リメイクの難しさ ~若者に媚びるか、年寄りに忖度するか 映画『ベンハー 2016』

ベンハー 2016年
記事について

1595年のチャールトン・ヘストン版と2016年のリメイク版の違いを動画で紹介。「ガレー船と海戦」「戦車レース」「一杯の水とイエスの磔刑」が大きく違っていたが、制作者のチャレンジ精神とリスペクトが感じられて好感がもてた。コラム『リメイクの難しさ ~若者に媚びるか、年寄りに忖度するか』と併せて。

目次 🏃

映画『ベン・ハー』(2016年)の見どころ

作品の概要

ベン・ハー(2016年) ー Ben-Hur(ベン・ハーは姓であり、名前はジュダ、もしくはユダ)

監督 : ティムール・ベクマンベトフ
主演 : ジャック・ヒューストン(ベン・ハー)、トビー・ケペル(メッサラ)、モーガン・フリーマン(族長イルデリム)、ナザニン・ボニアディ(エスター)

ベン・ハー (字幕版)
ベン・ハー (字幕版)

あらすじ

エルサレムに暮らすユダヤの貴族ジュダ・ベンハーは、ローマ軍司令官で、義兄弟でもあるメッサラに協力を要請されるが、同胞を大事に思うジュダは、メッサラの依頼を断る。
これを恨んだメッサラは、ジュダの家族にローマ総督暗殺未遂の濡れ衣を着せ、ジュダをガレー船に送り込む。
海戦を生き延びたジュダは、メッサラに復讐すべくエルサレムに帰るが、ナザレのイエスに出会ったことで、運命が大きく変わっていく。

オリジナルはこちら 父よ、彼らを赦したまえ。イエス・キリストの教えを描く 映画『ベン・ハー(1959年)』

リメイクの難しさ ~2016年版も評価する理由

ここでは物語の要である、「ガレー船と海戦」「戦車レース」「一杯の水とイエスの磔刑」について解説します。

なぜ最先端のCGは1959年の映画に勝てないのか

ガレー船と海戦

恐らく、1959年公開のチャールトン・ヘストン版に思い入れのあるオールドファンが一番がっかりしたのは、ガレー船の場面ではないでしょうか。

ローマに対する反逆を理由に、ガレー船に送られたジュダ・ベン・ハーは、薄暗い甲板下の船倉に閉じ込められ、足首を鎖で繋がれて、死ぬまでガレー船を漕ぐことを運命づけられます。

しかし、ローマ海軍の総司令官アリウスは、奴隷となっても闘志を失わないベンハーに高貴な精神を感じ、マケドニア戦を前に、ベンハーの鎖だけ解いてやります。彼がいかに運命を切り開き、自由を勝ち取るか、見届ける為です。

マケドニアとの戦いは激戦となり、ベン・ハーの漕ぐ船は大破しますが、ベン・ハーは必死で船倉から抜け出し、敵兵の攻撃をかわして、海に投げ出されたアリウス総司令官の命を救います。ベン・ハーの勇気と行動力に胸を打たれたアリウスは、ローマ皇帝に恩赦を願い出ると共に、自身の養子に迎え入れ、莫大な富と地位を相続することを宣言します。

このエピソードは、1959年版では、信心深いベン・ハーの奇跡の一つとして描かれています。

天は自ら助くる者を助く」ですね。

ところが、2016年版には、この重要なエピソードが存在しません。

アリウスは海戦で死んだことになり、ベン・ハーは自力で泳いで、島に辿り着きます。

CDを使った海戦の演出は、なかなか迫力がありますが、単なるヒーロー活劇みたいで、オールド・ファンにはがっかりな脚本です。

ポセイドン・アドベンチャー ローマ編って感じ。

1959年版はこれが大きな見どころでした。ベン・ハーが過酷な運命に立ち向かい、奴隷の鎖から解放されるきっかけとなります。

戦車レースの場面

さらに気になったのは、最大の見どころである戦車レース。

2016年版もけっこう頑張ってましたが、やはり1959年版の迫力には勝てない。

何が物足りないかといえば、カメラワークもそうですが、対決する二人の主役が、どちらも坊ちゃん顔で、今一つ、怨讐が感じられない点ですね。

その点、1959年版でメッサラを演じたスティーブウン・ボイドは全身から殺気が漂っていました。

それでも、マスコットのイルカ(戦車が何周したかをカウントする)だけは、忠実に再現されていて、「思っていることは、みな同じ」と痛感しました。

オールド・ファンも、「このイルカは一体……」と目が点になったものです。金棒みたいなので、一つずつ、クリっと回すのがいいんですね。

2016年。戦車が吹っ飛んだり、土埃が舞ったり、現代風でいいとは思うが、全体にコスプレみたいなんですよ・・

1959年版。本物のエキストラ(観客はCGではない)を集めて、1年がかりで撮影された、映画史に残るバトルシーン

1959年版は、とにかく全てがリアルです。

amazonのレビューにもありましたが、「このスタント、死んだんとちゃう?」と本気で心配するレベル。

馬も毛並みが綺麗で、よくこんな上等な馬を何十頭も集めてきたなと感嘆するほど。

また、メッサラの事故も、ベン・ハーの一撃ではなく、「自らの過ちで、車軸が外れた」というのがポイント。

ベン・ハーを痛めつけることに夢中になり、自身の戦車が損壊していることに気づきませんでした。

憎しみに囚われた人間が、自らの盲目によって滅びる定めを描いています。

一杯の水とイエスの磔刑

本作のクライマックスは、イエスの磔刑です。

ピラトの裁判によって、有罪となったイエスは、重い十字架を背負って、悲しみの道(ヴィア・ドドローサ)を歩きます。

群衆に交じって、その様子を見ていたベン・ハーは、彼こそが「生きる気力を与えてくれた人」だと気づきます。

1959年版のレビューでも書いてますが、ガレー船に送られる前、ベン・ハーは灼熱の砂漠を歩かされ、飢えと渇きでとうとう倒れてしまいます。他の囚人は村人から水を与えられたのに、ベン・ハーだけは、罰として、一滴の水も与えられず、ここで絶命するかと思われた時、大工のイエスが現れ、彼に一杯の水を恵みます。それがベン・ハーに生きる気力を与え、その力は、ガレー船から脱出する原動力になるわけですね。いわば、話の核です。

ところが、2016年版は、非常にあっさりしていて、ただの人助けみたいです。
キリスト教の秘蹟である『洗礼』のモチーフもなければ、イエスの神格も感じません。

1959年版の重厚感はCGでは真似できません。群衆も、全て本物の「人」です。
倒れ伏すイエスの姿とジュダ・ベンハーの一瞬の再会が非常にドラマチックです。

1959年版は、聖書の世界観を忠実に表現し、一コマ一コマが西洋絵画のように整っていたに対し、2016年版は、『NetFlix ザ・イエスの生涯』みたいなノリで、ずいぶん軽いです。

これで同じような感動を得ようと期待する方が間違いなのでしょう。

というより、最初から1959年版は意識してなくて、名作『ベン・ハー』をモチーフにした歴史スペクタクルが作りたかったのかな、という気もします。

それでも2016年版を高く評価するわけ

違和感は多々あれど、2016年もそれなりに頑張った……と思えるのは、作り手の大胆な試みが垣間見えるからです。

たとえば、2016版のエンディングは、現代ファミリードラマのようなハッピーエンドです。

1959年版に比べて、メッサラの内面によりフォーカスしていて、エンディングもあっと驚く展開です。

いつもの私なら、ここで卓袱台返しするような内容ですが、妙に納得したのは、「これが現代の視聴者の望むドラマ」と思えたからです。

1959年版を「キリスト教の世界観を描いたドラマ」とするなら、2016年は「愛と青春の旅立ち」。

ベン・ハーの宗教的感情よりは、メッサラとの友情が強調されています。

あるいは、1959年版とは大きく筋書きを変えることで、二時間の尺度に無難にまとめることが出来たのかも知れません。

まあ、正直な感想を申せば、役者はいまいち迫力にかけるし(脇役も含めて)、全体的にNetFlixの二時間ドラマみたいでで、知性もなければ、厳かな雰囲気もなく、これなら『ベン・ハー』の名の下にリメイクする必要はなかったんじゃないか、というような内容ですが、それでも好感がもてるのは、1959年版へのリスペクトを感じたからです。

ここが、役者のギャラ問題とか、ストーリー上の都合とかで、オリジナルの設定を壊してしまう、柳の下のドジョウ系続編とは大きく異なる点です。

柳の下のドジョウ系続編とは、だらだら続くスターウォーズやトランスフォーマー、前作のカップルを解消してしまう、スピードやデンジャラス・ビューティーのPart2

もはや陳腐な恐竜アニメと化したジュラシック・パークの新作に比べたら、よくぞこの大作に挑んだという心意気が感じられるし、今時のドライで無宗教な視聴者層にフィットした世界観で、そつなくまとめた印象があります。デジタル坊主が読経する時代に、イエス・キリストの奇跡もないでしょうしね。

この作品をきかっけに、1959年版を観た若い世代も多いなら、新旧、橋渡しの役目は十分に果たしたと思います。

クソうるさいオールド・ファンの私を納得させただけでも、一見の価値があると思いますよ。(続編にしては)

【映画コラム】 リメイクの難しさ ~若者に媚びるか、年寄りに忖度するか

リメイクや続編の難しさは、突き詰めれば、「若者に媚びるか、年寄りに忖度するか」にあるのではないかと思います。

たとえば、鳴り物入りで製作されたジェームズ・キャメロンの「ターミネーター最新作」が世界中でコケた理由」にもあるように、今の若い世代は、中高年のオールド・ファンほどシュワルツェネッガーに思い入れもないし、一作目の衝撃も知りません。
(参考 映画『ターミネーター』 ~機械は人間に近づきすぎると終末(ターミネイト)を選ぶ

せいぜい、パパやママから思い出話を聞かされ、ちょっと興味をもって、Netfliでチラ見するぐらい。

今となっては、一作目のターミネーターの造形も、ショットガンのアクションも、若い世代にはただただ古臭いだけで、何の感慨もないでしょう。

でも、それは、ジェームズ・キャメロン監督のせいでもなければ、シュワルツェネッガーのせいでもない。

時の残酷さに他なりません。

ドッグイヤーどころか、マウスイヤーと呼ばれ、世間の好みもちょこまかと変わる時代、上の世代にも下の世代にも忖度するような映画作りは、スティーブン・スピルバーグやスタンリー・キューブリックでも不可能でしょう。

若者に媚びれば、「思い出を壊すな」と年寄りの怒りをかい、年寄りに忖度すれば、若者には「退屈」とけなされる。

今の時代、誰に見せるかよりも、何を諦めるかの方がうんと重要なのかもしれません。

とはいえ、今の若者世代は、80年代や90年代に流行った映画の続編(新作)ばかり見せられて、いささか気の毒に感じます。

エイリアンも、スターウォーズも、ターミネーターも、トランスフォーマーも、前時代の遺物であり、21世紀になってから誕生したヒーローなど皆無でしょう。

ティーンに人気のマーヴェル・ヒーローも、20世紀のアメコミが源泉ですし。

ハリウッドもネタ切れで、オールド・ファンの愛着にすがって、適当なところで手を打っているようにしか見えません。

それとも、ハリウッドの気鋭が自由闊達に挑戦できる精神土壌は失われてしまったのでしょうか。

映画の見方も、映画館からスマホ、買い切りから見放題になり、視聴者のセンスも考え方もずいぶん変わりました。

いつまでもターミネーター1作目の衝撃が忘れられないオールド・ファンこそ、最後の愛好家なのかもしれません。

若者に媚びるか、年寄りに忖度するかの問題ではなく、映画作りそのものが、残すものから消費するものに変質しているのかもしれないですね。

2019年12月7日

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