映画『ホワイトナイツ』が公開された時、私は高校生だったので、まだバレエにも興味がなく、ラジオから繰り返し流れるライオネル・リッチーの主題歌「say you, say me」をぼんやり聞き流すのみだった。
当時、「ミハイル・バリシニコフ」が世界的にも有名なダンサーで、彼が旧ソ連からアメリカに亡命した時には芸能ニュースがメインの婦人週刊誌でもちょっと話題になるほど衝撃的ではあったようだが、バレエに興味の無かった私にとっては「ルックスのいい人気者がハリウッド入りした」ぐらいの印象しかなくて、「ミーシャ(愛称)」をきっかけにバレエの扉を叩いてみよう――という気持ちにはついにならなかったのである。
しかしながら、それから十数年が経ち、ようやくバレエの素晴らしさに目覚めた頃、準夜勤務明けで眠れぬ私の目にそれよりはるかに衝撃的な映像が飛び込んできた。
『若者と死』。
名作「ホワイトナイツ」のプロローグを飾るローラン・プティの傑作である。
それは深夜番組の枠でたまたま放送されたのだが、眠いような、眠りたくないような、鬱々とした気怠さの中で、ミーシャの死の幻想に取り憑かれた煩悶の表情は、まるで自分自身の破滅を予告しているように暗く、恐ろしく、またこれほど生々しく訴えかけるものもなかった。
内に閉ざされた狂気と絶望、失意、哀しみ、孤独といったものを踊りで表現するとしたら、まさにこれ以上のものはないと思うくらい「完全な具現化」だった。
「若者」と「死」。
それは一見相反するような位置にあるが、これほど強烈に背中合わせに結びついているものもない。
「若者」にとって「死」は遠い幻想のようなものだが、だからこそ、その中に安らぎを求め、身を投げ入れてみたい衝動にも駆られる。
日々、猛り狂うような情熱を持て余している魂には、「死」こそが唯一の慰めなのだ。
ここに登場する黄色い服の女は、彼の思い人であり、彼に残されたただ一つの希望でもある。
彼はそれにすがり、情けを得ようとするが、女は冷たく彼をあしらい、死を選ぶことを示唆する。
若者にとって死は本望ではない。にもかかわらず、その誘惑に抱き込まれるように絞首台に上がってしまう。
彼には生命の尊さなどどうでもいい。死によって狂える魂から解き放たれば、それ以上の幸福はないのだ。
若者が死んだら、人々は「なぜ?」と問いかけるだろう。
でも、これほど分かりやすい話もないのである。
なぜって、若者は苦悩を切り開くだけの知恵も力もない。
あるのは肥大しきった自我と収まりのつかない感情だけである。
それを断ち切るのに、努力や理想論がどれほど役に立つというのか。
単純に道を求めるなら「死」こそが唯一の救いだ。
そこに何のためらいもなく安らぎを求める気持ちに偽りはない。
死の女神に髑髏の仮面を付けられ、あの世に導かれていく時の安らぎに満ちた表情が全てを物語っている。
若者が死の女神に祝福されて、都会の無機的な眺めの向こうに清々しく明けた光の彼方へ旅立って行く時、私たちは恐怖よりもその慈悲深さを思わずにいないのである。
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初稿 2010年5月1日