漫画『DEATH NOTE』 なぜ人を殺してはいけないのか

『DEATH NOTE』 なぜ人を殺してはいけないのか
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記事について

DEATH NOTEによって死神の力を手に入れた優等生・夜神ライトは、世直しと称して悪人の削除を繰り返すが、最後は手当たり次第に邪魔な人間を抹殺する大量殺人犯となる。「非凡な人間は法をも超える権利を有する」というドストエフスキーの『罪と罰』の世界観を交えながら、人が一方的に人を裁くことの危うさを説くコラム。

目次 🏃

作品の概要

DEATH NOTE (2003年~2006年) 少年ジャンプ連載

原作 : 大場つぐみ
作画 : 小畑健

あらすじ

進学校に通う優等生、夜神月(やがみライト)は、死神リュークが落としたデスノート(DEATH NOTE)を拾う。
「デスノートに名前を書かれたものは40秒以内に死ぬ」と知ったライトは、この世から悪人を抹殺し、心の優しい、善良な人だけが暮らす幸せな世界を創造すべく、大量殺人を始める。
事態を重く見た警察機構の依頼を受けて、捜査に乗り出したのが、天才的な頭脳をもつ私立探偵『L(エル)』だった。
Lは様々な状況証拠からライトを疑い、様々なトラップを仕掛けるが、ライトもまた天才的な頭脳でそれを切り返していく。
ライトとエルは己の矜持をかけて、この戦いに勝とうとするが、思わぬ罠が待ち受けていた――。

DEATH NOTE モノクロ版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)
DEATH NOTE モノクロ版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

見どころ

国内のみならず、世界を熱狂させた少年ジャンプの名作マンガ。
トラップに継ぐトラップで、一度読み出したら止まらない面白さ。
漫画はネームが多いので、先にアニメを見た方が分かりやすいかもしれない。

「悪人を削除し、善良な人々の世界を作る」というライトの思想は、現代のラスコーリニコフ(『罪と罰』)そのもので、一見、正しいように思うが、ライトのどこが間違いなのか、物語の最後にちゃんと回答を用意している。

何度も似たような展開が繰り返されるので、その点がしんどいかもしれないが、全編を通して、非常にスリリングで、最後まで目が離せない。

ライトはもちろん、Lや松田刑事といった脇役もユニークなので、一度は読んで頂きたい良作である。

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米川正夫・訳で読み解く ドストエフスキー『罪と罰』 の名言と見どころ
本作に興味をもったら、次に読んで欲しいのがドストエフスキーの『罪と罰』。『人間は凡人と非凡人とに分かれ、非凡人は既成道徳をも踏み越える権利を有する』 『一つの些細な犯罪は、数千の善事で償われる』という思考はまさ夜神月の原型。

アニメのDEATH NOTEはOPが二種類あるが、筆者のお気に入りは、マキシマム・ザ・ホルモンの歌う『What's Up, People! 』
演出も素晴らしく、

ちなみに、『DEATH NOTE』は、服部隆之氏が手がけたサウンドトラックも素敵です。
宗教曲を思わせる、重厚かつシンフォニックなサウンドに魅了されますよ。

なぜ人を殺してはいけないのか

優れた人間が悪い人間を削除していい、という考え方

米川正夫・訳で読み解く ドストエフスキー『罪と罰』 の名言と見どころより。

ドストエフスキーの『罪と罰』では、真面目で、頭脳明晰な青年ラスコーリニコフが、貧困と世の不条理から「人間は凡人と非凡人とに分かれ、非凡人は既成道徳をも踏み越える権利を有する』 『一つの些細な犯罪は、数千の善事で償われる」という思想を持つに至り、悪名高い金貸しの老婆を殺害する。

「無知で、何の価値もない意地悪な婆は生きていても仕方ない。そんな婆はいっそ殺して、その金を万人の福祉に役立てた方がよほど有益ではないか」と考えたからだ。

しかし、偶然、その場に居合わせた老婆の妹リザヴェータまで殺害してしまったことから、良心の呵責に苛まれ、ついには信心深い娼婦ソーニャの愛に心を動かされて、警察に自首する。

捜査の過程で、「非凡人は方も踏み越える権利を持つ」と主張するラスコーリニコフに対し、判事のポルフィーリィが、

一体どいういうところで、その非凡人と凡人を区別するんです?
生まれる時に何かしるしでもついてるんですか。
さもないと、もしそこに混乱が起こって、一方の範疇の人間が、自分はほかの範疇に属してるなどと妄想を起こして、あなたの巧い表現を借りると、『あらゆる障害を除き』始めたら、その時は、それこそ……

と反論する場面があるが、「それこそ……」に続く言葉は、「人殺しさえ容認される」で、これを実行したのが夜神ライトだ。

ライトは、ラスコーリニコフと違い、何のためらいもなく大量殺人を続ける。

何故なら、「悪人はこの世から消えた方がいい」という思考の持ち主だからである。

また、ラスコーリニコフが、最後は神の教えに立ち返り、自首したのと違って、ライトは最後まで自分の非を認めることなく、哀れな結末を迎える。

何故なら、最後は死神に見放されるからだ。

本作における死神リュークは、神の使いでもなければ、良心の化身でもない。

また悪の味方ではないし、虚無を気取ったニヒリストでもない。

今風に喩えれば、人間ウォッチャーとでも言うべきか。

地上のドタバタを冷めた目で見つめる傍観者である。

ゆえに、ライトの敗北が明確になると、死神は彼を見放し、彼がしてきたことと同じ事を彼にして返す(そこは原作を読んで欲しい)。

そこが無宗教の現代らしいドラマ展開と言えるだろう。

ライトの考えは独裁と同じ

では、なぜ、ライトのように人を殺してはいけないのか。

それは、ポルフィーリィの言葉に集約されている。

「一体どいういうところで、その非凡人と凡人を区別するんです?」

DEATH NOTEの場合、「良い人」と「悪い人」の区別は、ライトが決定する。

ライトが、「この人は良い人」と思えば、その人は生きられるが、「この人は悪い人」と判断して、デスノートに名前を書けば、その人は死んでしまう。

「銀行強盗や詐欺師のような悪人は、この世に存在しても害悪なだけだから、死んでもいいんじゃないの?」と思うかもしれない。

しかし、人の生死を左右するとなれば、話は別だ。

逮捕して、終身刑を宣告して、一生刑務所に閉じ込めるのと、一方的にデスノートに名前を書いて、瞬時に死に至らしめるのでは、大きな違いがある。

まして、その判断を、ライト一人の思いつきでやっているとしたら、独裁以外の何ものでもないだろう。

何の為に刑法や裁判が存在するのかといえば、現代社会は法治国家であり、『目には目を』の精神で、その人が犯した罪に相当する刑罰を与えることが原理原則とされているからだ。

そうでなければ、宿題のノートに執政者の悪口を書いただけで銃殺される世の中になってしまう。

いわば、ライトのやっている事は、最低最悪の独裁者と変わりなく、たとえ正義感としても、一人の人間が、その場の思いつきで他人の生殺与奪を好きにしていい訳がないのである。

「悪人には裁きを」というのはその通りだが、人が人を裁くなら、まず証拠を集め、事実を確かめ、「どれくらいの罪か」ということを理性でもって判断しなければならない。

その為の法律であり、裁判である。

被告と原告、双方から話を聞き、いくつものプロセスを経て、有罪・無罪を決定するのは、そういう理由からだ。

それを無視して、一方的にデスノートに名前を書き付け、相手を死に至らしめるのがどれほど卑劣か、理解できるのではないだろうか。(たとえ、相手が史上最悪の殺人犯としても)

DEATH NOTEでも、物語の冒頭で、「デスノートで悪人を排除し、善人だけの素晴らしい世界を作る」と宣言するライトに対し、死神リュークが「そんな事をすれば、お前以外の人間は、みな悪い人になってしまうぞ」と釘を刺す場面があるが、まさにその通りで、ライトの世直しは、最終的に、「自分と自分の賛同者以外は、みんな敵」になる。

手当たり次第に殺戮を繰り返し、その果てに、とうとう墓穴を掘ってしまう。

それでもなお、「自分以外の人間に、同じことができるのか」と開き直り、自分の過ちを決して認めようとしないライトに対し、『L』の仕事を引き継いだ『ニア』が、「いいえ、あなたのやっていることは、ただの大量殺人です。それ以外の何ものでもありません」と明言する。

それが、本作の答えであり、法治国家のルールだ。

いや、法治国家でなくても、人が人を一方的に排除・殺害していい理由はどこにもないだろう?

相手に問題があるならば、人間的に、理性でもって解決すればいいこと。

ライトを容認することは、暴力の容認に他ならないのだから。

裁きは神の領域 ~真の善悪を知るのは神だけ

誰かが間違いを犯すと、世間は口を揃えて非難する。

「こんな悪い人間は、世の中から排除してしまえ」と。

だが、判事ポルフィーリィの言葉を借りれば、「正しい人と、正しくない人を、どこで、どう判断するのですか?

日常の些細なこと、たとえば、芸能人の失言でも、我々はすぐ裁判官になって、あれが悪い、これが許せないと、偉そうに断じるが、果たして、個々の人間に他人を裁く資格と権利があるのだろうか。

イエス・キリストの有名な言葉で、「罪を犯したことのない者から、この女に石を投げなさい」という教えがあるが、その本質は、なぜ人であるあなたに、同じ人間を裁くことができるのか、という問いかけにある。

人間というのは、愚かという点で、みな似たり寄ったりだし、思いがけないところで過つこともある。

その度に激しく非難しては、立ち直るものも立ち直れなくなるだろう。

また、ある人にとっては悪でも、ある人にとっては善なこともある。

たとえば、「ああ、無情」のジャン・バルジャンは、飢えた家族を養うために、店先から一個のパンを盗んでしまう。

パン屋から見れば窃盗だが、家族にとっては救いだ。

では、その善悪を、人はどう判断すればいいのか。

何が何でも犯罪と断じれば、ジャン・バルジャンのように、パン一個で19年間も刑務所に繋がれることになる。

果たして、それで妥当なのか。

彼を弁護する者はないのだろうか。

キリスト教においては、真の善悪を知るのは、神だけである。

だが、アダムとイブは、神のように賢くなろうと知恵の実を取って食べ、楽園から追放された。

それが『原罪』と言われるのは、神のような知恵をつけた人間――ライトのような優等生が「自分こそ神」と自惚れて、他人を裁いたり、過った道に突き進んでいくからだ。

どれほど賢い人でも、常に正しい判断ができるわけではなく、一億総裁判官と化すことが、どれほど恐ろしいか、現代のSNSなど見ていたら容易に想像がつくだろう。

デスノートで悪人を排除して、戦争も殺人もない平和な世界をもたらしたライトが、一方では、大量殺人犯と断罪されるのは、その点にある。

最初は世直しのつもりで削除を始めたライトが、最後には「邪魔する者はみな削除」の独裁者に転じた経緯を見てもお分かりだろう。

このように、人が神を気取って他人を裁くことは誤りで、そうならない為に法律や裁判制度がある。

そう考えれば、DEATH NOTEという作品のメッセージが理解できるのではないだろうか。

どんな人間も、人として尊重されなければならない

凶悪な犯罪が起きると、「こんな悪人は死刑にしてしまえ」という声が一斉に上がるが、いかなる理由があろうと、人は人として尊重されなければならない。

それが法治国家の原理原則だ。

そうでなければ、中世の魔女狩りみたいに、気に入らない人間は片っ端から血祭りにするような世の中になってしまう。

多くの人にとっては、自分には関係のないことだから、死刑だ何だと簡単に口にするが、いざ、自分に容疑がかけられた時、誰ひとり弁護してくれる者がなくて、「皆が『あなたが悪い』と言ってます」という理由だけで死刑を宣告されたら、どんな気分になるか。

そして、それが社会的に正しいと思うだろうか。

自分も裁判官になって、死刑だ何だと騒ぐ人も夜神ライトと変わりなく、こういう人たちがデスノートを手にしたら、ライトと同じように、気に入らない人間は片っ端から削除しまくるのだろう。

現代は、「我こそが、○○界の神である!」みたいな人間が溢れかえり、単純な人ほど騙されやすくなっている。

それでも納得いかない人は、今一度、DEATH NOTEを読み返し、「いいえ、あなたはただの大量殺人犯です」というニアの言葉の意味を考えて欲しい。

目の前の人間がデスノートを持っていて、あなたが裁かれる側の人間としたら、人が一方的に人を裁くことの危うさがきっと理解できるはずだ。

誰かにこっそり教えたい 👂
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