている」とか、自分勝手な思い込みの中で暴走し、感情をまき散らして、周りを振り回す人も少なくないと思います。

その点、ジャンヌはフランス軍を勝利に導き、何も悪いことはしてない――と言えば、その通りですが、カトリックの教義においては、神のお告げを聞いたかのように自惚れること自体が罪なので、それゆえに火刑になっても仕方がない、というのがリュック・ベンソンの解釈です。

キリスト教に馴染みのない者から見れば、なぜそれが火刑に相当するほどの罪なのかと感性を疑いたくなりますが、神でない者が、神の名を語り、歴史を動かすほどの力を得れば、世界を滅ぼすことにもなりかねないですね。

その点で、普通の人間が、神の智恵を得たかのように自惚れること自体が大罪であり、その罪は身をもって償わなければならない、というのが、カトリック的な世界観なのだと思います。

ただ、リュック・ベンソンは、そんなジャンヌにも一定の理解を示していて、たとえそれが幻想であっても、何かを信じ抜く人間は、歴史を動かすほどに強いということを、ジャンヌの勇姿を通して物語っています。

たとえ、それが狂信的なものであっても、「信じ抜く気持ち」は、死をも乗り越えて、奇跡を起こします。

肝心なのは、正しい信仰をもつこと。

そして、信じると決めたら、信じ抜くこと。

「誰かが肩を推してくれたから」とか、「皆が成功すると言ってるから」とか、そういう信じ方は脆い。

それこそ、ジャンヌのように、骨の髄から「神のお告げを得た」と信じ込み、戦火のにおいても、それを貫き通せるほどの信心がなければ、到底続きません。

現代において、それほどの信じられる「何か」がある人の方が珍しいのではないでしょうか。

信じる気持ちも、一歩間違えば、自分も、相手も滅ぼし、時には世界も巻き込みかねません。

一方で、何も信じなければ、何をも成すことは出来ず、何の為に生きているかも分からなくなるでしょう。

映画のジャンヌは、自惚れの罪によって火刑に処されますが、信じる気持ちは、負け戦も勝利に導くほどのパワーを持つということです。

*

ちなみに、ジャンヌが「信じ抜いたもの」は何だと思いますか?

私は「神の声」ではなく、「私は神の声を聞いた」という自分自身だったと思います。

この世で最強なのは、信仰心のある人間。

正しい信仰と信じ抜く気持ちがあれば、不可能も可能になるのではないでしょうか。

初稿: 1999年

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