【4】 幸福に必要な鈍感力・アリョーシャ ~鋭い知性はむしろ人間を不幸にする

カラマーゾフの兄弟 アリョーシャ
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記事について

次男イワンと決定的に違うのは、「それがひとつも苦にならないし、屈辱でもない」という点。一つ一つを「施し」「お情け」と感じ、自己卑下に陥ってしまったイワンの繊細な性格とはあまりに違う。アリョーシャには、この現世を生きるに必要な鷹揚さが備わっていたということだろう。他人の施しに預かるには、イワンはあまりに繊細で、同時に誇り高い人でもあった。父フョードルにも気に入られたアリョーシャの魅力を紹介。

『カラマーゾフの兄弟』 第1部 第Ⅰ編 『ある一家の由来』 (4) 三男アリョーシャ
目次 🏃

神の人 アリョーシャ

【3】自己卑下と高い知性が結びつく ~人間界の代表 イワン』の続きです。

俗界で生きる普通の青年

俗物・強欲・ニヒリストで占められたカラマーゾフ一家で、唯一、天使のような心を持つのが三男・アリョーシャだ。

この物語の主人公であり、第二部では(もしかしたら)皇帝暗殺に携わったかもしれない、信義の人でもある。

まず最初にはっきりと断っておかねばならないのは、アリョーシャというこの青年がけっして狂信者ではなく、少なくとも私に言わせれば、神秘家でさえけっしてなかったことである。

あらかじめ結論的な私の見解を述べておくならば、彼は要するに早熟な博愛の人であって、僧院の生活にまっすぐに飛び込んで行ったのも、当時それだけが彼に感動を与え、俗界の憎悪の暗黒の中で愛の巧妙を見出そうともがいていた彼の魂に、いわば理想の進路をさし示してくれたからだけにすぎなかった。

また、この生活が彼を感動させたのも、ただ彼がそこで、彼に言わせれば非凡なる人物、すなわち、この町の僧院の高名なゾシマ長老とめぐり会い、初恋の人に抱くようなひたむきの情熱をかたむけてこの長老に打ち込んだからにすぎない。

本作を漠然と呼んでいたら、アリョーシャ=聖職者のイメージがあるが、序文の『作者より』で、「おそらくこの男もいわゆる活動家の部類に属する人間なのだろうが」と明記されているように、アリョーシャは決して狂信者でもなければ、超能力者でもない。

たまたま自分の感性にフィットしたのが『キリスト教』だった――というだけで、世が世なれば、共産主義に感化されたかもしれないし、現代に生きていれば、スピリチュアルにはまったかもしれない。

生き方に迷う若者が学問に目覚めたり、自己啓発セミナーに通い始めるのと同じように、アリョーシャは、自分の問いに答えてくれる存在として「キリスト教」を選び、その修行場である「僧院」に飛びこんだ。

ファンタジー映画の主人公みたいに、『神に選ばれし者』ではなく、「自分で選んだ」という点に、アリョーシャの説得力があるのだ。

筆者がなぜその点を強調したかといえば、続編の構想に関連があると思う。

【序文】ドストエフスキーの全てが凝縮した『カラマーゾフの兄弟』 ~作者より』でも仄めかしているように、ドストエフスキーは、成長したアリョーシャが社会活動に身を投じるという青写真を前提に本作(つまりは『カラマーゾフの兄弟』の第一部)を書いている。

その結末が、皆の推測するような『皇帝暗殺』であったかどうかは定かではないが、社会活動家の役割を果たすなら、神の啓示を得た聖職者ではなく、自ら道を選び取る俗界の人であるべきだからだ。(神の啓示によって皇帝に手を下すのはファンタジー小説)

俗界の人であり続けるには、根っからの聖職者――完全に神に帰依するようなメンタリティでは成り立たたず、人道に背く皇帝暗殺も到底不可能である。

アリョーシャを「神に愛されるような善人」と形容しながらも、「自ら道を選ぶ俗界の人」を強調するのは、読者に『アリョーシャ=聖人』と勘違いさせない為だ。

イワンやドミートリイがそうであるように、悩みに悩み抜いて、道を見出す人だからこそ、重厚なドラマになるし、説得力も生まれる。

天使みたいな男が、神の啓示により、偉大な使命を授かるような話は、 『ロード・オブ・ザ・リング』の世界なのだ。

苦悩の人イワンとテヘペロのアリョーシャ

そんなアリョーシャの印象は……

幼年時代、少年時代を通じて、枯れ葉あまり感情を外にあらわすほうではなく、無口なくらいであったが、それも、人を信じないとか、内気だとか、陰気なつきあいぎらいだとかいう理由ではなく、むしろ正反対で、なにか別の理由があってのことだった。つまり、他人にはかかわりがないが、彼にとってはきわめて重要な、自分ひとりだけのいわば内心のもの思いとでもいったものにいつもとらわれていて、そのために他人のことはつい忘れがちになるのである。

しかし彼は人間を愛していた。生涯、人間を信じきって生きてきたようにも見える。だが、それでいて、だれひとり彼のことを薄のろとも、単純なお人好しとも見る者はなかった。彼の風貌には、何かこう、自分は人の裁き手にはなりたくない、他人を非難する気持ちにはけっしてなれないし、何についても非難したりするものか、とでも問わず語りに語っているような、思わずそう信じこまされてしまうようなところがあった。

アリョーシャは幼少時より自分の内なる世界を守れる人だったのだろう。

周りが何を言おうと、自分の感性、自分の思考、自分の価値観を、心の砦の中でしっかり守ってゆける。

なおかつ、細かいことにこだわらず、苦難や失敗もテヘペロで乗り切ってしまう。

その鈍感力が、アリョーシャの人間としての強みであり、理力と言えるだろう。

その点、イワンは、世慣れしているように見えて、実に繊細だ。

知識や見聞に振り回されて、神なるものを見失ってしまう。

無関心を装いながらも、人間や社会に対する思い入れは深く、それゆえ現実に失望し、人一倍、傷ついて苦しむ。

逆に、アリョーシャのような人間は、その爛漫さゆえに周りの愛情を一身に集めて、ぐんぐん伸びていく。

事実、この青年は、ごくごく幼いころから、どこへ行ってもみなに愛された。自分の恩人であり、㔦居てであるエフィーム・ボレーノフの家にいたときも、彼はこの家の人たちすべての愛情を一身に集め、まったくもう実の子同様に見られていた。

≪中略≫

してみると、自分に対して特別な愛情を呼び覚ます資質は、彼のうちにいわば本来的に、人為的にではなく、天性としてそなわっていたことになる。

イワンと比較して、、、、

だいたいアリョーシャは、自分がだれの世話になっているかなどということには、まったく気を使わないほうで、この点がまたいかにも彼らしい、性格上の大きな特徴であった。

兄のイワンが、大学生活の最初の二年間、自分で働いて食べていく貧乏生活を送り、ほんの幼い自分から、自分は恩人の家で他人のパンを食べて生きているのだと、痛切に感じていたのと比べると、その点、アリョーシャはまったく正反対であった。

理屈ではイワンの方が長けるが、人間的に本当に強いのは、アリョーシャなのだ。

淫蕩父も心惹かれるアリョーシャの魅力

そんなアリョーシャに対して、淫蕩父フョードルは初めのうちこそ警戒していたが、すぐに人間的魅力のとらえられ、深く愛するようになる。

屈辱に対しては人一倍鋭く感じやすい神経をもっていた父親は、最初のうちこそ、そんな彼にうちとけぬ不信の目を向けていたが、(「黙っているやつの気は知れない」というからな)、かれこれ二週間も経つうちには、もう度外れなくらいしょっちゅう彼を抱きしめては接吻するようになった。

≪中略≫

しかし、それが心底から深くアリョーシャを愛した結果であり、むろん、彼のような男が、これまで他のだれに対してもそんな愛情をもてたはずのないことも明らかであった……

フョードルが心惹かれたのも、イワンのように、くどくど理屈を口にしないからだろう。

決して頭が悪いわけではなく、のほほんとした性格だから、フョードルみたいに濃厚な人間でも安心してぶつかっていける。

おべちゃらを口にする取り巻き連中と違って、実直な人柄も魅力だろう。

ゆえに、アリョーシャがゾシマ長老に心惹かれて、見習いの修道僧として僧院に行くと決めた時も、フョードルは上機嫌で送り出す。

おれはな、アリョーシャ、おまえを手放すのが惜しいんだよ。信じちゃくれんだろうが、ほんとうの話、おまえが好きになってしまってな……しかし、まあ、ちょうどいい機会ができたもんさ。

ひとつ、おれたち罪深い者のためにお祈りをしてくれや、まったく、ここに腰を据えていて、おれもだいぶ罪つくりをしてしまったものな。

いつも考えてきたもんだよ。

いったいだれがおれのために祈ってくれるだろうか? そんな物好きがこの世にいるだろうか?

≪中略≫

まあ、ともかく行ってこいや、行って真理をきわめてきてな。帰ったら、いろいろ話してくれや、向こうの様子がはっきりわかっておったら、あの世へ行くのもすこしは楽だろうからな。

≪中略≫

おまえの頭はまだ悪魔に食われちゃおらん。ぱっと燃えるだけのものが燃えつきて、正気に返ったら、また帰って来るがいい。待っているぞ、この世の中でおれを責めようとしなかったのは、なあ、かわいい坊主、しみじみ感じ入っとるが、ほんとnおまえひとりきりだったんだからなあ」

いったいだれがおれのために祈ってくれるだろうか?」というフョードルの呟きは、現代でも心に突き刺さるものがある。

筆者曰く、「腹黒いくせにセンチメンタル」なフョードルは、根っからの悪人ではなく、威勢のいい田舎オヤジであり、自分に正直な俗物だ。

反面、真面目でナイーブであるが為に、道化を演じないことには世間と交われない、よく云えば、純朴な男である。

だからこそ、アリョーシャの美点を見抜き、深く愛するようになったのだ。

人生の最後にアリョーシャという息子を知っただけでも幸いかもしれない。

※ ちなみに、フョードルのナイーブさは、イワンに受け継がれている。

【コラム】 人間の善性と鈍感力について

人間の善性は、鈍感に通じるところがある。

誰の目にも『好ましい人』が必ずしも高徳は限らず、単に「鈍感なだけ(良い意味で)」ということは往々にしてある。

なまじイワンのように鋭敏で、洞察力に長けると、何かにつけて負の面が目に付き、冷笑的になる。

たとえ根っこの善性は普通でも、傍目にはこれほど嫌みでとっつきにくいタイプもなく、優れた知性が必ずしも人間を幸福にするわけではない証だろう。

その点、善良な鈍感さは、周りを呆れさせることはあっても、不快にさせることがない。

イワンの言動が周りの反感を買いやすいのとは対照的に、鈍感なタイプは「あの人は、ああいう性格だから」で全てが許されるところがある。

アリョーシャが能天気というわけではないが、イワンより一本、神経系が少ないおかげで、ずいぶん生きやすいのは確かだろう。

もちろん、アリョーシャにも苦悩はあるが、イワンのように全人類の業を背負って、神に絶望するほどでもない。

アリョーシャも悩みはするが、その痛みは、どこまでも空中的だ。

いわば、市井の人として、とことん傷ついているのはイワンの方であり、アリョーシャはむしろ人類の苦悩から遠い人と感じる。

本作では、アリョーシャのこうした性質は『天性』と解説されているが、天性としても、人間、いつかは、どこかで、人界の絶望と怨念を思い知るものだ。

それが無いということは、ズタボロのイワンに比べたら、やはり恵まれた人なのかもしれない。

出典: 世界文学全集(集英社) 『カラマーゾフの兄弟』 江川卓

江川卓による注釈

江川訳の巻末に収録されている注釈です。訳者によって表現が異なりますが、作品理解の参考に。

二歳くらいの頃からさえ

ドストエフスキーに二度目の妻アンナ夫人の注によると(以下「アンナ夫人注」と略記)、作者自身が二歳の頃の思い出として、母親に連れられて村の教会へ聖体を受けに行ったとき、教会の窓の一つから鳩が飛びこんできて、別の窓から出て行ったことを憶えていたという。そのときに幼いフョードルが「鳩だ、鳩だ」と叫んだという話も伝わっている。

なお、ここに語られているアリョーシャの思い出の中に、「夕日が斜めに射しこんでいた」という表現が出てくるが、この表現はドストエフスキーがきわめて愛好していたもので、後期の作品のほとんどに現れる。

聖痴愚(ユーロジヴイ)

本来は苦行僧の一種。信仰のために肉親や世間とのつながりを絶ち、常識、礼儀、羞(しゅう)恥(ち)心をさえわきまえぬ狂人や痴愚をよそおって、権威や世の思惑に媚(こ)びぬ真実の神の言葉を説いた者をこ呼んだ。新訳コリント前書第四章十節に「われらはキリストによりて愚かなる者(ユロード)なり」とあるのが典拠とされている。六世紀ごろからビザンチン教会ではこの聖痴愚(ユロージヴイ)の存在が記録されているが、これがとくに数多く現われたのは中世ロシア(14―16世紀以降)であって、彼らは民衆の苦しみと悲嘆のいつわらざる表現者となることができた。時代が降ると、教会によって認められぬ「偽ユロージヴイ」も輩出し、奇矯(ききょう)の振舞で衆目を集めようとするが、他方、いくぶん神がかった狂人や白痴をこの名で呼ぶようにもなった。スメルジャコフの母親「いやな臭いのリザヴェータ」もその一人で、女性の場合には語尾が「ユロージヴァヤ」と変化する。

江川卓による注釈

江川訳の巻末に収録されている注釈です。訳者によって表現が異なりますが、作品理解の参考に。

三等 (三等列車について)

アリョーシャは高等中学に在学中、ふと思いつきで父を訪ねたいと後見人の二人の婦人に申し出る。二人の婦人はふんだんに旅費をもたせ、新しい服やシャツまで揃えてやったが、アリョーシャはどうしても三等(列車)で行きたいと、その金を半分返してしまうエピソードに付記。

三等は、雑居房然とした車輌で、当時のロシアでは身分のある者が乗るべきものではないと考えられていた。

ヘブライの家

アリョーシャが母の墓参りをする為に、父の元を訪れた頃、フョードルが何をしていたか、というくだりで

ロシアでのユダヤ人に対する人種的偏見はかなり根が深く、ゴーゴリの『ダラス・プリパ』などにもその模様が描かれており、差別的呼称としてジード(ジュー)がある。十八世紀末に出た法令で、ユダヤ人定住区域が設定され、一般のユダヤ人はロシア南部、ウクライナの銃後の県とポーランドにかぎって居住を許されることになったが、その例外として、第一種ギルドの商人(資本金一万ルーブリ以上)、高等教育を受けた者、等々は他地域にも居住を許された。「ヘブライの家」とは、これらの特権的ユダヤ人を指すものと考えてよい。なおドストエフスキー自身は、『作家の日記』などで、ユダヤ人を大ブルジョアジーと同義的に用いて非難の対象にしている場合が多い。

鬼どもがおれの身体に鉤をかけて地獄へ引きずりこむ

アリョーシャが僧院に入るにあたって、フョードルが妙に弱気になり、アリョーシャに自分のために祈ってくれと懇願する場面で口にする

ロシアの巡礼歌に、新訳ルカ福音書第十六章に出てくる「乞食のラザロと金持」のたとえ話を題材にしたものが何種類かあり、そこでは乞食と金持がともにラザロという名で、実の兄弟だという設定になっている。弟のラザロは、死後、天使に迎えられて天国へ昇天し、兄の金持のラザロのほうは地獄に落ちることになっている。ふつうの巡礼歌では、金持が地獄に落ちるときには、「あばら骨に鋭い矛を突き立てられて」連れて行かれることになっているが、二、三のヴァリエーションでは、「左のあばら骨」に鉄の鉤をかけられて、見苦しくも」地獄へ曳かれて行く、という表現が見られ、ドストエフスキーはこのヴァリエーションを念頭に置いているらしい。なお、この「ラザロ」の巡礼歌は、この作品の各所にモチーフが使われている。

なければ考えだすまでだ

Ⅱfaundrait les inventer(なければ、考えだすまでだ)。同上の話の続きでフョードルが口にする。「だいたいおれを引きずって行く者がないとしたら、そのときはどうなる、この世の真理はどこにあるんだ? なければ考えだすまでだ

この表現は「もし神がいないとすれば、それを考え出す必要がある」(二九九ページ参照)をもじって使っているもので、ふつうフランスの啓蒙思想家ヴォルテールの『書簡集』に出てくる言葉とされているが、本来は十七世紀のカンタベリー大僧正ジョン・ティロットソンの『説教集』に出てくるもの。

馬車の影を磨きいたり

同上の続き。あるフランス人が地獄の様子を描いとるが、そのとおりなのさ。《J'ai vu l'ombre d'un cocher, qui avec l'ombre d'une brosse frottait l'ombre d'une carrosse》(われは見たり、御者の影を、そは、ブラシの影もて、馬車の影を磨(みが)きいたり

フランスのお伽噺作家として知られるシャルル・ペローの四行詩『顔を変えたエネイーダ』に出てくる。

出典: 世界文学全集(集英社) 『カラマーゾフの兄弟』 江川卓

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【5】リアリストは自分が信じたいものを信じる ~アリョーシャの信仰とゾシマ長老 『リアリストにあっては、奇跡から信仰が生まれるのではなく、信仰から奇跡が生まれるのだ』。自身の意思によって神の道に進むことを決めたアリョーシャは、高徳の長老ゾシマに多大な影響を受ける。純粋な信仰心は後の『大審問官』への伏線となり、無神論を乗り越える原動力となる。「信仰から奇跡が生まれる」「聖トマスの疑い ~自分が信じたいものを信じる」「ロシア僧院における長老の役割と原罪からの救済」「神なき時代をいかに生きるか ~アリョーシャの心の遍歴」など
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