子供が「死にたい」と言った時、親はどう対応すべきか ~自殺志願者に接する場合の覚え書き

なぜ子供は「死にたい」と言うのか

自殺について考える時、「大人の自殺」と「子供の自殺」は分けて考えなければなりません。

大人の自殺は、「お金がない」「仕事がない」「安心して住める場所がない」「頼れる家族も知人もない」「健康でもない」等々、社会的要因が非常に大きなウェイトを占めます。

失業、離婚、孤絶、破産といった社会的要因が心の危機を引き起こし、自死へと駆り立てる場合、要因を取り除くには、医療、福祉、行政、司法といった、複数分野の連携プレーが求められ、励ましや慰めでどうにかなるものではありません。具体的に生活を保障し、就職や入院、補助金申請や社会参加など、非常に多くのプロセスを必要とします。

それに対して、子供の自殺は、生活がかかってない分、比較的簡単に環境を変えることができます。心の負担となっている塾やお稽古をやめる、いじめグループから引き離す、学外の児童支援サークルに参加する、家族のライフスタイルを見直す(親の勤務や食生活など)、等々。

親の虐待や生活苦が引き金になっている場合は、親の人生も含めて支援が必要な為、そう簡単にはいきませんが、両親の経済状態も安定し、目立って社会的な問題もない場合、家庭内の工夫で変えられることも多いので、大人の自殺に比べると、まだ手を差し伸べやすいところがあります。

言うなれば、周りの大人が本気を出せば、助けられる可能性は非常に高いわけですね。

大人の自殺は社会的要因が深く関わってくる為、仕事を変えるのも、借金を返済するのも、そう簡単にはいきませんけども。

そこで考えて欲しいのが、大人の「死にたい」と子供の「死にたい」は微妙にニュアンスが違う、ということです。

大人の場合、「死にたい」という言葉は、かなりの部分で社会生活に根ざしたものであり、過労、失業、離婚、病気など、自分の努力でどうにも変えられない要因がトリガーとなって、人生に絶望し、自己無価値感や自責の念から自己崩壊に向かいますけど、子供の「死にたい」は、どちらかといえば、SOSに近いものがあるんですね。

子供は大人と違って処世の知恵もありませんし、自分の感情や思考を表現する為の語彙も欠いています。

語彙の少ない二歳児が、「お腹が空いた」も「自分でやりたい」も「眠たい」も、何でもかんでも「ママの馬鹿」か「イヤ!」で表現して、泣いてばたばたするしかないように、小学生や中学生の子供も、大人みたいに、ぺらぺら言葉で表現する術を持ちません。

とりわけ、今はコミュニケーションを苦手とする子供が増えていますから、納得いかない時も、矛盾を感じた時も、「うざい」「ムカつく」「死ね」の三語しかなかったりします。

大人に比べて、まだまだ思考力や語彙に乏しい子供が、自分の辛い状況や救いを求める気持ちを、どうやって言葉に表せばいいのか。

そこで便利な言葉が「死にたい」です。

この一言に、怒りも、絶望も、苦痛も、全てを集約することができます。

大人の「死にたい」がとことん自己消滅に向かっていくのに対し、子供の「死にたい」は周りの大人に対して開かれている部分があります。

いわば、「今すぐ、この生き地獄から、僕を救い出してくれ」という悲鳴です。

考えてもみて下さい。

多くの子供にとって、『世界』といえば、学校と家庭だけです。そこに塾やスポーツクラブが加わることもありますが、基本的には学校と家庭の延長、いわば、どこにも逃げ場はなく、辛くても、苦しくても、そこに居続けなければなりません。

大人みたいに、いざとなれば転職する、離縁する、という選択肢もなく、さながら鎖に繋がれた奴隷みたいに、親や教師や周りの人間関係に束縛され続けます。

そんな子供が、死ぬほど辛いことがあった時、どうやって逃げ出せばいいのでしょう?

18歳の子供なら、荷物をまとめて、家を飛び出すこともできますが、8歳や10歳の子供なら、そうはいきません。

一歩家を出て、親の保護から離れたら、今夜寝る場所も、明日食べる物もなくなってしまうのですから。

どれほど理不尽に感じても、周りの大人に従う他なく、学校にも通い続けなければならない。

そんな状況で、死ぬほど苦しいことがあった時、あなたならどう考えるでしょう。

『死にたい』

死んで、苦しみから逃れたい。

死ぬ以外に、この生き地獄から逃れる方法はない。

それが全てではないでしょうか。

子供が「死にたい」と口にするからといって、決して命を粗末にしているわけではありません。

命が大事なことぐらい、幼稚園児にも分かります。

にもかかわらず、「死にたい」というのは、「逃げたい」に他なりません。

では、何から逃げたいのか。

その原因さえ突き止めて、子供の生活から取り除けば、多くの物事はたちまち好転するのですよ。

にもかかわらず、「子供が死にたいと言ってる。命の大切さを教えなければ」みたいな道徳論にもっていくから、本当に解決すべきことがいつまでたっても解決されず、しまいに行き場をなくして、マンションの屋上から飛び降りるのです。
子供が自殺するのは、周りの大人に失望しているから

根本的に、子供が自殺するのは、「親を含めて、周りの大人に失望しているから」という理由が大きいと思います。

「助けて」と訴えた時、身を挺して守ってくれる親ならば、子供だって、何でも相談するし、親に解決しようという姿勢がある限り(実際に行動してくれる)、頑張ろうという気持ちにもなります。

そうではなく、周りの大人に対する不信感があると、絶望しか感じません。

喩えるなら、冬山に一人、取り残されるようなものです。

助けを求めても、親も、教師も、何もしてくれない。

諭されようが、励まされようが、明日も学校に行って、また嫌なグループと顔を合わせなければならないとしたら、どんな元気な子供も心が折れて、死を選びます。

命が大事と分かっていても、もう死ぬ以外に、地獄から逃れる方法がないからです。

本当に助ける気持ちがあるならば、一日も早く原因を突き止め、子供の生活から取り除くしかありません。

いじめが原因なら、いじめっ子から引き離す。

学業が原因なら、勉強方法を見直し、負担を取り除く。

家庭環境が原因なら、夫婦関係やきょうだい関係を見直して、居心地のいい家庭にする。

その具体策を素っ飛ばして、命が大事とか、いつか良いことがあるとか、あれこれ言って聞かせても、何の説得力もありません。

言うなれば、足の裏に釘が刺さったまま、痛み止めのクリームを塗っているのと同じです。

痛みの原因である釘を取り除かない限り、問題は決して解決しません。

慰めや励ましが功を奏するのは、その後です。

子供が周りの大人に失望して、死ぬ以外に解決策はないと思い詰める前に、とにかく具体的に行動することが肝心なんですね。

『子供が死んで行くときに「死ぬほど苦しい」と親に言えない親であった』(加藤締三の言葉)

とはいえ、ある日突然、子供に「死にたい」と打ち明けられたら、どんな親も動揺しますよね。

しかし、先に述べたように、子供の「死にたい」は大半がSOSであって、大人の自殺みたいに、人生にも自分自身にも完全に絶望しきったような孤独感や自己喪失感とは少し異なります。

親を含めて、周りの大人に「死にたい」と打ち明けるのは、まだどこかで大人を信頼して、助けを求めている証拠です。まだ生きたい気持ちが残っているから、助けを求めるのです。

心理学者の加藤諦三氏の言葉に、

『子供が死んで行くときに「死ぬほど苦しい」と親に言えない親であった』

というものがあります。

自殺者の遺族には申し訳ないけれど、やはりそれが言えない環境だったのでしょう。

「死ぬほど苦しい。死にたい」と口にした時、全身全霊でいたわってくれるとか、自分の代わりにいじめっ子をやっつけてくれるとか、勉強の辛いのを助けてくれるとか、相手に期待と信頼があれば、何なりと打ち明けるでしょう。

それができなかった、ということは、やはりどこかの過程で、周りの大人に失望するような出来事があったのでしょう。

「言っても無駄」「どうせ分かってくれない」

夫婦関係も同じですよね。

夫にどれほど子育ての悩みを訴えても、「専業主婦のくせに、何言ってんの」と逆に馬鹿にされたら、もう二度と悩みを打ち明けたりするものかと思うでしょう。

自分の悩みを軽く受け流されたら、期待と信頼を失うのは、子供も同じです。

言い換えれば、子供が「死ぬほどつらい。死にたい」と打ち明ける間は、いくらでも改善のチャンスがあるわけですね。

『死ぬな』と言うより、『好き』と言って欲しい(公共広告)

それでも、突然、子供に「死にたい」と言われたら、とっさにどう返事すればいいか分からないですよね。

死にたい人への返事として、一番いいなと思ったのは、だいぶ前の公共広告の標語で

『死ぬな』と言うより、『好き』と言って欲しい

というものです。

もしかしたら、「死ぬな」と言うより、「好き」と言って欲しい、だったかもしれません。
(うろ覚えで申し訳ない)

どちらにしても、一番効果的なのは「好き」という言葉だと思うのです。

大勢にいじめられても、勉強で馬鹿にされても、自分を好きでいてくれる人がいる。

これほど大きな支えも二つとありません。

「好き」と直接口にしなくても、好きな気持ちを伝える方法はいっぱいあります。

子供の様子がおかしいなと感じたら、子供の大好きな餃子やラーメンをいっぱいこしらえる。

ファミレスでお腹いっぱいデザートを食べる。

近場でも、楽しく遊べる場所に連れて行く。

「可愛いね、いい子ね」と毎日口にするだけでも、子供の表情はまったく違います。

表面は素知らぬ風を装っても、やはり親から「可愛いね、いい子ね」と言われたら、子供は百万馬力を得た気分になるもの。

その上で、悩みを聞き、具体的に行動すれば、どれほど大きな安心感を得られるか知れません。

子供に限らず、「好き」という言葉は、どんな傷も癒やす万能薬だと思っています。

「今さら」とか、「言わなくても分かるだろう」みたいなケチな気持ちは捨てて、こんな時だからこそ、照れずに、毎日言ってあげて下さい。

問題解決に向けて、具体的な道筋を示す

もう一点、大事なのは、問題解決に向けて、具体的な道筋を示すことです。

漠然と「何とかなる」と励ましても、子供は不安なだけ。

いつ、何が、どのように変わるのか。

誰が、どんな事をしてくれて、どんな効果が期待できるのか。

たとえ問題解決に時間はかかっても、来週、来月、来年と、先の道筋が分かっておれば、耐えられることもたくさんあります。

みな、妊娠中、きつい思いをしても、「長くても40週まで」という目安があるから耐えられるわけで、いつ受診しても、「まあ、いつかは生まれるから」の一点張りで、この先どうなるのか、いつ楽になるのか、何も示してもらえなかったら、発狂するでしょう?

子供の悩みもそれと同じ。

「来週には担任教諭に話してみるね」

「それで駄目なら、転校も考えるね」

「来年はパパの仕事も楽になって、あなたと過ごす時間も増えるからね」

具体的に道筋を示して、その通りに進んでいけば、たとえ今、目の前が真っ暗でも、どこか希望を持つことができます。

不安な時こそ、未来の見通しが何よりも大切です。

死にたい子供は優しい素質を持っている

自殺願望など一度も経験したことのない親にしてみたら、「死にたい」と言う子供は弱虫で、耐性が無いような抱くかもしれません。

しかし、自分の欲求不満から、友だちを傷つけたり、大人に悪態をついたり、公共の物を壊したりするような子供に比べ、自分の中に苦しみを抱え込み、「もう死んでしまおう」と思う子供の方が、感受性が豊かで、周りを思い遣る気持ちに溢れているところがあります。

いわば、優しいから、自分の胸に全てを背負ってしまうんですね。

そういう子供は、死ぬほどの苦しみを克服し、良い方にスイッチが入れば、将来、「人の痛み苦しみが分かる、素敵なお嫁さん」になったり、「面倒見がよくて、懐の深い上司」になったり、立派な大人に成長する可能性が大です。

現に、子供時代の辛い経験から、教育や医療福祉に貢献したり、支援活動を始めたり、立派に成長した方は少なくないですよね。

自殺を考える子供は駄目な子供、なんてことは絶対にありません。

原因さえ取り除けば、本来の魅力や能力を発揮して、輝き始める子もたくさんいます。

中学校ではスクールカーストの下っ端で、イジメられっ子だったのが、高校に行ってから、部活のヒーローになったり、大学卒業と同時に玉の輿にのったり。

子供なんて、まだまだ人生のスタート地点に立ったところ。

そもそも、人生とは何か、自殺が何を意味するのかさえ、よく分かってないはずです。

「死にたい」というのも、学校生活や暮らしの中で自然と覚えた言葉であって(これだけ社会問題になれば、嫌でも耳に入ってきます)、「誰か助けて」「この場から消えてなくなりたい」という気持ちの代弁なのですから、大人の自殺と同じように考えて、「命の大切さを分かってない」とか「頑張れば、乗り越えられる」とか、責めることだけは避けて欲しいと思います。

いきなり「生きろ」は荷が重い。こんな一言で一日を繋ごう

子供が「死にたい」と言い出しても、慌てず、騒がず、非難せず。

大人に対してなら、こういう声かけができますね。

「誰でも、そういう時がありますよ。きっと今が一番辛い時なんですよ」

「誰でもそんな状況に陥ったら、死にたいと思いますよ。苦しくて当然です」

「自分のこと、弱い人間だとか思わないで下さいね」

「○○さん、今でも十分闘っておられますよ。すごいですよ」

「ここは誰もが弱音を吐いたり、挫けたりしていい場所です。立派な人間になろうなどと思わないで下さい」

「私ね、○○ちゃんの、そういうところが好きなのよ(死ぬほど思い詰めてしまうデリケートなところが)」

いきなり「生きろ」は大人にも荷が重いです。

とりあえず、今日と明日、生きてみる。

その後、一日ずつ、引っ張っていく。

克服とは、その積み重ねです。

死にたい子供に「死ぬな」と言うのは、鼻と口を両手で押さえるのと同じこと

「僕、死にたい」

それぐらい自由に言わせてあげよう。
親にも言えないなら、誰に打ち明ければいいの。
死にたい子供に「死ぬな」と言うのは、鼻と口を両手で押さえるのと同じこと。

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子供が「人生いや」と言った時。
子供に人生の意義や面白さなど分からなくて当たり前。
無理に「良く思え」と迫るより、「そういう時もあるよ。
大人でもイヤになるぐらいだし」と共感すれば安心する。
人生の面白さなど、ゆっくり時間をかけて探せばよい。

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小さな生き物や花や果物を育てることが救いになることがある。
自分という存在を頼ってくれるものがあり、自分の力が相手の役に立つと実感すれば、子供の中にも自尊心が芽生える。
可哀想と庇うより、子供の力を周りに役立てる方が、立ち直りも早い。

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『自分なんて居ない方がいい』という子供の悩みに対して。
求める愛と承認が得られないから苦しんでいる。
「なぜ居なくなったら困るのか」を理屈で説明するより、その子にしか出来ない役割を与えて、褒めて、ありがとうを言ってあげる方がいい。

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小さな生き物や花や果物を育てることが救いになることがある。
自分という存在を頼ってくれるものがあり、自分の力が相手の役に立つと実感すれば、子供の中にも自尊心が芽生える。
可哀想と庇うより、子供の力を周りに役立てる方が、立ち直りも早い。

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自殺志願の方に接する場合の覚え書き:水谷修先生の動画を参考に

※ このパートの元記事は、2008年6月3日 ~メールマガジン『コラム 子育て・家育て』です。

先日、「夜回り先生」で知られる水谷修さんのドキュメンタリー番組とTV講演をYoutubeの動画で見ました。

水谷先生は、私が日本を出てから一躍世間に知られるようになったので、TV番組も著書も拝見する機会がなかったのですが、最近、どなたかがYoutubeにアップされたので、ようやく見ることが叶いました。

動画は下記URLにアップされています。(分割されているので。順々に辿って下さい)
もし削除されていたら、このタイトルで動画検索してみて下さい。

【水谷修・夜回り先生のTV講演 夜にさ迷う子供たち】 

https://www.youtube.com/watch?v=Qq1etmynQo0

【水谷修・夜回り先生のTV講演 10代の性について】

さすが13年も教育現場に身を置いて、体当たりで子供たちと関わってこられた方だけに、言葉が「本物」です。

とやかく言う人もあるでしょう。

「自ら夜の世界に落ちたような自堕落な子供をそこまで美化するな」と。

でも、批判する人は、そうなった子供達の内面について、どれくらい知っているのでしょう。

水谷先生も「好んで夜の世界に落ちる子はいない」とおっしゃっていますが、今がどんなに悪くても、オギャアと産まれた時から、覚醒剤やろう、売春やろう、と思い続けてきたわけではないですからね。

では、どの時点でそうなったか……と考えると、やはり親の顔が浮かびますし、「本人が自堕落なだけ」では片付けられないものがあります。

「R30」というTV講演の中で、水谷先生は、

「少年に問題が起きると、学校は何をやっているんだ、国は、県は、その家庭はと、みんなが言う。でも、そう言うあなた達は、子供たちの為に何をしてきたのですか?」

と問いかけます。

私も、この言葉は、とても大きいと思うんですよ。

今の世の中、「我が子さえ勝ち組に残ればそれでいい」「自分の家族さえ幸せならそれでいい」という利己主義が、どこかまかり通っていないでしょうか。

「補導されるような子供も、その家庭も、うちの知ったことじゃない」

「私たちには関係ない」

「ほら、見ろ、お前も勉強しなかったら、あんな風に落ちこぼれるんだぞ」

口では、思いやり、社会への貢献を説きながら、無駄に見える人間や物事は切り捨てることも同時に教えていないでしょうか。

私たちすべてが「夜回り」することは出来ないけれど、「なぜそうなったのか」を話し合うことはできますよね。

それは何でもない「家庭の話し合い」かもしれないけれど、子供の心には深く刻まれることもあります。

そして、その子が、いつか「一歩手前の子」に出会った時、

「弱いヤツは、落ちこぼれて、勝手に死ねばいい」

と突き放すか、

「どうしたんや、何があったんや、何か力になれることないか」

と言うかで、相手の将来も大きく違ってくるでしょう。

それも「夜回り」に匹敵する大きな家庭の力だと私は思うのです。

また、Part2の動画の中で、水谷先生は言います。

「子供が、毎日怒られ続けたら、

『私なんか居ない方がいいんだ。

 私が居ることが、親に迷惑をかける。
 
 死んだ方がいいんだ』
 
こんな優しい子がいますか?!」 

この意味、わかります?

本来、子供だって、怒っていいんです。

親の態度に疑問や不満を感じるなら、それをストレートにぶつけて、問いただしていいのです。

でも、それが出来ない。

なぜ?

親を愛しているから。

自分のことで、苦しめたくないから。

親だから、尊敬しないといけない。

親だから、憎んではいけない。

親だから、否定してはいけない。

悪いのは、私。

私が悪いから、親に怒られるのだ――。

そうして、本来、親に向けるべき怒り、憎しみ、不満、不信といったものを、自分の中にドップリため込んで、「私はダメな子供なんだ、生きている価値もないんだ」と責め続けた果てが、『自殺』です。

親に怒りをぶつけて傷つけることより、自分を傷つける=『自殺』を選ぶのです

そういう心理状態の子供に「命の尊さ」なんか説いても、酷いだけです。

だって、この子たちは、今、この瞬間、自分が存在している、そのこと自体に耐えられないからです。

『自分で自分の存在する価値を見出せない』

いわば、親に豊かな自己肯定感を与えられることなく育ってきた子供にとって、「生きる」ということは地獄でしかありません。

彼らにとって「生きろ」という言葉は、

「いつまでも、その地獄で、もがき苦しめ」

「とりあえず死ななきゃいい。でも、その後のことは、知ったことじゃない」

と言われているのも同じなんですね。
存在するだけで苦しいから「死にたい」と言う

私も、高校生の頃から、友達の「死にたい」という告白をしばしば耳にしてきました。

真夜中に突然電話をかけてきて、

「もう死んでしまいたい」

と泣いた子もいれば、普段の何気ない会話の中で、

「私なんか生きていても、しかたがないのかもしれない」

とつぶやいた子もいます。

「これを飲んだら、いつでも死ねる」と睡眠薬を持ち歩いていた女子高生もいましたし、首に包丁を突き刺した子もいました。

また、大人でも、患者さんの自殺に遭遇したことがあるし、あらゆる人から見放され、自暴自棄になって、死ぬほど飲み食いした挙げ句、孤独死した人も少なくありません。

「自殺なんて一度たりと考えたことがない」という人にはピンとこないかもしれませんが、この世には、「生きて存在すること」にまったく意味を見出せず、苦しみぬいた挙げ句に、プツンと糸が切れたように死んでしまう人がたくさんいます。

それは「弱いから」でもなく、「自堕落だから」でもない。

生きていることが、苦しいから。

言い換えれば、誰にも愛されず、必要ともされず、一番身近な人間からも見放されて、心の拠り所を無くしてしまった人間の、『ついに力尽きた姿』なのです。

かといって、「死にたい」と口にする人が、右手にロープ、左手にカミソリを持って、今すぐ本気で死ぬつもりで言っているか――といえば、必ずしもそうではありません。

「死にたい」という言葉は、一つの表現句。

つもりつもった苦しみや、行き場のない思いを「死にたい」という言葉に託して語っているケースが大半ではないかと思います。

人が「死にたい」という時、それは「死ぬほどの苦しみを分かって下さい」というSOSであると同時に、明日を生き抜く力を求めている瞬間でもあるのです。

だから、子供に限らず、大人でも、誰かが「死にたい」と言ってきたら、

「そうか」

と、まずは受けとめてあげて下さい。

驚かないで下さい。

逃げないで下さい。

茶化さないで下さい。

「死の願望」は「生きたい」という気持ちでもあります。

人がそれを口にする時、「死ぬ方法」ではなく、「明日を生きぬく力」を探しているのだということを、まずは理解してあげて下さい。

相手が勇気をもって死にたい気持ちを打ち明けたことを褒めてあげよう

次に、その人が勇気をもって打ち明たことを褒めてあげて下さい。

「打ち明けてくれて、ありがとう。とても勇気がいったでしょう」

「よく言葉にして言ってくれた。本当にありがとう」

なぜかと言えば、それを人に告白するのは、大変勇気がいるからです。

ネットの掲示板のように、どこの誰かも分からない匿名で告白するのと違い、現実の人間関係においてそれを口にするには、打ち明ける方も多大なリスクを覚悟しなければなりません。

もしかしたら、嗤われ、軽蔑されるかもしれない。

親友だと思っていた相手に、冷たく突き放されるかもしれない。

その為に、今以上に絶望的な気持ちになるかもしれないのです。

にもかかわらず、あなたという人を選んで、打ち明けてくれた。

その勇気にまずはエールを送ってあげて欲しいと思います。

それは、その人にまだまだ「問題を解決する能力がある」という証だからです。

今、死ぬほど苦しんでいるにもかかわらず、死にたい気持ちをカミングアウトできたその強さにこそ、周りは希望をもつべきだと思います。

それから後は、ひたすら聞き役に徹すること。

間違っても、説教しないこと。

命を粗末にしたのは本人ではなく、周りの人間

死にたい人に言ってはいけないこと。

※「命を粗末にしたらダメだ。がんばって生きないと」

命を粗末にしたのは、本人ではありません。

その人を粗末に扱ってきた人間がいるから、本人も粗末に思い込むのです。

がんばって生きられるのなら、誰も「死にたい」などと思いません。

がんばり続けて、今にも力尽きそうだから「死にたい」と思うのです。
「肉体の死」も「心の死」も重さは同じ

※「この世には生きたくても生きられない人がいっぱいいるんだぞ」

「肉体の死」も「心の死」も重さは同じです。

死ぬほど苦しんでいる人は、心がすでに死にかかっています。

「心で生きたくても生きられない人」にも苦しみを叫ぶ権利はあります。
死にたい人に説教するのは、高熱の患者に山歩きさせるのと同じ

※「みんな辛くても、頑張って生きているのに。甘えるんじゃない」

努力するには、ある程度、心の健やかさが必要です。

上記の言葉は、40度の高熱を出している人に、「お前もこの山道を登れ、みんな努力して歩いているじゃないか」と言っているのも同じです。

「死にたい」人の心は、高熱で死にかかっている病人と同じです。

まずは、熱を下げて、健康な状態に戻すのが先決です。
相手は「死にたい気持ち」も含めて、ありのままの自分を受け止めて欲しいと願っている

人が「死にたい」と口にする時、相手は「死にたい気持ち」も含めて、ありのままの自分を受けとめて欲しいと願っています。

「受けとめる」ということは、

責めない。

裁かない。

変えようとしない。

たとえ、相手の間違った思い込みが見えても、今はそれを口にすべきではないのです。

相手が「死にたい」と打ち明けた時は、問題解決へのまさに第一歩を踏み出したところですから、周りが解決を急ぐと、かえって仕損じるのです。

そして、一番重要なのは、相手に後悔させないこと。

「打ち明けてよかった」と実感してもらうことです。

なぜなら、そこから、自分への信頼回復、そして他人への信頼回復が始まるからです。

皆さんも、誰かに打ち明け話(愚痴、悪口も含めて)をした後、

「やっぱ、言わなきゃよかった」

と後悔したことないですか。

相手に打ち明けたこと、その事自体が、逆に心の重荷になって、後で苦しくなってしまうリバウンド現象です。

でも、相手からフォローがあったり、いつもと変わらない態度で接してもらうことで、

「ああ、言ってよかった、心が軽くなった」

と実感するのではないでしょうか。

死ぬほど思い詰めている人は、もともと、人に悩み苦しみを打ち明けるのが苦手という要素を持っています。

それだけに、打ち明けられた人間の態度の如何によって、それは死への引き金にもなってしまうのです。

でも、人に悩み苦しみを打ち明けることのメリットを実感してもらえたら、それは大きな自信につながります。

つまり、

死ぬほど苦しもうと、欠点だらけであろうと、自分は愛されるに値する人間だということ。

たとえ、人に弱み苦しみを見せても、嫌われたり、見放されたりするわけではないということ。

これが実感できれば、相手は自分を肯定し、自己の尊厳と信頼回復への大きな一歩を踏み出すのです。

「死にたくなったら、いつでも話してね」

とはいえ、聞いた方が、「死なないで」とストレートに言うと、相手には重すぎることもありますから、

「○○ちゃんが居なくなったら、淋しいよ」

「元気になったら、また一緒にカラオケに行こうよ」

「今、何か見たいビデオとかない? あの連ドラの最終回、見損なったって言ってたでしょ。レンタルして、とりあえず見てみない?」

そんな風に、「相手が生きて存在する」ということが、あなたにとってどれほど大切で、素敵な体験かということを伝えてあげたらいいと思います。

わけも分からず「死ぬな、死ぬな」と連呼するより、「あなたに居て欲しい」という気持ちの方が、相手にはよほど救いになると思います。

そして最後は、

「また死にたくなったら、いつでも話してね」

と言ってあげて下さい。

相手が全力を懸けて打ち明けたからには、自分も全力を出して応える。
それが筋だと思います。

親が子供に「好き」と言わなければ、誰が言ってくれるのか?

数年前、自殺防止の公共広告で、

「『死ぬな』と言うより、『好き』と言って欲しい」

というコピーがあったそうですね。(他人様のブログで読んだのですが)

私は、この言葉がすべてを物語っているように思います。

やはりね、『愛』なんですよ。

使い古された言葉ですけど、その一言に尽きます。

そして、この『好き』を、一番身近に、一番確かに伝えられるのは、やはり『親』ではないでしょうか。

死んだものは、二度と生き返りません。

もう一度、あの子と関わりたい、あの場面をやり直したいと思っても、その機会は二度と訪れません。

永久に失う前に、大きく胸を開いて、「死にたい子供」を受けとめてあげて下さい。

☆★  ★☆

上記の記事は、あくまで私の経験に基づいた「覚え書き」です。

自殺願望が、重度の鬱や精神疾患に起因する場合。

その判断が、素人には難しい場合。

必ず専門家の指示を仰いで下さい。

死にゆく子供が最後に思い浮かべるのは親の顔

こればかりは本人に訊ねることができませんから、憶測になりますが、どんな子供も、死ぬ前に、必ず親の顔を思い浮かべると思います。

その時、親に言われた何気ない一言――

「生きていたら、いろんな事があるけど、オレもどうにか課長にまでなったしさ。人生って、最後まで生きてみないと分からんよな」とか。

「来年の夏、もう一度、伊豆大島に行こうね」とか。

思いがけない一言が抑止力になるかもしれないし、

「去年、お父さんとキャンプに行って楽しかった。もう一度、行きたいな」

「お母さんが先週作ってくれたカレーは美味しかった。もう一度、あのカレーが食べたい」

そんな思い出が抑止力になるかもしれないし。

あれこれ難しく考えなくても、結局は、優しさ、誠実、親としての行動力といったものが子供の生きる力に繋がるのではないでしょうか。

立派に受け答えしようとか。

何とか説得しようとか。

あれこれ試みるのはやめて、ともかく子供と楽しい時間を過ごしてみませんか。十分でも、二十分でも、毎日意識して楽しい時間を作ることで、子供の気持ちも少なからず変わると思います。

繰り返しになりますが、まずは死にたい原因を取り除き、生活環境を変えること。

「そう簡単には変えられない」ではなく、「子供を救う為に、どんなことをしても変えてみせる」という気持ちです。

子供が見ているのは、まさにその一点で、たとえ子供の望み通りに運ばなくても(いじめっ子が裁かれるとか、転校できるとか)、親が身体を張って問題解決に動いてくれた姿は一生忘れません。

子育ての本当のゴールは、子供自身が「生まれてきてよかった」と実感できること

私自身は、子育てにおける最大の失敗は自殺だと思っています。(遺族を責める意味ではありません)

お腹を痛めてこの世に生んだ子供が、「生きていても仕方ない。私なんか存在する意味がない」と、自ら命を絶ってしまう。

親として、これほど情けないことがあるでしょうか。

世の中、いい子に育てる為のノウハウが星の数ほど出回って、その大半は、世俗的な成功(一流大学に合格して、高給取りになる。グローバルに活躍する、キラキラした人材になる、等々)に目標設定されています。

そこまで露骨でなくても、「皆に愛される、いい人になる」に絶対的な価値観が置かれ、そこから外れることは許されないような雰囲気です。

それはそれで正しい考えではあるけれど、自分の周りを見回しても、そんな聖人君子みたいな人間は、まあおりません。

みな、そこそこに善良で、そこそこに努力家。

たまに酔っ払うこともあれば、隣人と諍うこともある。

厳しい世の中で、どうにかこうにか生活を立てて、毎日バラ色といかなくても、それなりに楽しく暮らしている人が大半ではないでしょうか。

それは絵に描いたように平凡な人生かもしれませんが、自死など露ほども考えず、普通に暮らしているだけでも、すごいことだと思いませんか?

そして、どんな親も、そういう人生を思い描いて、この世に子供を送り出したはずです。

そんな世界的なエリートにならなくても、元気に、楽しく、長生きしてくれたら、それでいいと。

そう考えれば、子供が生きているだけで上等。

学校や家庭でいろいろあっても、「自分は何の為に生きているのか」などと疑いもしない。

普通に学校に通い、普通に宿題をこなし、普通に友だちと遊んでいるだけでも、十分に子育ては機能しているわけですね。

日本では子供の自殺も当たり前みたいになっていますが、本来、子供が死を願うなど、極めて不幸な状態と言わざるを得ません。

人生に絶望しきった大人が死を選ぶならともかく、まだ子供ですよ?

親の愛や日々の暮らしを疑うこともなく、遊んだり、反抗したり、一日一日を伸び伸び過ごすのが、本来の姿ではないですか。

そう考えると、子供が自分の存在を疑いもせず、他者を傷つけることもなく、普通に生きているだけで、その子育ては成功と言えますし、「生きるって、楽しいな」と思えたら、それこそ金メダル級の功績です。

そして、今の時代、そんな風に生きる楽しさを実感できる子供(大人)が、どれほど存在するか、という話ですね。

ただ、人が生きるということがあまりにも当たり前なので、誰もその価値に気付かないだけ。

気付かないから、本当に教えるべきことを教えず、巷の「いい子の育て方」に振り回されるのだと思います。

子供の親でいるのは大変ですが、立派なことはしてやれなくても、この世に居場所を作ってやることはできます。

子供が「ありのままの自分で、ここに居ていいんだ」と実感できることが、全ての原動力です。

子どもが「うんこ星人」とからかわれたらどうしますか

ある子育て掲示板の書き込みです。

初めてトピします。小学3年の息子がいる母です。

先日学校で息子が便をした時の事です。

便をした後トイレから出てきたところ、同じクラスの子達から“うんこ星人”とか“うんこ”とか、からかわれたそうです。

子供は泣きながら少しは言い返したみたいですが普段からいつも仲良くしている友達に言われたのでかなりショックだったみたいです。

その日の夜は「あんな事言う人達だと思わなかった」と号泣してました。
それからはその子達と距離を置くようになり放課後は遊ばなくなってしまいました。

辛い事があっても子供の力で乗り切ってほしいと願う反面、親心が出てしまいどうにかしてあげたいと思ってしまいます。

相手の親や担任の先生に言うべきか悩んでおります。

息子には誰にも言わないでと言われてます。

どうかご助言お願いします。

読んで、真っ先に思い浮かべたのが、中学生の時に壮絶なシカト(無視)にあったM子ちゃんのことです。

M子ちゃんは小学生の頃から体格も大きく、クラスでは番長格のような女の子でした。中学生になってからは女子バレー部の中心的存在として仲間を従え、誰も文句を言えないような存在でした。

それが突然、中学2年の2学期の頃から、女子バレー部員の総シカトが始まったのです。

理由は、誰かの悪口を言ったとか、何とか。
私には詳しいことは分かりませんが、それまで子分のように従っていた仲間が手の平を返したようにシカトを始め、ついには学年女子の大半が彼女を無視するようになったのです。

その頃から、M子ちゃんのトイレ問題が始まりました。

授業中に猛烈にお腹が痛くなって、一時間ごとにトイレに駆け込む感じです。

私も同じ症状で苦しんでいた時期があったので、傍で見ていてすぐに分かったのですが、あれはストレス性による過敏性大腸症候群、もしくは習慣性の下痢症だったと思います。

授業中、激しい便意が波のように襲ってくるので、下半身が「く」の字に曲がったり、足をユサユサ揺さぶったり、顔が赤くなったり、トイレに行きたいのは傍目にも分かります。

すると、いじめに加担している女の子たちが、それを見ながらクスクス笑うんですね。

「見て見て、M子、また下痢だよ」

彼女のあだ名は「ババ子」になり、彼女が休み時間にトイレに駆け込んだら、その外で「うんこ、うんこ」と騒ぎ立てる人もありました。

今まで仲良くしてたのに、「ここまでやるか?」と人間性を疑いたくなるほど酷い仕打ちでした。
とはいえ、私も巻き込まれるのが怖くて、何も言えなかったのですが。

M子ちゃんが壮絶なイジメに遭っていることは、お母さんもご存知でした。

うちの母親に「M子はいじめられている。でも、学校だけは頑張って行きなさい、と言っている」というようなことを話していたみたいです。

あれだけ辛かったにもかかわらず、学校には毎日きちんと通学し、自殺もせずに乗り越えたところを見ると、お母さんが家でしっかりフォローされていたのでしょうね。

どんなにいじめられても、服装はいつもきちんとし、成績もそれなりにキープして、お母さんの手作り弁当を一人で黙々と食べていた姿を思い出します。

そんな壮絶なイジメも、皆が揃って3年生に進級し、クラスが変わったと同時に自然消滅しました。

M子ちゃんが女子バレー部員と以前のように明るく笑う姿を見た時、「あのシカトは何だったんだ?」と奇異に感じたくらいです。

噂では、学年女子のリーダー格の子が「もうええ加減にやめたり」と一声かけて終わった――とも言われていますが、実際はどうだったのか、定かではないです。
安心してトイレにも行けない学校に、どんな思いやりが育つのか

それにしても、こういう体質って、全然変わってないんですよね。

M子ちゃんのことを「ババ子」と呼んでいじめていた世代が、今、母親やってるんですもの。
そりゃあ、子どもの世代も引き継ぐだろうなあ、という感じです。

だから、家では、絶対に「心が弱い」だとか「意気地がない」というようなことは言わないであげて欲しいですね。

友だちにいじめられて、まだその上から親に塩を塗り込まれたら、それこそ心をズタズタにされますもの。

このトピックスでも挙げられていますけど、事実については静観して、「学校でうんこするのは悪いことではない。人間として当たり前のことだ」と説明し、励ましてあげるのが一番だと思います。

ちなみに、私の現住国では、授業中でも子供は堂々とトイレに行きますし、それを嘲るような風潮はありません。だって、生理現象は、誰にも、どうすることもできないし、我慢する方が身体に悪いです。授業中に便意をもよおしたからといって、それは能力や気構えのせいではないし、「授業中、トイレに行ってはいけない」と制限する方がどうかしているのではないですか。

安心して大便もできない学校に、どんな個性や思いやりが育つのか、私は本当に不思議でなりません。

ともあれ、虐められている人は、道理やガンバリズムの前向き論が欲しいわけじゃないんですよ。

ただ、自分は悪くないということを実感したい。

そして、「何かあったら、オレがやっつけてやる!」みたいな、単純な応援が欲しいだけなんですよね。(実際にそうする訳ではないけれど)

子供がいじめられていると分かったら、とにもかくにも、親が一番の応援団になる。

「あなたも悪かったんじゃないの」みたいな分析は、子供の心と状態が落ち着いてから。

時には、問答無用で味方することも、非常に大事だと思いますよ。

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