プロ VS 素人 権威主義・商業主義を生みだす背景

オペラハウス

どこの世界にも異端視される人はいますが、ピアニストのフジ子・ヘミング女史は、その最たるものでしょう。

ヘミング女史は、優れたピアニストでありながら、欧州デビューの直前、風邪をこじらせて聴力を失い、数十年を不遇の中で過ごしました。

ところが、NHKドキュメント番組『フジコ〜あるピアニストの軌跡〜』(1999年)が放送されるや否や、視聴者の心を鷲づかみにし、CDデビューはもちろん、海外リサイタルを果たすほどの人気者となりました。(参考 成就の秘訣は『根気・本気・運気』 ~フジ子・ヘミングの『運命の力』より

しかし、今なお聴覚障害を抱え、王道的なメソッドもお構いなしに、自由奔放に弾くスタイルは、アカデミックな界隈からの反発も大きく、「フジ子・ヘミングが好き」と言うだけで、キワモノ扱いされることもあります。

以下は、そうした プロ VS 素人の対立をテーマにしたコラムの抜粋です。

「フジ子・ヘミング現象」の何が問題なのか?   冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

私はこの妙な対立の背後には深刻な問題があるように思うのです。それは、結局のところ専門家や音楽ファンは「フジ子・ヘミングの演奏に感動している人」をバカにしているという問題です。例えば、ヘミング女史の演奏を聞いて初めてショパンの魅力を知った人に対して、「ノクターンだけでなく、マズルカやバラードも聞いてみれば?」とか「エチュードは全部で12曲のものが2セットあって、有名なものをバラバラに聞くのもいいけど、続けて聞くと全体の構成がカッコ良いんですよ」というようなアドバイスならまだ分かります。

ですが、「アノ人の演奏はダメ。例えばショパンなら、ポリーニとか、ピレシュとか、ブレハッチを聞きなさい」という言い方では、折角ヘミング女史の演奏を聞いて「初めてピアノの音楽で感動した」人に対して、その感動の体験を否定してしまうことになります。それは、その人の人格を否定していると言っても構わないでしょう。そのように人を見下した姿勢がその世界の「敷居を高くしている」ということに反省がなくては、「フジ子現象」をクラシック音楽愛好家の裾野の拡大に結びつけることはできないと思います。

私の言いたいことは、すべてこの一文に集約されています。

クラシック・ピアノに限らず、ジャズも、文学も、美術も、同様です。

人が人を好きになるのに、理由などありません。

TVでたまたま目にして好きになったとか、友人に推されて一緒に視聴するうちに夢中になったとか、動機もいろいろです。

こと素人においては、自身が「きれい」「すごい」と心動かされることが第一で、「人に勧められたから」「偉い人が名作といってるから」というのは真の動機になりません。

一時期、いいなと思っても、自分の感性に合わなければ、(何か違うんじゃないか)と疑うこともあります。

そういう意味で、素人こそ、一番敏感で、率直なオーディエンスかもしれません。

しかしながら、それをストレートに口に出すと、『プロ』と称する人からボコボコに叩かれることがあります。

素人に何が分かる」という問答無用の非難です。

フジ子・ヘミング女史など、その典型でしょう。

ヘミング女史は、クラシック界においては異色の存在ですし、アカデミックな教育を受けた人から見れば、「何、これ。皆がチュチュを着て踊っているのに、一人だけ好き勝手な格好で踊ってる」 みたいな感覚だと思います。

しかし、ヘミング女史の演奏には、どこか大衆を惹きつけるものがあるのは事実ですし、エッセーも、イラストも、刺さる人には刺さります。

それなのに、「フジ子・ヘミングが好きだ」と言っただけで、「あなたはクラシック音楽を分かってない」「これだから素人は・・」みたいに反論されたら、誰も何も言えなくなりますね。

アカデミックな教育を受けた人だけが真の審美眼を持ち、音楽について語る資格があるというなら、演奏会も身内でやればいいのです。

でも、それでは飯が食えない。一般のお客さんにも来て欲しい。だが、フジ子ヘミングは聴くな、と言うなら、高飛車と取られても仕方ありません。

なぜなら、大衆の九割は素人であり、プロの蘊蓄を聞きに来ているわけではないからです。

「素人は黙れ」の風潮の中で、批評も専門家の間だけで取り交わされれば、批評文化も廃れ、一握りの評論家、一握りの権威だけが力を持つようになるでしょう。

でも、その人たちが、いつも正しい事を言ってるわけではないし、作品の評価など、時代が変われば、天国から地獄に一変します。(今、米国で吹き荒れている、キャンセルカルチャーがいい例です)

そもそも、一部の意見だけで、作品の評価が固定されてしまうような世界を、誰が面白いと思うでしょうか。

批判もなく、疑問もなく、皆が「いいね!」と頷き合う世界は、単なる同好会です。

一流人が切磋琢磨する芸術の世界ではありません。

そうして、批評文化が廃れれば、作品がいろんな角度から分析されることはなくなるし、「素人は黙れ」という風潮が根付けば、素人も自分の判断や印象に自信をなくすようになります。

その結果、ますます一部の批評家の比重が増大し、大衆も「鶴の一声」に左右されるようになります。

偉い人が「傑作」と言えば、傑作と思い、「駄作」と言えば、たとえ自分が好ましく感じても、たちまち自信をなくしてしまう。

その典型が、ゴーストライター事件です。(参考 ゴーストライター会見詳報・時事ドットコム

聴覚障害をもつA氏は、美しい交響曲を次々に作曲して、一世を風靡しました。

ところが、実際に作曲を手がけていたのは、別の音楽家だった、というオチです。

ブームの最中にも、「おかしい」と感じた人はあったでしょう。

ところが、TVや著名人のお墨付きも手伝って、大勢が偽りのストーリーを信じ、A氏を現代のベートーヴェンのように褒めそやしました。

もし、当事者が良心に立ち返ることがなければ、今もずっと騙されて、いんちきみたいなコンサートに何千円、何万円と払い続けていたかもしれません。

こうした権威主義や商業主義は、実力勝負のプロの世界で活躍する人にとっても、はなはだ迷惑でしょう。

どれほど才能があっても、どれほど努力しても、権威のお墨付きがなければ正当に評価されない上に、大衆は権威の言いなり、真実を見抜く力もないので、永久に浮かばれないからです。

「素人は黙れ」と大衆の口を封じ、素人から感じる力や考える機会を奪えば、一部の人は得するかも知れませんが、結局は、無知なオーディエンスを大量に生み出し、業界離れを招くだけではないでしょうか。

どんな作品も、最後には大衆に愛されたものが生き残るし、その礎となるものは、名も無きファンの愛と好奇心です。

専門家の批評は『批評』、素人の感想は『感想』として、互いに刺激し合えばいいだけの話。

マウティングの行き着く先は、良質なファンの喪失と、業界の先細りです。

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