外国の中の『私』 ~日本人のアイデンティティ

中学生ぐらいになると、突如として、「私は何者なのだろう」とアイデンティティに目覚めることがあります。

私はいったいどういう人間なのか、何のために生まれてきたのか、何のためにここにいるのか・・というような事に、とことんこだわって、そこから一歩も動けなくなってしまうのです。

納得する答えが得られないために未来を絶望視したり、ありきたりの答えを押しつけようとする大人に逆らってみたり、アイデンティティの追求は決して幸せな過程ではありません。

それでも探し求めれば、いつか自分だけの『何か』に巡り会える、何のために生を受け、何のために生きていくのか、いつかおぼろげに分かる日が来る、それが私なりの結論です。

若い子たちは無意味に悩んでいるのではなく、心が若いからこそ悩んでしまうのであり、またそうした悩みの時期なくして本当の成熟はあり得ないと私は思っています。

さて、一通り試行錯誤の時期を終えて、それなりに心が落ち着いた今、「アイデンティティ」などという言葉は自分史の中でとっくに使い古された言葉になっていたはずが、最近、よく考えるんですね。「『日本人である私』って、何だろう」って。

今更、「自分探し」もないけれど、やはり外国語に囲まれ、日本とは違う料理を食し、その国独特の生活スタイルや習慣の中で生きていると、どうしたって「日本人である私」について考えずにいません。

私は、現住国の人々からどう見られているのだろう、私たちが金髪さんを見て、「あっ、ガイジンや」と一線引くように、こちらの方も「日本人って変わってるな」という好奇の目で見ておられているのだろうか、あるいは、『郷には入れば郷に従え』で、日本の習慣を捨ててポーランド人になりきることを求めておられるのだろうか、それとも日本人ならではの何かを期待しておられるのだろうか・・いろいろ考えてしまいます。

何でも出会った頃は新鮮で、何をしても喜ばれ、何をしても感心されるものですが、時が経ち、そこに居るのが当たり前になると、愛嬌だけではやり過ごせない事も生じてくるでしょう。
今でこそ文化や歴史に触れる深い会話はありませんが、いつかそうした話題になった時、私はどんな風に『日本』を表現すればいいのか、今のところ、これというアイデアはありません。

世の中には、非常に柔軟な頭の持ち主もいて、どんな場所、どんな掟の中へもスルリと入り込んでしまいます。私のように、いちいち立ち止まってしまう人間には、なかなか真似できない事ですね。

かといって、物事に批判的な訳ではなく、自分とは違うものを受け入れたり、自分を表現したりするには、やっぱり『自分』というものについて考えずにいないのです。
言うなれば、自分のカラーが「赤」だと分かった上で、青色や黄色とコーポレートしていく、そんな感じです。

私の実感からいうと、アメリカ人でも日本人でも欧州人でも人間であることに大きな変わりはない、だけど、身に染みついた習慣や価値観、民族気質みたいなものは変えようがない、という感じです。だからこそ、理解があり、争いがあるのですが。

自分の中の決して変わらない「日本」、たとえそれが外国社会の誤解や無理解をもたらそうと、それを重んじることは、相手の中の「祖国」を重んじることでもあるという気がします。

そして、外国社会に入ったからといって、自分自身をしゃにむに適応させるのではなく、自分と相手との違い、どうしても分かり合えない部分をしっかり受け止めながら、自分にとても相手にとってもより良い共存の道を見出していくことが、「外国で生きる」ということではないでしょうか。

初稿 2003年1月

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