江川卓の『謎とき 罪と罰』 ~「罰とは何か」「ラスコーリニコフとソーニャの関係」「心情の美しさ ~文学者に恋をして」

ソーニャ・マルメラードフ
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謎とき『罪と罰』

ロシア文学者・江川卓氏の名著、謎とき『罪と罰』は、雑誌『新潮』の1983年3月号から1985年8月号まで、ほぼ隔月に13回にわたって連載した原稿に加筆し、単行本化した文芸読本である。

文芸評論(解説)というよりは、『罪と罰』の読書ガイドであり、作中に登場するモチーフや名付けに関するトリビアが、さながらシャーロック・ホームズの謎解きみたいに紹介されている。

専門家ではなく、文学好きの一般人に向けて書かれた本なので、ドストエフスキーや『罪と罰』を読んだことのない人でも、「へぇ、面白そうだな」と思わせるような雑学が中心だ。

大上段から無知な読者を諭す風でもなければ、「こう読むべき」という押しつけがましさもなく、「こういう解釈もあるよ」と知的好奇心を刺激する内容で、お堅い文学評論が苦手な人も暇つぶしの読み物的に楽しめると思う。

江川先生は、ドストエフスキーの講釈もさることながら、とにかく日本語の文章が上手いので、ドストエフスキーに興味をもったら、絶対的に読んで欲しい作者の一人である。

ちなみに、難関とされる『カラマーゾフの兄弟』も、江川卓・訳なら三日で読破できるので、有志は復刊リクエストに協力を願う。

『カラマーゾフの兄弟』江川卓訳をお探しの方へ(原卓也訳との比較あり)

謎とき『罪と罰』
謎とき『罪と罰』

本書の構成

本書の構成は次の通り。
「新潮」の読者向けなので、なかなか際どいタイトルが付いている。

はじめに ―― 「謎とき」とは?
Ⅰ 精巧なからくり装置
Ⅱ 666の秘密
Ⅲ パロディとダブル・イメージ
Ⅳ ペテルブルグは地獄の都市
Ⅴ ロジオン・ラスコーリニコフ・割崎英雄
Ⅵ 「ノアの方舟」の行方
Ⅶ 「罰」とは何か
Ⅷ ロシアの魔女
Ⅸ 性の生贄
Ⅹ ソーニャの愛と肉体
Ⅺ 万人が滅び去る夢
Ⅻ 人間と神と祈り
XIII 13の数と「復活」神話
『罪と罰』 邦訳一覧
あとがき

解説 『罰とは何か』

小説『罪と罰』において、読書が一番知りたいのは、ラスコーリニコフにとって『罰とは何か』だと思う。

本作において、『罰』の意味は二つあり、一つは、刑法を準拠とした社会的罰。

もう一つは、キリスト教的な観点から見た、良心の罰だ。

刑法に関しては、江川氏が下記のように解説している。

「罰とは何か?」は、この小説の大きな主題となっている。むろん、この「罰」は、老婆殺人の外観にではなく、ラスコーリニコフの内面にかかわっており、この主人公にとって「罪」とは何か? という問題とわかちがたく結ばれている。その根本主題にベッカリーアはどう関係してくるのあろうか。

『犯罪と刑罰』の第十八章に「汚辱刑」と題された章があり、そこに次のような一節が見出される。

「自尊心にもとづく犯罪、刑罰の苦痛を受けることにみずからの名誉を感じているような犯人に対しては、肉体的な苦痛を内容とする刑罰をもってのぞまないようにしなければならない。彼らは狂信者なのだから、あざけり、はじをかかせることによって以外に彼らをおさえつける方法はない。大ぜいの観衆の前でこれらの狂信者どものいつわりの自尊心を屈服させることが、この刑の有効な効果である」

ベッカリーアとは、18世紀イタリアの刑法学者で啓蒙主義思想かチェザレ・ベッカリーアのこと。著書『犯罪と刑罰』は理論的古典と目されている。江川氏いわく、タイトルの『罪と罰』は、ベッカリーアの著書『犯罪と刑罰』のもじりではないか? と。江川氏の個人的見解。

つまり、優秀な大学生で、意識も高く、本来は真面目なキリスト教徒であるラスコーリニコフにとって、「周囲の嘲弄と侮蔑」「思想的な挫折」こそが、もっとも良心に堪える罰であるということ。

米川正夫・訳で読み解く ドストエフスキー『罪と罰』 の名言と見どころ』にも書いているように、ラスコーリニコフは『人間は凡人と非凡人とに分かれ、非凡人は既成道徳をも踏み越える権利を有する』 『一つの些細な犯罪は、数千の善事で償われる』という自説に確信をもっており、それを実現してこその老婆殺しであった。

ところが、実際には、予期せぬ第二の殺人(リザヴェーダ殺し)によって、良心の呵責に苛まれ、病気になって寝込んでしまう。

それほど繊細かつ小心者のラスコーリニコフにとって、「僕が間違ってました」と警察に自首したり、広場のまんなかにひざまづいて大地に口づけるような行為は、これ以上ないほどの恥辱であり、これこそが最大の罰、という解釈である。

罪を打ち明けたラスコーリニコフに対し、娼婦ソーニャは「お立ちなさい! いますぐ、すぐに行って、十字路に立ちなさい。お辞儀をして、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから四方を向いて、全世界にお辞儀をなさい、そして、みなに聞こえるように、『わたしが殺しました!』と言うんです。そうしたら神さまが、あなたにまた生命を授けてくださいます」と諭す。

ある意味、ラスコーリニコフにとって道義は二の次であり、「自説の証明」が自身の存在意義になっている。

事件を追うポルフィーリィ判事に対して、自信満々に自説を披露する姿を見ても、ラスコーリニコフは一種の思想犯であり、金銭よりも、自説の証明と社会的承認こそが重要な様子が窺える。

現代風に喩えれば、世間が老婆殺しを絶賛し、ラスコーリニコフの自説に100万個のイイネを付くような感じである。

だが、精神的な弱さから、あるいは、運命的な要素(第二の殺人)から、ラスコーリニコフは自説を証明する機会を失い、最後は惨めな殺人犯として警察にしょっぴかれる。いや、それ以前に、ソーニャの言う通り、衆目の中で地べたにひざまずき、大地に接吻するという、傍から見れば滑稽なパフォーマンスで世間の笑いものになっている。

いわば、思想的に負けた事実こそが、ラスコーリニコフの身勝手な主張に対する最大の罰なのだ。

その点では、自分を神と勘違いし、大量殺人を繰り返した『DEAT NOTE』の夜神ライトが、最後はほとんど意地になっていた姿と重なる。
(参考 漫画『DEATH NOTE』 なぜ人を殺してはいけないのか

ラスコーリニコフは、ライトのような醜態をさらす前に自首したので、美しく終ったが、自説にこだわり、その正当性を証明する為なら、殺人さえも厭わない姿勢においては、どちらも似たような自惚れ屋タイプと言えるのではないだろうか。

かくして、警察に自首したラスコーリニコフは徒刑囚としてシベリアに送られる。

だが、そこでもラスコーリニコフは、心の底から改悛したわけではない。

刑務所に送られてからも、心の中では、こんな風に毒づいている。

一体どういう訳で俺の思想は開闢以来この世にうようよして、互いに打っ突かり合っているほかの思想や理論に比べて、より愚劣だったというのだ? 観世に独立不遜な、日常茶飯事の影響から離脱した、後半な観方(みかた)で事態を監察しさえすれば、そのときはもちろんおれの思想も、決してそれほど……奇怪でなくなって来るのだ。おお、五ペイか銀貨ほどの値打ちしかない否定者や賢人たち、なぜ君らは中途半端なところで立ち止まるのだ。

≪中略≫ 

しかし、悪事とは何を意味するのだろう? おれの良心は穏やかなものだ。もちろん、刑事上の犯罪は行った。もちろん、法の条項が侵されて、血が流されたにちがいない。では、法律の条項に照らして、おれの頭をはねるがいい……それで沢山なのだ! もちろんそうとすれば、権力を継承したのではなくて、自らそれを掌握した多くの人類の恩恵者は、各々その第一歩からして、罰せられなければならなかったはずだ。しかし、それらの人々は自己の歩みを持ちこたえたが故に、従って彼らは正しいのだ。ところが、おれは持ちこたえられなかった。従って、おれはこの第一歩を己に許す権利がなかったのだ」

(米川正夫・訳)

早い話、自分が刑務所にいるのは、法律を侵したからで、思想そのものが間違っていたわけではない。ただ、殺人という事実に対して、心が持ちこたえられなかっただけ……という、ウルトラCのような言い訳である。

だが、そんなラスコーリニコフも、面会に訪れたソーニャとの触れ合い通して、ついに劇的な改悛に至る。

『罰』に関する考察で、江川氏は次のように締めくくっている。

(最後の完成稿)「いま彼の身に起こりつつあったのは、彼にとってまったく未知の、新しい、思いがけぬ、ついぞこれまでに例のないことであった。頭で理解したというのではないが、彼は明確に、全感覚をつらぬくほどの力で感じとったのだった―― ≪中略≫

いま、この瞬間まで、彼は一度としてこんな奇妙な、恐ろしい感覚を経験したことはなかった。そして何よりも苦痛であったのは、それが意識とか、観念とかいうよりも、むしろ感触であったこと、直観的な感触、これまでに彼が生によって体験した感触のいずれにもまして、もっとも苦痛な感触であったことである。

それまでラスコーリニコフは、頭の中では罪を認め、「悪い事をした」と思う気持ちもあったが、心の底から罪を悔いていたわけではない。

むしろ、「もっと上手くやれたのではないか」と、周囲の圧力に負けて屈したことを惜しんでいるような節さえある。

だが、ソーニャとの触れ合いを通して、彼はついに本物の改悛に至る。

理屈ではない、本物の罪悪感を覚え、心底から「悪かった」と反省するのである。

本作では「感覚」「感触」といった、抽象的な言葉が使われているが、宗教的感情といえば分かりやすい。

それはもう、「ごめんなさい」とか「反省してます」などというレベルではない、心底から神を畏れ、罪深さに打たれ、魂ごと目覚めて、新たに生まれ変わるような、大いなる感動だ。詳しく書くと、くどいので、「直観的な感触」みたいな表現になる。

それはまた、意識高い系ラスコーリニコフの、自慢の鼻が折れた瞬間であり、そこからが人間としての本物の人生の始まりだ。

理屈人間から、心で生きる現世の人へ。

『罪と罰』の主人公は大学生であり、それが作品の本質を物語っている。

ラスコーリニコフは大いなるモラトリアムから目覚め、ついに良識ある社会人(?)としての第一歩を踏み出したのである。

罪と罰 メインキャラクター
罪と罰 メインキャラクター

ラスコーリニコフとソーニャの関係

『謎とき 罪と罰』でも触れられているが、多数の読者が興味を惹かれるのは、ラスコーリニコフとソーニャがどれくらい深い関係だったか、であろう。

飲んだくれの退役官吏マルメラードフの娘ソーニャは、家族を助けるために、黄色い鑑札札をもらって身売りする。

作中では、聖なる処女のように描かれているが、現実的には、立派な大人の女性である。

その点について、江川氏は次のように解説する。

(本作には「足」の表現が多数登場するが) 検閲のきびしかったロシアでは、プーシキン以来、女性の身体部分としての「足」は、詩人たちによって、「女体」のいわば代名詞として使われてきた歴史がある。マルメラードフでさえ、ソーニャの商売用の服装について、「靴も格好のいいので、水たまりを越えるときなんか、あんよがちらっとのぞくようなやつじゃなくちゃいけません」と、したり顔に解説を加えている。

そういった背景で考えると、ソーニャが「肉体の感じられぬ影のような女性」であるなどとはとんでもない話で、ドストエフスキーは彼女に、愛する者にのみ感応する繊細でゆたかな肉体感覚をこそ与えてやったのだ、と思えてくる。

つまり、大多数が抱く「小柄で清廉な聖母マリア」のイメージとは裏腹に、ソーニャは肉感的な「いい女」であり、その魅力の前には意識高い系のラスコーリニコフも抗えなかったのではないか、という話。

ソーニャの二度目の訪問を描いた第五編第四章については、その可能性を全面的には否定できない。まずこのときは、ソーニャのベッドのあたりが舞台になっていることがある。それも、最初は、前回と同じ籐椅子に腰かけていたのを、犯行告白の直前、ラスコーリニコフがふいに蒼白になり、椅子から立ちあがって、ひとことも発しないまま「機械的に」彼女のベッドに席を移すのである。ほどなくソーニャも、そのそばに歩み寄って、ベッドに並んで腰をおろす。そして、犯行告白がなされた次の瞬間、ソーニャはラスコーリニコフの首にかじりつき、初めて彼に対して「トゥイ(二人称のくだけた言い方)」の呼びかけを使う)。

「あなた(トゥイ)はいま、この世の中でだれよりも、だれよりも不幸なのね!」

注記すると、ソーニャの言葉づかいが最終的に「トゥイ」に落ち着くのは、このときからである。

「ぼくが監獄に入ったら、面会に来てくれるかい?」というラスコーリニコフの問いに、「ええ、行ってよ! 行ってよ!」と堪えるソーニャの言葉には、相手を信頼しきり、身も心もゆだねようとするイントネーションをさえ聞きとることができる。

私の考えでは、おそらくこのあと、二人は、ソーニャの「願望」のとおり、完全に心と肉体をひとつにすることができたのだと思う。

むろん、ドストエフスキーは直接にはなんの描写も与えていない。しかし、ソーニャの「ええ、行ってよ! 行ってよ!」につづく段落は、次のように始まっている。

「二人は、あたかも嵐のあと、無人の岸辺に打ちあげられでもしたように、悲しげにうちしおれて、並んで坐っていた。彼はソーニャを見やり、自分に注がれている彼女の愛情がいかに大きなものであるかを感じていた……」

ここで重要なのは、ソーニャに立つことを強制されて以後、ずっと立ったままでいたはずの二人が、なぜここでは「並んで坐って」いることである。

(一部、文言を省略しています)

つまり、このくだりで、男女の営みがあったと。

そうでなければ、後の劇的な展開に結びつかない、というのが、江川氏の見立てである。

当時は、現代小説のように赤裸々な事は書かないし、古典文学は高尚という先入観もあるので、こうした現実から目を背けがちだが、普通に考えれば、それなりに魅力的な大学生のラスコーリニコフと、女子力の高いソーニャが、中学生みたいなプラトニックな関係だけで劇的な改悛に至るとも思えず、そこには肉体的な結びつきもあったから――と考えるのが妥当ではないだろうか。そうでなければ、シベリアまで追っていくほどのソーニャの情熱にも説明がつかない。

江川氏も言及されているが、『罪と罰』でも、もう一つの名作『カラマーゾフの兄弟』でも、「好色(性)」が一つのテーマとなっており、それは絶望的な貧困の象徴であると同時に、人間の罪深い側面を映し出すものでもある。

そう考えると、古典文学の鑑ともいうべき、ラスコーリニコフとソーニャの間に、男女の交わりがあったとしても、何の不思議もなく、むしろ一つの恋愛ドラマとして読む方が本作の面白みも増す。

それを汚らわしいと一刀両断する方が不自然で、まこと男女の愛ほど深い動機はないのではないだろうか。

Raskolnikov and Sonia. ラスコーリニコフとソーニャ
ラスコーリニコフとソーニャ

以下は、本書に基づく文芸コラムです。

江川卓氏の心情の美しさ ~文学者に恋をして

人生には運命的な出会いが三つある。

一つ目は、天職。(仕事)

二つ目は、導師。(メンター)

三つ目は、作品。(アート)

特に三つ目においては、青春期の出会いが一生を決めることもある。

江川卓氏にとっても、ドストエフスキーとの出会いはそうだったのだろう。

謎とき『罪と罰』の「はじめに」が好きなので、以下に紹介する。

はじめに――『謎とき』とは?

ドスとフスキーの『罪と罰』は、実にさまざまな読み方のできる小説である。どの年齢で、どのように四でも、それなりのおもしろさと感銘を味わうことができる。この小説が世界文学の傑作中の傑作として、これほどに長い生命力と人気を保っている秘密も、まずはこのあたりに求められるべきだろう。

私自身の読書歴をふりかえっても、たしかにそのとおりだったと思う。中学三年で初めてこの小説を手にしたとき、私はもっぱら探偵小説的なサスペンスにつられて、この大長編を一気に読みとおした。

≪中略≫

犯人の大学生ラスコーリニコフが金貸しの老婆とその妹の白痴女リザヴェータを斧で殺害する場面のなまなましさ、そのあと、不安と焦燥におびえながら、偶然のたすけで、首尾よく犯行現場を逃げ出すあたりでは、文字どおり手に汗を握らされた。そして、ふしぎなことに、私は凶悪犯人のラスコーリニコフに強い共感と愛着をおぼえた。犯人が「善玉」で、探偵役のポルフィーリィ予審判事が「悪玉」であるようにも思えた。そこで、ポルフィーリィが意地の悪い巧妙なやり口で、じわじわと犯人を追いつめていく役になると、私はただもうはらはらして、愛するラスコーリニコフになんとか頑張ってほしいと、そればかり念じていたものだ。

≪中略≫

戦後になると、当時の時代風潮のせいもあったのだろうか、社会派的な読み方に強く傾斜した一時期があった。酔いどれの失職官吏マルメラードフの存在が、俄然大きく浮かびあがってきた。

「だって人間、せめてどこかへ行き場がなくちゃいけませんものな」――このせりふは、十九世紀ロシアばかりでなく、現代日本の状況にも通ずる普遍的な真理のように思われた。そしてラスコーリニコフの犯行そのものも、たんなる殺人行為ではなく、時代のそうした閉塞状況を突き破るための積極的な行動と見えてきた。

大学を出て、銀座の小さな広告会社に勤めた当時、私が好んで通った飲み屋のカウンターは、マルメラードフの行きつけの酒場と同じように、「ウォッカとキュウリの漬汁」ではないが、バクダン焼酎とラーメンの汁で、いつもべとべとしていた。その汚らしいカウンターに肘をついて、私は自身のささやかなドストエフスキー体験をあたためた。

残念なことに、「ぼくはきみにひざまずいたんじゃない。人類のすべての苦悩の前にひざまずいたんだ」と叫ぶことができるような対象――「薄倖の少女」ソーニャにめぐり会うことはできなかったけれど。

私が高校の同級生なら、きっと江川っちに恋してたと思う。

それも切ない片想い。

両思いなんか、要らない。

両思いは、『始まりの終わり』。

恋でも、何でもないから。

*

現代は、誰もがSNSやブログで手軽に心情吐露できる時代だ。

それはそれで興味深いが、自分語りもほどほどにしないと、かえって自分を見失う。

とりわけ、ギャラリーなど持つと、いつしか自分の真情からかけ離れ、ギャラリーに期待される自分を演じるようになる。

そうなれば、心情吐露というより、芸人だ。

芸人になると、自身に正直になるより、周囲に受けることを優先するようになる。

それが楽しいなら、それでもいいけれど、そうなると本来の自分は何処に行くのか、多くの人は、いずれ苦しくなって、止めざるをえなくなると思うけれど。

自分の感情を高く保ちたければ、周りに対しても、自分自身に対しても、「謎」の部分を大事にした方がいい。

何でも見せてしまうと、すぐに飽きられるし、自分でも自分の事が分からないくらいの方が、自分とも付き合いやすい。

土台、人間のことなど、まるく理解できる方がどうかしてるのだから。

運命的作品と共に生きる悦び

その点、ネット以前の著述家は、そうそう心情を吐露する機会もなく、まして不特定多数に向けて「己を語る」となれば、選ばれた人の特権だった。

またその機会も毎日ではなく、数ヶ月に一度、時には、生涯に一度(一冊)だけ。

だからこそ、生涯にただ一度の機会とスペースに、研ぎ澄まされた魂の一文、あるいは、その人柄がにじみ出るような、味わい深い一節が残された。

毎日、とめどなく自分語りを垂れ流す駄文とは違う。

20マス目にぴたりとはまる、「この一言」の美しさだ。

『謎とき 罪と罰』の場合、「残念なことに、「ぼくはきみにひざまずいたんじゃない。人類のすべての苦悩の前にひざまずいたんだ」と叫ぶことができるような対象――「薄倖の少女」ソーニャにめぐり会うことはできなかったけれど」の一文に、著者の青春と人柄の全てを感じる。あっちの誌面、こっちのブログで多くを語らなくても、どんな想いで若い時代を過ごしてきたか、何となく目に浮かぶ。

私が江川氏のファンなのも、一人の作家、あるいは運命的な作品と共に生きる幸せを知っているからと思う。

現実社会の賞賛など必要ない。

ぶっちゃけ、誰に理解されなくてもいい。

一冊の本を心友に生きた青春時代。

またその一冊に導かれて道を開いたあの劇的な瞬間。

運命というなら、この一冊――みたいな出会いと感動があって、今がある。

夢もやる気もあるけれど、先行きが見えず、あれもこれも手探りで進むしかない若い日々、行きつけの飲み屋と『罪と罰』の世界観を重ねながら、「なんちゃってラスコーリニコフ」の気分を味わい、マルメラードフの孤独と絶望感に心を揺さぶられることもある。

ああ、そんなボクに、ソーニャみたいな女性との出会いはなかったな……という心情の吐露が、何とも純朴で、親しみを覚えるのだ。

この本にだけ書いてあるから、尚更に。

文学者は夢と現実の架け橋

現実社会でも喋りは敬遠されるのと一緒。

他人の胸の内も日常的に目にすれば、すぐに飽きるし、よく知れば愛情が増すというものでもない。

それより、生涯にただ一度、ただ一冊の序文に綴られた「この一文」により美しい心情を感じる。

そして、文学者に恋するのは、いつでもそんな瞬間なのだ。

作家はあれこれ喋りすぎるけど、文学者は、作家と読者の中間にいて、自分自身は決して出しゃばらないから。

それでいて、文章の随所に、思想や人柄を感じさせる。

時に、作品以上に、作家と作品の背景を深く知ることができる。

それは本当に文学を本当に愛した人でないと分からない、夢と現実の架け橋みたいなものだ。

彼らが現代の我々にも分かりやすい形で解説してくれるから、私たちは時代を超え、言語を超えて、一つの想い、一つの物語を共有することができる。

私も江川氏の訳文や解説を通して、いろんなことを教えてもらった。

それだけでも、この世に生まれてよかったと思うし、ドストエフスキーを知ったことも、読書が好きなことも、人生の僥倖に感じる。

惜しむらくは、私の青春時代、「ぼくはきみにひざまずいたんじゃない。人類のすべての苦悩の前にひざまずいたんだ」という一文を共有できるような読書仲間には巡り会えなかったということ。

そんなわけで、私も酒と脂でベタベタしたテーブルに頬杖をつきながら、こう呟こう。

だって人間、せめてどこかへ行き場がなくちゃいけませんものな」(『罪と罰』のマルメラードフの言葉)

ギャラリー

『謎とき 罪と罰』と江川卓・訳『罪と罰』
謎とき『罪と罰』 江川卓

ペテルブルグに関する資料。他にもキリスト教のモチーフや作中に登場する地名の地図など、図解あり。
謎とき 罪と罰 ペテルブルクについて

ソーニャとラスコーリニコフの関係についての記述
謎とき 罪と罰 ソーニャとラスコーリニコフ

『罪と罰』のキーワードをロシア語から読み解く
謎とき 罪と罰 ロシア語を読み解く

初稿  2019年3月18日

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