人生を無駄にするということ / 心が人生を作る / 失敗は成就への道 ..他 #ミニエッセイ

気ままに書き留めたミニ・エッセイです。コンテンツは目次を参照して下さい。

目次

言い訳の中に人生を埋もれさせてゆく

幸せを求める気持ちは皆同じ──特別な人など何処にもいやしない。

心にいろんな誤魔化しを強いながら、私たちは事実から目を背け、代替品ばかりを求め歩く。

「気付き」こそ真実に至る第一歩であるにもかかわらず、言い訳の中に人生を埋もれさせてゆく。

なぜ私たちはそれほどまでに自分自身に対して──真の希求に対して──臆病なのだろう。

私たちが真に求めているものは、そんなにも遠いのだろうか。

一生かかっても、巡り会えないほどに──?

間違ったやり方で、私たちは私たち自身をいっそう追い詰め、討ち滅ぼしてしまう。

目を持ちながら、盲いた人間の何と多いことか。

「人生を無駄にする」ということ

人間、必ずしも幸せになる必要はないけれど、何が自分にとって幸せか、真剣に考えることは決して無駄ではない。

なぜなら、「自分が本当に欲しているもの」「自分に本当に必要なもの」が見えてくるからだ。

「自分のことは、自分自身が一番よくわかっている。私は望み通りに生きている」と思っていても、傍から見れば、的外れな方向に走っていることもある。

本当は負けを認めるのが怖いのに、相手を落とすことに必死になっているとか。

本当は愛し愛されたいのに、「男は必要ない」とか「結婚は自由を奪う」とか、もっともらしい理屈を付けて、自分にも周りにも言い聞かせているとか。

そのまま押せ押せで人生を終わっても損はないかもしれないが、自分の本音から目を反らし、自分も周りも欺く生き方は、どこかで無理が生じる。

生きるのが辛いとか。

頑張ってるのに苦しいとか。

何を得ても空しいとか。

何を得ても満たされない嫉妬と競争心 人間としての誇りはどこへ? 』にも書いているように、本当に欲しいものから目を背けて、誤った方向に突き進むと、後に残るのは悔いだけだ。

「人生を無駄にする」ということは、負けて、劣って、終わることではない。

本当の自分を理解しないまま、言い訳にうもれて、「自分のものではないような」人生を生きてしまうことだ。

たとえ人の羨むような成功を手に出来なかったとしても、自分が本当に欲するものに向かって真っ直ぐに生きられた人は幸せである。

初稿 2011年2月20日

なぜ人は失敗を恐れるのか

私の土壇場の切り札は、いつも『一生分の勇気』だ。

ほんのちょっと勇気を出すことで、いろんな価値あるものを手にしてきたからである。

中谷彰宏さんの著書にこんな言葉がある。

転ぶから痛いのではない。 転んだ所を人に笑われるから痛いのだ』。

失敗そのものは、大きな意味を持たない。

すぐにまたやり直すか、別の方法を考えればいい。

前に進めば、痛みも消える。

だが、人に笑われた屈辱は、いつまでも心に残ったりする。

失敗を実際以上に恐れる人は、失敗よりも、何よりも、恥をかくことを恐れているのだろう。

だが、恥や嘲笑を恐れる限り、望むものは手に入らない。

なぜなら、望みよりも、自分のプライドの方が大事だからである。

『虎穴に入らずんば、虎児を得ず』という。

虎穴なんてものは、案外、入ってみれば、虎の子以外、何も無いものである。

プライドばかり高いと、岩陰も怪物と見間違う。

心が人生を作る

楽しい人生も、つらい人生も、結局は、自分の心が作り出しているのだと気付いた時、私たちは、意外なほど簡単に心の持ち方を変えることができるだろう。
『幸せになろう』と決心すれば、幸せになれる。
望まないから、与えられないのだ。

今、目の前で起きていること――
嫌なことも、苦しいことも、結局は、自分の受け止め方次第で、どんな風にでも変わっていく。
嫌いな人から言われたちょっとした一言を、何でもかんでも悪意に取っていたら、その人のやること、なすこと、すべてが悪意に見えてくる。
また、自分の中に少しでもひねくれた部分があれば、どんな好意も素直に受け取ることはできないだろう。
そうして、人は、自分が「愛されない」「ツイてない」と嘆く。
本当は、疑いに凝り固まった心が、愛と幸せを遠ざけているのに。

人の誤った思い込みほど恐ろしいものはない。
それは、その人自身のみならず、関わる人まで、歪め、苦しめる。
好意は悪意に取って代わり、善人は盗人に成り下がる。
これでは、どんな光が差しても、闇に呑まれてしまう。

そうやって、貴重な人生を、せっかくの好意を、ドブに投げ捨て、踏みにじってしまう前に、一度、心の持ち方を改めてみよう。
幸せが欲しいなら、幸せを感じられる心に、原盤を書き換えてみよう。
そうして、今まで闇だ、闇だと思っていたものに、透き通った、明るい光を照らせば、それは闇ではなく、幸せの種であることに気付くかもしれない。

私たちの誤った思い込みは、愛も幸せも遠ざける。
そうならない為にも、私たちは改めて自分に知らしめるべきだ。
『心が人生を作る』――と。
愛に満ちた心は、愛に溢れた人生を作り、希望に輝く心は、輝かしい未来を引き寄せる。
美しい心の絵には、いつだって、天国の光が満ちあふれているものだ。

初稿 2002年8月13日

失敗は成就への道

物事が成就するプロセスには、当然、マイナスの出来事も生じる。

『幸せな結婚』に到る道には大失恋が、『世紀の大発見』に到る道には数え切れないほどの失敗が付き物のように、そのプロセスには、思いがけないハプニングも生じる。

一見、そこで、願いは断たれたかのように感じることもあるだろう。

しかし、大きな流れの中で見れば、それはほんの通過点に過ぎない。

それを永遠の闇、永遠の失敗と思い込まない限り、どんなハプニングも、成就への道標でしかない。

ハプニングというのは、
「そのやり方では、目標にたどり着けませんよ」
「少し、違う角度から考えてみませんか」
という、神様からのメッセージである。

読み間違えなければ、かえって、成功に近づく契機となる。

そこで永遠に挫けるのは、悪い方にばかり考えてしまうからだ。

これも、成就への道標と思えば、ハプニングはむしろ有難い学びの場となる。

すべては、最終的には、ハッピーエンドに導かれているのだから、悪い方ばかりに考えず、幸せへの手掛かりとすればどうか。

そうすれば、自分でも思ったより早く願いが成就するかもしれない。

成就のプロセスには、障害もある。

障害があるからこそ、より早く、より幸せに、目標に到達することができる。

思わぬハプニングが生じた時、大切なのは、具体的な解決策ではなく、まず、その出来事をいかに捉えるかだ。

それを不運と思えば、道もそこで止まってしまう。

だが、学びの場と思えば、道はそこからなお続く。

そして、続く先は、輝かしい幸せだ。

全ての物事は、ハッピーエンドへと導かれている。

前向きな心だけが、目指すゴールにたどり着くことができる。

初稿 2002年8月13日

「自分」にこだわりすぎ

人は、自分に理解できるものしか理解できない。

先の、小学生惨殺の動機も、私たちには理解できないが、ある種の人間には理解できるはずだ。

『Common Sence』 などというものは、実際はどこにも存在しないのかもしれない。

在るのはただ『自分に理解できるもの』と『そうでないもの』だけで、私たちは自分の感覚によってそれをふるい分けているに過ぎないのではないだろうか。

だとすれば、私たちが日常的な裁きに使う物差しは、一見、正義のように見えて、実際は主観に凝り固まったファシズムかもしれない。

それが「排他」であるということに気付きもしいないほど、私たちは自身の価値観に固執し、自身の尺度によって全てを都合良く裁き、ふるい分け、自身の世界を保守することに躍起になっているのかもしれない。

違いを受容する──

それだけが自分と他との境界線を無くする。

ところで、私たちがそれほどまでに固執する「自分」というやつに、いったいどれほどの価値があるというのか。

みな、あまりに「自分」にこだわりすぎていないか。

初稿 2001年6月16日

心の平和を得るために

人間の孤独や苦悩の本質について考えたとき、私が真っ先に思い浮かべるのは、『エゴ』だ。

誰だって、自分が可愛い。

できれば、自分だけは傷つきたくないと思う。

そうして、いつしか心が自身の事でいっぱいになった時、私たちは利己的な欲望の塊になる。

自分を満たすことしか考えなくなる。

「つらい」「淋しい」「苦しい」・・これらのネガティブな感情は、すべて魂の餓えからくるものだ。

そしてその餓えを作り出しているのは、他でもない、自分自身である。

にもかかわらず、私たちはその事実に気付きもしなければ、認めようともしない。

いつでもその解決策を外に求め、不幸の犯人探しに明け暮れる。

その本質を理解しない限り、私たちは何を得ても、何を変えても、心の平和を手に入れることはできないだろう。

プライドの高い人ほど、恥辱や嘲笑を恐れる

私の土壇場の切り札は、いつも『一生分の勇気』だ。

ほんのちょっと勇気を出すことで、いろんな価値あるものを手にしてきたからである。

中谷彰宏さんの著書にこんな言葉がある。

転ぶから痛いのではない。 転んだ所を人に笑われるから痛いのだ

失敗そのものは、大きな意味を持たない。

やり直したり、新しい方法を模索するうちに、失敗の痛みなど、たちどころに消えてしまう。

人が真に恐れているのは、失敗を笑われることだ。

恥辱や嘲笑こそ、人を萎縮させる最大の要因である。

昔から、『虎穴に入らずんば、虎児を得ず』というが、恥をかくことを恐れる人は、虎の子を手に入れ損なうことより、虎に尻を囓られて、周りに大笑いされる方がうんと怖いのだろう。

だが、そのように虎穴の前で逡巡しておれば、ますます機会は遠ざかり、若い時間も失われてしまうのではないか。

プライドの高い人ほど、恥辱や嘲笑を恐れる。

才能の欠如よりも、プライドの方が、より失敗につながるものだ。

くだらないことでも、考えてみる

昔、私が、主治医の先生に言われた言葉。

先生が気にしていたのは、身体より、むしろ心の方だった。

ある日、別室に呼び出されて、30分ぐらい、こんこんと説教された。

先生のことは大好きだったけど、心の半分では「何、言ってんだろ」って。

結局、分かってもらえない──そんな風に感じていた。

そんな先生が、一番強調して仰ったのがこれ。

「くだらない、と思うことでも、考えてみろ」

多分、私のつまらなそうな顔を見て、話半分にしか聞いてないことを察したのだろう。

実際、そうだった。

「問題はそこじゃない」と自分では思っていた。

だから、先生に何を言われても、「くだらない」としか感じなかった。

でも、そんな「くだらない」と思うことの中に、問題解決への道があるかもしれない。

案外、「くだらない」という気持ちは、問題から目を背けたいだけかもしれない。

「くだらないから、考えない」

それでは一つのキッカケを失う。

「くだらない」と思うことでも、正面から向き合って考えてみたら、今まで気付かなかった答えが見つかるかもしれない。

「くだらないことでも、考えてみろ」というのはそういう意味だ。

君が辛い時、たいてい、問題の本質を見ていない。

見てないというよりは、見たくないし、考えたくもない、というのが本音だ。

そこに目を向ければ、自分のダメなところや、弱いところが丸見えになって、ますます自分が嫌いになってしまうから。

でも、本当に、「くだらない」で終わっていいのだろうか。

見るべきものを見ないまま、リクツで押し切っていいのだろうか。

自分で自分の弱さを受け入れないうちは、何を考え、どう行動しても、苦しい。

苦しいのは、君や社会が間違っているからじゃない。

問題から逃げ回っているからだ。

「くだらないと思うことでも、考えてみろ」

案外、そこに、本当の答えが眠っているかもしれない。

人は他人の苦しみを糧に成長する ~宇野千代に寄せて

最近、宇野千代に凝っている。

自分も95歳になった時、こういう文章が書けたら、どれほど素敵 だろうと思う。

千代さまが今の私の悩みを詩ったら、『ホッホッホッ』とお笑い になるだろう。

私がつくづく幸運に感じるのは、自分が生まれる前に、こういう 生き方をした人が、その生き様をちゃんと文章に残してくれていることだ。

今よりももっと世間の目が厳しかった時代に、よくまあ、これだけ正直に生きられたことと思う。

他人はその生き様を見て、立派だ、素敵だと褒めそやすが、生きている本人は必死だ。

文章にできるのは、心のほんのの一部であって、水面下には言葉にならないほどの苦痛や葛藤が渦巻いている。

だから、他人の修羅のような人生を、作品として読むことはあっても、真似しようとは思わない。

ある意味、「傍観者」だから、立派だ、素敵だと、素直に褒められるのかもしれないが。

なにはともあれ、千代さまに感謝。

水面下のドタバタを決して表に出さないのが、生き上手えあり、幸せ上手である。

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