米川正夫・訳で読み解く ドストエフスキー『罪と罰』 の名言と見どころ

米川正夫 訳 新潮文庫の表紙
記事について

超個人主義に徹する貧しい大学生ロジオン・ラスコーリニコフは、『人間は凡人と非凡人とに分かれ、非凡人は既成道徳をも踏み越える権利を有する』 『一つの些細な犯罪は、数千の善事で償われる』という論理のもと、強欲な高利貸の老婆を殺害し、奪った金を有効に使おうとする。不朽の名作を米川正夫訳で紹介。ドストエフスキー解説で有名な江川卓氏の『謎解き』シリーズの抜粋も掲載しています。

目次 🏃

作品の概要

あらすじ

超個人主義に傾倒する貧しい大学生ロジオン・ラスコーリニコフは、『人間は凡人と非凡人とに分かれ、非凡人は道徳をも踏み越える権利をもつ』『一つの些細な犯罪は、数千の善事で償われる』という理論のもと、強欲な金貸しの老婆を殺害し、奪った金を有効に使おうとする。

ところが、偶然、その場に居合わせた、老婆の妹まで殺害したことから、罪の意識に苛まれるようになる。

貧しい境遇ながら、強い信仰心に支えられる娼婦ソーニャによって、彼の良心は救われ、ついに自らを法と神の手に委ねる。

見どころ

『罪と罰』は、『カラマーゾフの兄弟』と並んで、もっとも知られた代表作だ。

ニヒリズムの影響を受けた貧しい大学生のラスコーリニコフは、学費や生活費を得る道を絶たれ、ほとんど飢餓状態で、自分を恥ながら生きていた。

棺のように薄暗い下宿部屋に閉じこもるうち、様々な妄想に取り憑かれ、「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」という理論に辿り着く。

そして、そのように、あくどい金貸しの老婆を斧で惨殺するが、たまたまその場に居合わせた善良なリザヴェータまで殺めてしまったことから、ラスコーリニコフの苦悩が始まる。

近年、大ヒットした少年漫画『DEATH NOTE』の夜神ライトと決定的に異なるのは、ライトがDEATH NOTEを使った大量殺人(削除)に疑問も悔恨も一切なかったのに対し、本作のラスコーリニコフは、元々、心優しい青年であり、ゆえに、頭では非凡人思考を編み出しながらも、実際に人を殺してしまうと、罪悪感に苛まれるようになる。

ラスコーリニコフを追い詰めたのは、救いようのない貧困と孤独であり、本来、心の救いとなるべき家族の無償の愛も、ラスコーリニコフはかえって重荷でしかなかった。家族を幸せにするだけの地位も、経済力も、何も持たないからだ。

そんな中、偶然知り合ったソーニャとの出会いが、彼を大きく変える。

ソーニャもまた飲んだくれの父親に苦しめられ、家族はいつ餓死してもおかしくないような極貧状態。ソーニャは家族を養うために身売りし、日銭を得ていたが、その少ない稼ぎも父親が飲み代に使ってしまうような、最悪の環境にあった。

にもかかわらず、神の教えを信じ、心正しく生きるソーニャに、ラスコーリニコフは「どうしたら卑しいものと聖なる感情が一緒にいられるのか」と不思議がり、最初は反発もするが、ついにはソーニャの慈愛に心を動かされ、自白へと至る。

ほんの六日間の出来事ながら、延々と続く心理描写に、今時のマンガみたいな小説を読み慣れている人は、うんざりするかもしれないが、本作が『現代の預言書』といわれるのは、まさにこの点にある。

ラスコーリニコフは貧苦と絶望から神を見失い、自分勝手な理屈で、二人の人間を死に追いやった。

彼は従来の殺人鬼に比べたら、いたって普通の人間であり、嫉妬や憤怒に駆られたわけでもない。

「自分の考えが正しいと思ったから、やった」

そこには、社会秩序も、神の教えも存在せず、ただただ「自分」というものが存在するだけである。

そして、その点が、まさに現代人の象徴であり、その傾向はいっそう加速しつつある。

今時、神の教えに耳を傾け、贅沢よりも施し、虚栄よりも質実を選ぶ人間が、どれほどいるだろう。

ちょっと影響力をもっただけで、まるで自分が神の如く振る舞う人間も確実に増えてないだろうか。

ラスコーリニコフの場合、得手勝手な非凡人理論をもたらしたのは、西洋で急速に進む科学技術や自由民主主義的な考え方だった。

信心深い田舎のおばあさんみたいな、ロシア社会とは真逆を行くもので、ラスコーリニコフは自分を見失い、身勝手な凶行に走ってしまった。

現代に喩えれば、SNSのインフルエンサーに惑わされる、純粋無垢な若者といったところ。

影響力のある人に、「そんな考え方は古い。これからの時代は~」と力説されたら、これまでの価値観をあっさり手放し、自分もそうなろうと背伸びする若い人も多いだろう。

そういう意味でも、「西洋かぶれ」のラスコーリニコフの極端な考え方は、現代にも当てはまるし、連載当時のロシア人より、むしろ現代の若者の方が共感するのではないだろうか。

これは海外の翻訳文学全般に言えることだが、『罪と罰』を読むなら、まずキリスト教の概念や新約聖書について事前学習しよう。

全てを網羅するのは大変だから、「原罪とは何か(旧約聖書)」「イエス・キリストの教えの真髄は何か」「聖書の有名なエピソード(主に西洋絵画の題材となっているもの。『罪と罰』の場合、ラザロの復活や罪深い女など)、この三点を抑えておくだけでも理解度が異なる。

そして、訳文を選ぶ時は、他人の書評や出版社のおすすめに惑わされることなく、自分の感性で選ぶこと。

一般にはどれほど高評価でも、文章のリズムや言い回しなど、文体が自分に合わなければ、かえって苦痛なだけである。

また、現代訳や新訳の中には、あまりにも現代の読者層にすり寄りすぎて、本質から外れたり、文章自体がおかしい悪文も存在するので、よくよく中身は吟味して欲しい。

でないと、最初の一冊で挫折して、「○○はつまらない」という感想を抱いたまま、一生終わるからだ。

訳文を変えれば、1万ページの長編も、するすると理解できるのは、私も体験済みである。 
(参考 : 『カラマーゾフの兄弟』江川卓訳をお探しの方へ(原卓也訳との比較あり))  

あるいは、最初に漫画版を読んで、ある程度、慣れ親しんでから、改めて原作に挑戦するのもありだろう。

ここでは、私が最初に読んだ米川正夫・訳と、私の最愛のロシア文学者、江川卓氏の謎解き『罪と罰』を中心に本作の見どころを紹介する。

『罪と罰』に関連する記事

漫画『DEATH NOTE』 なぜ人を殺してはいけないのか
優等生の夜神ライトは「世直し」と称してデスノートに悪人の名前を記し、大量殺人を図る。ドストエフスキーの『罪と罰』の世界観を交えて、なぜ人を殺してはいけないのか、 『優れた人間が悪い人間を削除していい、という考え方』『ライトの考えは独裁と同じ』『裁きは神の領域 ~真の善悪を知るのは神だけ』を説くコラム。
江川卓の『謎とき 罪と罰』 ~「罰とは何か」「ラスコーリニコフとソーニャの関係」「心情の美しさ ~文学者に恋をして」
ロシア文学の第一人者・江川卓氏がロシア語やキリスト教のモチーフなどから作品にこめられたメッセージを読み解くファン必読の解説本。一般読者向けに書かれた文芸コラムであり、ソーニャとラスコーリニコフの関係など突っ込んだ話題も楽しめる。「罰とは何か」「はじめに」などを画像入りで紹介。

米川正夫・訳(角川文庫)

当方が最初に読んだのは、昭和26年に刊行された『新潮文庫 「罪と罰」 訳 :米川 正夫 』である。

今となっては、古さを感じさせる箇所もあるが、全体に緻密で、格調高い文体である。

現在は、角川文庫から発行されている。

Kindle版もあるが、ドストエフスキーに関しては、紙の本で読んだ方がよい。

電子書籍だと、自分の立ち位置を見失い、前後の流れを確認したくても、どこに何が書かれていたか、紙本のようにさっと探し出すことができないので、途中で投げ出す可能性が大である。

罪と罰 上 (角川文庫)
罪と罰 上 (角川文庫)

新潮文庫の外観。

米川正夫 訳 新潮文庫の表紙

米川正夫 訳 新潮文庫

江川卓・訳(岩波文庫)

米川訳と同列でおすすめなのが、江川卓氏の翻訳。

現代風の訳文ながら、原典に忠実で、やさしい印象に仕上がっている。

初心者には、江川訳の方が読みやすいと思う。
(江川氏のロージャは昔のフジTVのトレンディドラマ風)

参考リンク : 心情の美しさ ~文学者に恋をして・江川卓の『謎とき 罪と罰』

罪と罰 上 (岩波文庫) 
罪と罰 上 (岩波文庫) 

小説を読む前に、謎解き本に目を通すのも一興である。
全編に仕掛けられた、クロスワードパズルのような設定に、読書体験もいっそう深まるはず。
詳細は、後述を参照されたい。

謎とき『罪と罰』 (新潮選書)
謎とき『罪と罰』 (新潮選書)

『罪と罰』の名言

米川正夫・訳(新潮文庫)で、特に気に入ったものをここに紹介する。

絵画は当方がセレクトしたイメージ画。新約聖書のエピソードに併せて、ピックアップした。

神様! どうかわたくしに自分の行くべき道を示してください

ところで、一たい人間は 何をもっとも恐れているんだろう?
新しい一歩、新しい自分自身の言葉、これを何よりも恐れているんだ。
一体、“あれ”が俺に出来るのだろうか?
そもそも“あれ”が真面目な話だろうか?

『神様!』と彼は祈った。
『どうかわたくしに自分の行くべき道を示してください。
わたくしはこの呪わしい……妄想を振り捨ててしまいます!』

屋根裏部屋に下宿する大学生のロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフは、貧しさに喘ぎながら、もう何日も一つの考えにとらわれている。

それは悪どい高利貸の老婆アリョーナ・イヴァーノヴナを殺害し、その金を善事に役立てるというものだ。

『無知で何の価値も無いような意地悪な婆”は生きていても仕方が無い――そんな婆はいっそ殺して、その金を万人の福祉に役立てた方がよっぽど有効ではないか?』

殺人は絶対悪だが、非凡人には正当化される。

すべての人間は『凡人』と『非凡人』に分かれ、ナポレオンやニュートンのような『非凡人』は、一線を踏み越えて、新しい法律を作る権利を有する――というのが彼の理論だった。

そんな彼も、一度は良心の咎から誘惑を絶ちきろうとする。

しかし、彼は偶然、翌日の夜7時に、金貸しのアリョーナが一人きりになることを聞きつけ、その後、安料理屋の隣のテーブルで、彼とまったく同じ考えを口にする大学生と将校の会話を耳にする。

【楽園追放 】~ The Fall from Grace ~ ミケランジェロ・ブオナローティ Michelangelo Buonaroti

【楽園追放 】~ The Fall from Grace ~ ミケランジェロ・ブオナローティ Michelangelo Buonaroti

一つの生命のために、数千の生命が堕落と腐敗から救われる

やつを殺して、やつの金を奪う、ただしそれは後でその金を利用して、全人類への奉仕、 共同の事業への奉仕に身を捧げるという条件付きなのさ。
どうだね、一個の些細な犯罪は、数千の善事で償えないものかね?
たった一つの生命のために、数千の生命が堕落と腐敗から救われるんだぜ。
一つの死が百の生にかわるんだ。

大学生と将校の会話は、ラスコーリニコフには天の啓示のように聞こえ、ついに殺人を決行する。

しかし、たまたまその場に居合わせた、老婆の善良な妹リザヴェーダまで殺害したことで、彼は激しい罪の意識に苛まれるようになる。

参考 一つの生命を代償に、数千の生命を堕落と腐敗から救う ~ドストエフスキーから永遠の問いかけ(江川卓・訳)

非凡人は自己の良心を踏み越える権利を有する

即ち、『非凡人』は、ある種の障害を踏み越えることを自己の良心に許す権利を持っている。
人は自然の法則によって、概略二つの範疇にわかれている。
つまり自分と同様なものを生殖する以外に何の能力もない、いわば単なる素材に過ぎない低級種族(凡人)と、いま一つ真の人間、即ち自分のサークルの中で新しい言葉を発する天稟なり、才能なりを持っている人々なのです。
第一の範疇は現在の支配者であり、第二の範疇は未来の支配者であります。
第一の範疇は世界を保持して、それを量的に拡大して行く。
第二の範疇は世界を動かして、目的に導いて行く。
だから両方とも同じように、完全な存在権を持っているのです。

老婆殺害を正当化するにあたり、ラスコーリニコフが引き合いに出すのが、フランスの英雄ナポレオンだ。

ナポレオンのように突出した『非凡人』は、自己の理想を実現する為に、正義や法律を踏み越える権利を持っている、と。

老婆の殺人事件を追う判事ポルフィーリィは、『非凡人はすべてを踏み越える権利を持つ』と説いた彼の論文に着目し、ラスコーリニコフを厳しく追及する。

【 ナポレオンのアルプス越え】Napoleon Crossing the Saint Bernard ジャック・ルイ・ダヴィッド Jacques Louis David

【 ナポレオンのアルプス越え】Napoleon Crossing the Saint Bernard ジャック・ルイ・ダヴィッド Jacques Louis David

非凡人があらゆる障害を除き始めたら、その時は……

ラスコーリニコフの非凡人説に対し、ポルフィーリは次のように問う。

一体どいういうところで、その非凡人と凡人を区別するんです?
生まれる時に何かしるしでもついてるんですか。
さもないと、もしそこに混乱が起こって、一方の範疇の人間が、自分はほかの範疇に属してるなどと妄想を起こして、あなたの巧い表現を借りると、『あらゆる障害を除き』始めたら、その時はそれこそ……

『その時はそれこそ……」に続く言葉は、「あらゆる悪が正当化される」といったところだろう。

これが単なる小説の台詞ではなく、現代に向けた預言であることは、近年に起きた事件を見ればよく分かる。

自分自身の価値判断だけで、善悪や要不要を決めつけ、自分の気に入らないものや、不要なものは、徹底的に排除し、時に、抹殺したりする。

「一方の範疇の人間が、自分はほかの範疇に属してるなどと妄想を起こして、『あらゆる障害を除き』始めたら……」という言葉の先にあるのが、現代の様々な社会問題だ。

しかし、ポルフィーリィは、こうも問いかける。

では、その男の良心はどうなるのか?

すると、さっきまで調子よく切り返していたラスコーリニコフの論調がはたと鈍ってしまう。

そんな反応を見て、ポルフィーリィはさらにラスコーリニコフを追及し、疑念を確信へと変えていくのだ。

殺したのは老婆ではなく、自分の良心

「その男の良心はどうなるのか?」という問いかけに対し、結果が如実に表れているのが、老婆殺害の場面だ。

江川卓氏の「謎とき『罪と罰』」 でも言及されているが、ラスコーリニコフは老婆を峰打ちにしている。

つまり、斧の刃は自分自身に向けられており、それが意味するところは、良心の死である。

しかも、偶然その場に居合わせた妹のリザヴェーダに対しては、刃を振り下ろしており、こちらは完全な殺人である。

そして、その事が、ラスコーリニコフの良心に重くのしかかり、罪の告白へと至る。

本作は、非凡人思想=原罪(知恵の実を食べて、神のように賢くなろうとする)を犯したラスコーリニコフが、信心深いソーニャを通して神の義に立ち返り、救済される物語であり、ここで問われる『良心』は、人間としての良心と信仰心の二つをかねると解釈すると、分かりやすい。

人を斬り殺してもいい、ということになりますよ

ラスコーリニコフは、最愛の家族を田舎に残して、ペテルブルグにやって来た。

利発で美しい妹のドゥーネチカと、父亡き後、必死で二人の子供を育て上げた母親だ。

しかし、ドゥーネチカは、困窮した兄を助けるために、愛してもない金持ちの男ルージンと婚約する。

妹の献身は、ラスコーリニコフの心に重くのしかかり、ますます追い詰める結果となる。

以下の台詞は、『己一人のみ愛せよ、何となれば、この世の一切は個人的利益に基づけばなり』と、個人の利益追求が社会全体に利益をもたらすと説くルージンに対し、ラスコーリニコフが切り返す言葉。

あなたがさっき主張したことを、極端まで押しつめると、
人を斬り殺してもいい、ということになりますよ……

ここで言及される究極の利己主義は、ラスコーリニコフの「あくどい金貸し老婆を殺害し、奪った金を社会に役立てる」という考えに共通する。

表現は違えど、ルージンも、ラスコーリニコフも、自身の価値観に基づき、ものの善悪や要不要を決めつけているからだ。

『罪と罰』が現代の預言書と呼ばれるのは、教会(神の教え)が求心力を失い、各々が身勝手な欲求に基づいて行動する社会の到来を予言している点にある。

ラスコーリニコフがルージンを憎悪するのも、自分自身を重ね見ているからだろう。

生きたい、生きたい、ただ生きてさえいられればいい!

ラスコーリニコフは、非凡人思想に突き動かされながらも、一方で良心の咎に苦しむ。

老婆殺しを決行するには、彼はあまりに優しく、純粋な青年だからだ。(ルージンのような厚顔無恥にはなれない)

一人の死刑を宣告された男が、処刑される一時間前にこんなことをいうか、考えるかしたって話だ。
もし自分がどこか高い山の頂上の岩の上で、やっと二本の足を置くに足るだけの狭い場所に生きるような羽目になったら、どうだろう?
周りは底知れぬ深淵、大洋、永久の闇、そして永久の孤独と永久の嵐、この万尺の地に百年も千年も、永劫立っていなければならぬとしても、今すぐ死ぬよりは、こうして生きている方がましだ。
ただ生きたい、生きたい、生きて行きたい!
どんな生き方にしろ、ただ生きてさえいられればいい!
この感想は何という真実だろう! ああ、全く真実の声だ!
人間は卑劣漢にできている!
またそういった男を卑劣漢よばわりするやつも、やっぱり卑劣漢なのだ。

ラスコーリニコフの独白は、神から離れ、心の拠り所をなくした人間の心情を物語っている。

彼の人生で象徴的なのが、「父の死」だ。

単なる父親不在ではなく、彼の中から、天の父=神が失われた状態も意味する。

ラスコーリニコフの悩みに答えてくれる人はなく、ただただ、迷いと葛藤があるだけだ。

そして、上記のような激しいアンビバレンツを経て、一線を越えてしまったラスコーリの悲劇がいっそう際立つ。

洗うがごとき赤貧となると、自分で自分を侮辱するようになる

思いあぐねるラスコーリニコフは、ふと立ち寄った酒場で、退職官吏のマルメラードフに出会う。
マルメラードフは、せっかく得た生活費もみな酒代に使い込んでしまうような酔っぱらいだ。
家族が食いつなぐために、とうとう娘ソーニャに身売りまでさせるが、そのわずかな稼ぎも飲み代にしてしまう、救いようのない男である。

貧は悪徳ならずというのは、真理ですなあ。
ところで、洗うがごとき赤貧となるとね、書生さん、洗うがごとき赤貧となるとこれは不徳ですな。
素寒貧となると、第一自分のほうで自分を侮辱する気になりますからな。

この言葉は「貧しさ」の本質を突いている。
「自分で自分を侮辱する気になる」というのは、貧しさゆえに自尊心が傷ついた人間の本音と言えるだろう。

どんな人間にしろ、行くところが必要

どんな人間にしろ、せめてどこかしら行くところがなくちゃ、やり切れませんから。

深い言葉である。

「行くところ」は、いわば心の拠り所。

退職官吏のマルメラードフは、社会との接点もなく、家族からも愛想を尽かされた、ボロ雑巾みたいな男だ。

仲のいい友人もなければ、敬意を払ってくれる人もなく、社会の隅っこでぽつねんと生きている。

人間が社会的存在であることを考えると、どこにも行くところがないのは生殺しのような状態であり、誰にも必要とされず、やるべき仕事もないのは、虚しさの極みといえるだろう。

その気持ちを、マルメラードフは「やりきれない」という言葉で表現している。

そして、この「やりきれなさ」は、心の拠り所を失った現代人の孤独と不安を見事に言い当てているのではないだろうか。

神様だけが、われわれを憐れんでくださる

ただ万人を哀れみ、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐れんでくださる。
最後の日にやって来て、こう訊ねて下さるだろう。
『意地の悪い肺病やみの継母のために、他人の小さい子供らのために、われと我が身を売った娘はどこじゃ?
さあ来い! わたしはもう前に一度お前を赦した……
もう一度お前を赦してやったが……今度はお前の犯した多くの罪も赦されるぞ……』
こうして、娘のソーニャは赦されるのだ。

飲んだくれのマルメラードフにも良心の痛みがあった。

それは最愛の娘ソーニャを娼婦にまで落としてしまったことだ。

マルメラードフは馬車に轢かれて命を落とすが、最後には、娘ソーニャの腕の中で息を引き取ることが叶う。
(そして、この一件がラスコーリニコフとソーニャを引き合わせるきっかけになる)

この場面は、物語の後半、ラスコーリニコフの「良心の回帰」の伏線になっていて、本作の重要なキーワードである『赦し』が初めて登場する。

この『赦し』の意味を正しく理解するか否かで、読後感も大きく違ってくる。

ある意味、この場面に、作品の本質が集約されていると言っても過言ではない。

【マグダラのマリア】- Mary Magdalene - ティツィアーノ Tiziano Vecelio

【マグダラのマリア】- Mary Magdalene - ティツィアーノ Tiziano Vecelio

信心深い娼婦 ソーニャ

マルメラードフの死をきっかけに、ラスコーリニコフは信心深い娘のソーニャと出会う。
娼婦に身を落としても、決して神の教えを忘れない高潔な女性だ。

『じゃ、なんですの、カチェリーナ・イヴァーノヴナ(ソーニャの継母)、私どうしてもあんなことをしなくちゃなりませんの』
『それがどうしたのさ。何を大切がることがあるものかね? 大した宝物じゃあるまいし!』
ソーニャは立ち上がりましてな、ショールをかぶって、マントを引っかけ、そのまま家を出て行きましたが、八時過ぎに戻ってきました。
はいるといきなり、カチェリーナのところへ行って、黙って三十ルーブリの銀貨をその前のテーブルにならべました。
やがてカチェリーナが、これもやはり無言で、ソーニャの寝台の傍に寄りましてな、一晩じゅうその足元に膝をついて、足に接吻しながら、やがて二人はそのまま一緒に寝てしまいました…

しかし、そんなソーニャの犠牲と献身も、ラスコーリニコフの目には次のように映る。

ああ、えらいぞ、ソーニャ!
だが何といういい井戸を掘りあてたものだ!
しかも、ぬくぬくとそれを利用している!
平気で利用してるんだからな!
そして、ちょっとばかり涙をこぼしただけで、すっかり慣れてしまったんだ。
人間て卑劣なもので、何にでも慣れてしまうものだ。

身売りすることにより、キリストの教えから「一線を踏み越えた」ソーニャは、いわば殺人者のラスコーリニコフと同類だ。

最初は泣いて悲しんでも、いずれその悪に染まって、何も感じなくなってしまう、というのが、彼のソーニャに対する第一印象である。

ゆえに、ラスコーリニコフがソーニャに罪を告白した時も、次のように叫ぶ。

「今の僕にはお前という人間があるばかりだ。
僕らはお互いに詛(のろ)われた人間なのだ。
だから一緒に行こうじゃないか!
お前もやっぱり踏み越えたんだよ……どうしたらいいかって?
破壊すべきものを一思いに破壊してしまう、それだけのことさ。
そして苦痛を一身に負うのだ!」

「一緒に行こう」というのは、神から離れて、利己的な人生を生きよう、という誘いだ。

ここで言われる「破壊すべきもの」というのは、いまだ心に残っている人間としての良心と信仰であり、ラスコーリニコフはそれらの一切を捨て去り、欲望のおもむくままに生きようとソーニャを誘っているのである。

しかし、ソーニャの信仰心は揺るがない。

キリストを信じ、「神様が守ってくださいます!」と繰り返す彼女に対し、ラスコーリニコフは意地悪な言葉をぶつける。

だが、もしかすると、その神様さえ、まるでないのかもしれませんよ。
【 トマスの疑い 】- Doubting Thomas - ルカ・シニョーリ Luca Signorelli

【 トマスの疑い 】- Doubting Thomas - ルカ・シニョーリ Luca Signorelli

『トマスの疑い』は、十二人の使徒の一人である聖トマスが、イエスの復活を信じず、掌の傷と脇腹の傷に指を入れてみるまでは信じない、と言った新約聖書のエピソードに基づく。詳しくは、使徒トマスの疑いの絵画15点。キリストの復活が信じられず、傷口に指を入れてしまう

どうして賤しいことと神聖な感情が両立できるのか?

ラスコーリニコフ曰く、「ソーニャの取るべき道は三つある。濠へ身投げするか、病院に入るか、淫蕩の直中へ飛び込むか」。

にもかかわらず、ソーニャは心の清浄を保ってきた。

何故なら、信仰心ゆえに、『罪』の観念を失うことがなかったからだ。

それを悟った時、ラスコーリニコフは敬虔な気持ちでつぶやく。

どうしてそんなけがらわしい賤しいことと、
それに正反対な神聖な感情が、ちゃんと両立していられるんだろう?

私がソーニャなら、「それが人間だから」と答える。

ラザロの復活と良心の回帰

ソーニャの神性に胸を打たれたラスコーリニコフは、彼女のタンスの上にあった新約聖書の『ラザロの復活』を読んでくれるよう求める。

ラザロの復活は、『ヨハネの福音書』に記されている。

マリアとマルタの兄弟ラザロが、病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、それを知らせた。
イエスはマリア、マルタ、ラザロを愛していた。
イエスが行くと、四日前にラザロは亡くなっていた。
イエスは涙を流し、どこに葬ったか訊ねた。
墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスはその石を取りのけるよう言った。
マリアは「四日もたっていますから、もうにおいます。」と言った。
イエスは、信じるなら神の栄光がみられる、と言った。
人々が石を取りのけると、イエスは天をあおいで言った。
「父よ、わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。
あなたがわたしの願いを聞き入れてくれるのは、周りの人々に信じさせるためです。」
こう言ってから、「ラザロ、出てきなさい」と叫んだ。
するとラザロが、手と足を布で巻かれたまま出てきた。
顔は覆いで包まれていた。
イエスは周りの人々に「ほどいてやって、行かせなさい」と言った。

死者が墓場から蘇る、インチキみたいなエピソードだが、これはキリストによる心の目覚めを描いた寓話とされている。

「死んだラザロ」とは、信心をなくした人間であり、「信じるなら神の栄光が見られる」というのは、「あなたが神の教えを信じるなら、迷いや苦しみから解き放たれ、真の心の平和と命を得ることができる」という教えである。

つまり、ラスコーリニコフは、二つの殺人によって良心が死んだラザロであり、ソーニャが彼の良心を蘇らせる聖なる存在であることを示唆している。

ソーニャによって『ラザロの復活』が語られるのは、小説の第Ⅳ編――死んだラザロがキリストの呼びかけによって蘇る「四日目の奇跡」になぞらえている。
(ちなみに、『罪と罰』は、神が世界を創造した『7日間』に併せて、七つの章から構成されている)

【ラザロの復活 】- Raising of Lazarus - レンブラント・ファン・レイン Rembrandt van Rijn

【ラザロの復活 】- Raising of Lazarus - レンブラント・ファン・レイン Rembrandt van Rijn

僕はお前に頭を下げたのじゃない。人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ

ソーニャがラスコーリニコフに読んで聞かせる聖書は、彼が殺したリザヴェーダがソーニャに与えたものだった。

その感動の余韻を、ドストエフスキーは次のように著している。

江川氏の解説によると、二人の座っている位置から考えて、男女の交わりがあったのではないか……という話。

歪んだ燭台に立っている蝋燭の燃えさしは、
奇しくもこの貧しい部屋の中に落ち合って、
永遠な書物をともに読んだ殺人者と淫売婦を、
ぼんやり照らし出しながら、もうだいぶ前から消えそうになった。

そうして、ソーニャの美しい心に打たれたラスコーリニコフは、彼女の前で全身を屈め、涙する彼女の足に接吻する。

僕はお前に頭を下げたのじゃない。
僕は人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ。

歴史に残る名セリフである。

この描写について、江川足は次のように解説されている。

ちなみに、「僕は人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ」というのはドストエフスキーの切実な心の声だろう。
人類普遍の問題について、何が救済となるか。神が与えた命題に、どう答えるか。
徹底的に考え抜いたドストエフスキーの答えが、この一文に凝縮されていると思う。
これはまた、『大審問官』におけるアリョーシャのキスに通じるものがある。(カラマーゾフの兄弟)
神でさえ救いきれない地上の葛藤に対して、神ができることといえば、その葛藤も含めて愛すること、そして、人間にできることといえば、ただただその不幸に頭を下げる以外にない……という意味で。

いま世界中であなたより不幸な人は、一人もありませんわ!

そうして、ラスコーリニコフは、自分が犯人であることをソーニャに告白し、ソーニャは次のように答える。

「何だってあなたはご自分に対して、そんなことをなすったんです!」
「お前はなんて妙な女だろう。僕がこんなことをいったのに、抱いて接吻するなんて。お前、自分でも夢中なんだろう」
「いいえ、いま世界中であなたより不幸な人は、一人もありませんわ!」
「じゃ、お前は僕を見捨てないんだね、ソーニャ?」
「わたしはあなたについて行く、何処へでもついて行く!
わたし懲役へだってあなたと一緒に行く!
【マグダラのマリア】~Mary Magdalene ~ドメニコ・フェティ Domenico Feti

【マグダラのマリア】~Mary Magdalene ~ドメニコ・フェティ Domenico Feti

いったい僕はあの婆を殺したのか? いや、僕は自分を殺したんだ!

ソーニャに罪を告白することで、ラスコーリニコフはようやく真理を悟る。

「いったい僕はあの婆を殺したんだろうか?
いや、僕は自分を殺したんだ、婆を殺したんじゃない!
僕はいきなり一思いに、永久に自分を殺してしまったんだ!」

「お立ちなさい! 今すぐ行って、四辻にお立ちなさい。
そして身を屈めて、まずあなたが汚した大地に接吻なさい。
それから、世界じゅう四方八方に頭を下げて、はっきり聞こえるように大きな声で、
『私は人を殺しました!』とおっしゃい!
そうすれば神様がまたあなたに命を授けてくださいます。
行きますか? 行きますか?」

ここに老婆殺しの本質と「復活」の主題が集約されている。

冒頭に登場したマルメラードフの死と赦しの伏線が、ここで大きく実を結び、ラスコーリニコフの魂の救済へと導く。

七年、たった七年! でも愛してる

ついに警察に自首したラスコーリニコフは、シベリアに流刑になり、ソーニャも彼についてシベリアに旅立つ。

しかし、受刑中も、ラスコーリニコフは一向に罪を悔いることがなく、しまいに他の受刑者たちから、「この不信心者め!」と反感を買うようになる。(ちなみに、ここでいう「悔い」とは、宗教的な改悛のこと。罪を認め、警察に自首するのは、社会的行動の範疇)

やがて、ラスコーリニコフとソーニャは二人して病気になり、しばらく会えない日が続く。

そして、ようやく再会したある日、彼の心に劇的に改悛の情が訪れ、二人は互いの愛を確信して、新しい日々に向かうのだった。

どうしてそんなことが出来たか、彼は自身ながらわからなかったけれど、不意になにものかが彼を引っ掴んで、彼女の足元へ投げつけたような具合だった。
彼は泣いて、彼女の膝を抱きしめた。
彼女はさとった。
男が自分を愛している、
しかもかぎりなく愛しているということは、彼女にとってもう何の疑いも無かった。

ついにこの瞬間が到来したのである。
二人の目には涙が浮かんでいた。

彼らは二人とも蒼白くやせていた。
しかし、この病み疲れた蒼白い顔には、新生活に向かう近い未来の更正、完全な復活の曙光が、もはや輝いているのであった。
愛が彼らを復活させたのである。
二人の心はお互い同士にとって、生の絶えざる泉を蔵していた。

七年、たった七年!
こうした幸福の初めのあいだ、彼らはどうかした瞬間に、この七年を七日とみなすほどの心持ちになった。

ドストエフスキーは、本作を構成するにあたって、ネーミング、章立て、聖書や蝋燭などの小道具に至るまで、キリスト教に象徴されるものを用いている。

7年という歳月も、天地創造の7日間になぞらえたものであり、キリスト教徒が見れば、「7」という数字だけで、全てが理解できるのだ。

この魂の復活劇を大仰と揶揄する声もあるようだが、本作は推理や不条理を期待して読む物語ではない。

『罪と罰』は、小説に形を借りた伝道書であり、そこから離れようとする現代人に対する戒めでもある。

神は死んだ」、その後に、我々は、神に代わる心の指針を見出すことができるのだろうか。

江川卓の『謎とき 罪と罰』 ~理解を深めるために

『罪と罰』の愛読者なら併読すべきが、ロシア文学者・江川卓氏の 謎とき『罪と罰』 (新潮選書)だ。

ご自身も日本語訳を手がけておられるだけあって、作品に対する理解や雑学はもちろん、ドストエフスキーに対する熱い思いが随所に感じられる、ファン垂涎の品である。

作品が書かれた時代背景や動機は言うに及ばず、人物のネーミング、作中に登場する数字、キリスト教との関わりなど、専門家ならではの的確な分析に加え、ドストエフスキーが精巧に張り巡らせた設定のパズルを一つ一つ解き明かす推理小説的な面白さもあり、原作体験とはひと味違う『罪と罰』の世界を満喫できる。

たとえば、

小説の冒頭、ラスコーリニコフの窮乏ぶりと異常な精神状態が語られるくだりに、次のような一説がある。

「彼は貧乏に押しひしがれていた。だが近頃では、この窮迫した状態ですらいっこう苦にならなくなった。自分のナスーシチヌイな仕事もすっかりやめてしまい、どだいその気がなかった」

わざわざロシア語で書いた「ナスーシチヌイ」という形容詞は、ふつう「その日その日の」とか、「しなければならない当面の」といったふうに翻訳される。
辞書にも「緊要な」「日々の」といった語義が出ており、当然、これを誤訳ときめつけるわけにはいかない。

ただ、どうしても引っかかるのは、この「ナスーシチヌイ」という形容詞が、日常にはめったに使われない、ほとんど文語的な語感をもった言葉だということである。
すこし先まで読めばわかるように、内容的には、これは家庭教師のアルバイトを指している。

それでは、なぜドストエフスキーは、「アルバイトもやめてしまい」とはっきり書かないで、意味もあいまいな、文体的にも不釣り合いな「ナスーシチヌイ」などという言葉を選んだのだろうか。いまの私の考えでは、ここには意味論のレベルを超えたある考慮が働いているように思われる。

当時のロシアの子供たちが、ほとんど三歳の頃から、意味も分からずに暗誦させられていたポピュラーなお祈りに、マタイ福音書六章の「天にましますわれらの父よ」がある。その一節に、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」の一句があることは、キリスト教信者ならずとも知っているだろう。
ところが、ここに出てくる「日用の」という言葉が、ロシア語ではやはり「ナスシーチヌイ」なのである。

外国文学が日本語訳されると毛色の違うものになってしまう理由の一つに「ダブル・ミーニング」がある。

一つの単語が何重もの意味を持っていたり、あるいは全く違う意味を兼ねていることから、日本語に置き換えると、原語に託された幾つもの象徴がかき消されてしまうのである。

たとえば、英語の「present」は、「現在」という意味の他に「贈り物」「上演する」「引き起こす」といった様々な意味をもつ。
前後の文脈から「現在」か「贈り物」かは容易に察しがつくだろうが、作者は「present」という言葉に「今この瞬間の恵みと悦び」というニュアンスを込めて使っているかもしれない。
しかし、日本語訳されてしまうと、一方のニュアンスが打ち消され、意味が限定されてしまうことがある。
オリジナルを知りようがない日本語訳の読者は、それをそのまま作品の意図として受け取ってしまうから、そこに乖離が生じてしまうのである。

本当に外国文学を極めたいなら原語で読むのが基本とされるのは、まさにこの一点にあり、それはドストエフスキーの『罪と罰』においても全く同様である。

上記の「ナスシーチヌイ」をはじめ、作品のキーワードとも言うべき「ペレストゥーピチ(踏み越える、またぐ)」の持つ意味、「ラスコーリキ(ロシア正教会から分裂した分離派)」になぞらえた「ラスコーリニコフ」というネーミングなど、ロシア文学ならではの魅力が豊かに広がり、それは日本語訳からは到底近づき得ないものである。

とはいえ、今の日本で、どれほど「ドストエフスキー通」を自負しようと、原語ですらすら読める人が何人いることか。

となると、私のような「凡人」は、せめて江川先生の『謎とき本』を手にとって、二重、三重にも張り巡らされたドストエフスキーの文学パズルを垣間見るしか術がないようである。

ちなみに、江川先生の解説によると、「ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ」のロシア語綴りの頭文字をつなげるとPPPになり、これはすなわちキリスト教『黙示録』に登場する悪魔の象徴『666』を示唆するという。

──「この刻印はかの獣の名、あるいはその名を表す数字である。ここにそれを解く鍵がある。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。この数字は人間の名を指している。その数字は666である」──
(オカルト映画『オーメン』の悪魔の子・ダミアンがこの印を髪の中に隠し持っていた)

『罪と罰』にオカルトまで絡んでくるとなれば、これはもう読むしかない。

目次

「謎とき」とは? / 精巧なからくり装置 / 666の秘密
パロディとダブル・イメージ
ペテルブルグは地獄の都市
ロジオン・ラスコーリニコフ=割崎英雄
「ノアの方舟」の行方
「罰」とは何か / ロシアの魔女 / 性の生贄
ソーニャの愛と肉体 / 万人が滅び去る夢
人間と神と祈り/13の数と「復活」

ドストエフスキーのおもしろさ―ことば・作品・生涯

もう一つのおすすめ本。

学生向けのジュニア本だが、解説は本格的。

中学生向けに書かれたドストエフスキーのアンソロジー集。
まさに名作・名文のおいしいとこ取りで、いきなり本作を読むのはどうも……という方に、うってつけの一冊。
現在、入手不可とのことだが、図書館にはあるかもしれない。
気軽にドストエフスキーに親しみたいという初心者はぜひ。

目次

小説のなかの人びと / こころの暗がり / 人生の重荷
生きるよろこび / ロシアの光景
宗教と科学のあいだで/ ゆれうごく社会
作家たちと / ドストエフスキーの生涯

ドストエフキスーの文学には若者の魂を奥底から衝き動かす力があります。
極貧と絶望の果てに殺人へと駆りたてられるラスコーリニコフ、充たされぬ生活から大富豪を夢見るアルカージーなど彼の描く人物像は、時代を越えて現代人の内面を映します。
『罪と罰』『未成年』はじめ主要作品の短い言葉からその魅力に迫る。

初稿:1998年秋 HP【Clair de Lune】より

米川正夫 訳 新潮文庫の表紙

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

Notes of Life

人生は『時間』によって作られます。 年を取るほど、1分の価値は貴重です。 若い時に為すべき事は、自分の持ち時間を何に使うか考えることです。 消費、浪費、空費、徒費。 過ぎ去った時間は二度と戻ってきません。 一日、悪口で過ごすのも 一日、園芸を楽しむのも 同じ人生です。

この記事を書いた人

MOKOのアバター MOKO 著者

作家・文芸愛好家。80年代サブカルチャーの大ファン。アニメから古典文学まで幅広く親しむ雑色系。科学と文芸が融合した新感覚のSF小説を手がけています。看護師として医療機関に勤務後、東欧に移住。石田朋子。
amazon著者ページ https://amzn.to/3btlNeX

Notes of Life

『嘘は人間を弱くする』SNSの時代、嘘はすぐにバレるし、身元を特定されるのも早いです。 元同僚。元彼氏。元従業員。 アカウントの数だけ、人の口も存在します。 どれほど表面を取り繕っても、嘘はすぐにバレます。 正直で損するより、嘘がばれた時のコストの方がはるかに高くつきます。
目次 🏃
閉じる