どうしてこんな人間が生きているんだ!
ドミートリイという男 ~本当に父を憎んでいたのか?
作中、長男ドミートリイが、父親のフョードルに向かって吐く、
『こんな男がなぜ生きているんだ!』
は文学史に残る名言であり、私の最も好きな言葉でもある。
ある人間に対する、怒り、不信、恨み、失望、不条理感、それら全てを煮詰めて、一言で表せば、上記の台詞になる。
この台詞は、原卓夫先生による訳文であり、江川卓氏の訳文では、『どうしてこんな人間が生きているんだ!』だが、どちらがインパクトが強いかといえば、やはり原卓夫先生の「こんな男がなぜ生きているんだ」であり、ドミートリイの心情や父親との関係が見事なまでに凝縮されていると思う。
「あんたみたいな人間は嫌いだ」とか、「こんな人間が父親なんて!」ではなく、『こんな男がなぜ生きているんだ』で・す・よ。
これ以上の名言は探しても探しようがないし、並の作家なら思い付きもしないだろう。
そして、この台詞が登場する、第二章・第六節『どうしてこんな人間が生きているんだ!』は、ドミートリイの人物描写、イワンの葛藤、屈折した父子関係、問題をこじらせている二人の女性の存在と悲劇の予感、そして、長老ゾシマの慈愛と人類に対する願いが、わずか数ページの中にドラマティックに描かれ、『カラマーゾフの兄弟』、しいては、世界文学における屈指の名場面といえる。
何が素晴らしいかといえば、冒頭の、ドミートリイの人格描写。
これほど生き生きと描かれた文章も、またとないと思う(長いけど^^;)。
ドミートリイ・フョードロヴィチは、とって二十八歳の中背の青年で、感じのいい顔だちをしていたが、年よりはずっと老けて見えた。筋肉質で、並々ならぬ腕力の持ち主と察せられたら、そのくせ顔つきにはどこか病的なところがあった。
顔は痩せすぎで、頬はこけ、顔色がまたなんとも不健康な黄味をを帯びていた。いくらか飛び出した感じのかなり大きな黒っぽい目は、一見、なにかを執拗に見詰めているふうだったが、それでいてどことなく定まらない感じがあった。
興奮して、いらだたしげに話しているときでさえ、その眼差が、内診の動きについて行かず、なにやら別の表情、いや、どうかすると、その場にまったくそぐわない表情を見せることもあった。『何を考えているのかわからない男だ』とは、彼と話した人がときとしてもらす評言であった。
<中略>
この町の治安判事セミョーン・イワーノヴィチ・カチャーリニコフがある集まりの席でいみじくも言いあてたように、《常識はずれの衝動的な性格》の持主であった。
彼はフロックコートのボタンをきちんとかけ、黒手袋をはめ、シルクハットを手にもって、非の打ちどころのないシックな身なりで入ってきた。
最近退役したばかりの軍人らしく、口ひげだけを生やし、顎ひげのほうはいまのところ剃り落としていた。深い亜麻色の髪は短く刈りこまれ、こめかみのあたりだけがいくぶん前のほうに梳かしつけてあった。
歩きつきも軍隊式の、てきぱきした大股の足どりだった。戸口でちょっと立ちどまって、ひとわたり一同を見まわすと、この人がこの場の主人だと見きわめをつけたらしく、つかつかと長老のほうへ向かった。深々と頭をさげて、彼は祝福を乞うた。
長老はなかば立ちあがって、彼に祝福を与えた。 (P.86)
しばしば言われることだが、『カラマーゾフの兄弟』は推理小説の側面を持ち合わせ、ここでも『父親殺しの犯人』を仄めかす描写がなされている。
「並々ならぬ腕力の持主」「常識はずれの衝動的な性格」
勘のいい読者なら、カッとなって、父親を撲殺する場面を思い描くだろう。
「この町の治安判事」のコメントも織り込まれているのが伏線で、ここだけでも、十分に先を期待させる演出になっている。
その上で、「黄味を帯びた肌色」「いくらか飛び出した感じの、大きな黒っぽい目」というのは、肝臓が悪い=酒の飲み過ぎ=自堕落な暮らしを想起させるし、傍から見ても『何を考えているのかわからない男』というのは、自分で自分の感情や思考を処理することができず、現実社会においては「関わってはいけない人」にカテゴライズされる、どこか危うさを感じさせる人間であることが分かる。
もっとも、父親に育児放棄された過去を思えば(参照→愛の欠乏と金銭への執着 ~父に捨てられた長男ドミートリイの屈折(2))、多分に同情する点もあり、周りの人物も、そこは割り引いた上で、付き合いを続けているのだろう。こんな男が父親でなければ、今頃、立派な軍人として、世のため人のために尽くしていただろうに、という憐れみの気持ちもあるかもしれない。
そして、このゴタゴタが、単なる金銭問題であれば、足し算・引き算だけで解決しただろうが、二人の間には、『淫売』と呼ばれる女がいて、さらにはドミートリイが「高潔このうえない令嬢」と称える女性がいる。
これは単なる額面の話ではなく、痴情のもつれであり、男のメンツをかけた争いなのだ。
そして、それが、年老いた父親と放蕩三昧の息子の間に起きたこと――というのが、この問題の、目も当てられない恥部で、長老に判断を仰がねばならない所以である。
ここまでくると、常人には理解しがたい話であり、道理を説いて聞かせたところで、金銭への執着と色情にはつける薬がないからだ。
ゆえに、彼等の問題は悲劇でしかなく、周りの人間もどうすることもできない。
救済できるのはただ一人、ゾシマ長老=神、である。
イワンはまだ神を捨ててはいない
一方、人類の父親でる神との関係をこじらせた人物もいる。
無神論者で、次男のイワンだ。
パイーシィ神父から、ドミートリイと父フョードルの問題について、どう思うか尋ねられると、イワンはこんな風に答える。
「なに、ちょっとした乾燥以外には、とりたててありませんがね」
すぐにイワンが答えた。
「つまり、一般にヨーロッパの自由主義は、いや、そればかりかわがロシアの自由主義的ディレッタンチズムもそうですがね、もうだいぶ以前から、社会主義の究極の結果とキリスト教のそれとをしばしば混同しているということなんですよ」
その言葉を受けて、先進派を気取るミウーソフは次のように議題を立てる。
「そのかわり、みなさん、イワン君その人について、たいへん興味深い特徴的な逸話をもうひとつ紹介しましょう。
つい五日ばかり前のことですが、当地の上流婦人たちを主にした集まりの席で、イワン君はどうどうと次のような説を主張されたものです。
つまり、この地上にはどこを探しても、人間として自分と同じ人間への愛を強制するようなものは断じて存在しないし、また、人間は人類を愛せよというような自然の法則ももともと存在していない、で、もし現に愛が存在し、これまでも地上に愛が存在したとすれば、それは自然の法則によるものではなくて、ただただ人々が自分たちの不死を信じていたからにほかならない、というのですね。
さらにイワン君はそれにつけ加えて、いわばカッコにはさむという形で、この点にこそ自然の法則の全本質があり、したがって、もし人類が抱いている不死についての信仰を根絶やしにしてしまえば、人間のもつ愛ばかりか、現世の生活をつづけて行くためのいっさいの生命力もたちどころに涸渇してしまうだろう、と言われました。
そればかりじゃない、そのときには、不道徳などということはひとつもなくなって、すべてが許される、人肉嗜食さえも許されるというのです。
<中略>
要するに、いまわれわれのように、神も信じなければ自分の不死も信じない個々人にとっては、自然の道徳律がただちにこれまでの宗教的な道徳律とは正反対のものに変り、悪業にもひとしい極端なエゴイズムが人間に許されるばかりでなく、それこそがその状況のもとでは不可欠な、もっとも合理的な、むしろもっとも高潔な活路として認められることにさえなるはずである、というのです」 (88P)
ここで重要なのは、「キリスト教における不死」とは、「永遠に若くて美しい(妖精の不死やドラキュラの不死身)」ではなく、「魂は不滅であり、神を信じて、正しく生きておれば、その魂は天国に迎えられ、イエス・キリストと共に居ることができる」「いつの日か、再び肉体を得て、復活し、永遠の命を得る」ということ。
それも突き詰めれば、ゾンビみたいに肉体を取り戻し、もう一度、人として生きられる――という意味ではなく、「神を信じ、キリストの教えを受け入れることにより、これまでのダメダメ人生は終わり、善に目覚めた人間として、新しい人生を得る」ぐらいの意味だと私は思っています。ヘンな喩えですが、刑務所で服役中だった人が、周囲の好意により、突然、罪を自覚し、心を入れ替えて、出所後は真面目な社会人として生きてゆく――みたいな。そういう人にとっては、刑務所から出た瞬間、あるいは真っ当な仕事で賃金を得た時、人間として生まれ変わったような、深い感動を覚えるでしょう。それがイエスのいうところの、奇跡であり、復活であり、魂の救済なのです・・・
ともあれ。
そうした信仰心によって、秩序と人情が尊ばれ、人々は自らの欲望を抑え、行動を慎むわけだが、神の否定や信仰心の欠如により、そのタガが外れたら、人は好き勝手を始めて、「悪業にもひとしい極端なエゴイズムが人間に許される」ということ。
このことは、19世紀半ばから、あまたの文化人が指摘しており、その引き金を引いたのは、やはり科学の発達に伴う産業革命と社会構造の変化だろう。
教会が何を、どう教え諭そうと、人は地球が太陽の廻りを回る理屈も知っているし、浮力や張力のメカニズムも理解している。
数世紀にわたって、伝えられてきた奇跡も、「どうやら、真実ではないらしい」となると、信仰心も薄れ、腹の足しにもならない善徳を重んじるより、現実社会において、より強大な力をもつ『金(マンモン)』に与する方が、どれほど豊かになれるかしれない。そして、マンモンの支配する世界では、数こそ正義であり、欲望とエゴイズムを抑えきれない人間にとって、これほど相性のいい世界もないのである。
イワンの主張は、極端に聞こえるが、ある種、「なげやり」であり、皮肉でもある。
心底、そう思っているのではなく、「こんな社会、犬にでもくれてやれ」の精神で、ニヒリズムを気取っているに過ぎない。
そんなイワンの良心の痛みと虚無感をいちはやく見抜いたのがゾシマ長老だ。
「あなたはほんとうに確信しておいでなのかな。おのれの霊魂の不死への人間の信仰が涸渇した場合、そのような結果が起きるだろうと?」
長老がふいにイワンにたずねた。
「ええ、ぼくはそう主張しました。もし不死がなければ、善行もありません」
「そう信じておられるとすれば、あなたはしあわせなお人じゃ。いや、恐ろしく不幸なお人かもしれん」
「なぜ不幸なのです?」
イワンがにやりとした。
「なぜといって、どう見てもあなたは、ご自分の魂の不死も、それどころか自分が教会や教会問題について書かれたことさえ、信じておられないようだからじゃ」
「おっしゃるとおりかもしれません! ……しかし、それでも、ぼくはまるっきりの冗談を言ったわけじゃなくて……」
イワンはふいに奇妙な白状のしかたをしたが、それでもその顔はさっと赤くなった。
「まるっきりの冗談ではない。それはまことのことじゃ。
この思想はまだあなたの心のなかで解決されぬまま、あなたを苦しめておるのじゃ。
しかし殉教の受難者もまた、ときにはおのれの絶望を、やはり絶望のあまりに、慰みとすることがある。
あなたもいまは絶望のあまり慰みとしておられるのじゃ――そのような雑誌論文や社交界での議論などをな。
そのくせ当のあなたはご自分の論法をひとつも信じておられず、内診ではその論法を痛ましく冷笑しておられる……
この問題があなたの中で解決されていない、その点にあなたの大きな不幸がありますのじゃ。
なぜといってそれは解決を強要してやまないものですからな……」 (89P)
「どう見てもあなたは、ご自分の魂の不死も、それどころか自分が教会や教会問題について書かれたことさえ、信じておられないようだからじゃ」という指摘はまったくその通りで、自分自身に対してもまったくの傍観者というスタンスが、イワンの人柄、またその苦悩の深さをよく表していると思う。なぜって、自分の内面を直視すれば、イワンのように高貴な精神の持主で、知性的な人間には耐えられないからだ。
そんな風に、本音から目を反らし、論点をはぐらかして、知的遊戯にひたっているイワンのことを、ゾシマ長老は「絶望のあまり慰みとしておられる」と評する。
そして、「この問題があなたの中で解決されていない、なぜといって、それは解決を強要してやまないものですからな」と指摘する。
では、なぜそのことが不幸なのか。
二つの正義の狭間で揺れる会社員の身になって考えれば分かりやすい。
一方は、商売人として、当たり前の道徳を説き、一方は、「金儲けの為なら人を騙してもよい」と平然と製造年月日の偽証や誇大広告を強要する。
会社員としては、前者に尊敬の念を抱きながらも、人を騙しながらも莫大な利益をあげる後者に惹かれるだろう。
そして、そのやり方を肯定しようとするが、心の底では、どちらが正しいか識っている。
ゆえに、会社員は、どちらにも従うことができず、二つの正義の狭間で、良心の痛みや現状に対する不満や疑問に、悩み苦しむのである。
その本音から目をそらし、「ま、現代のビジネスというものは、どーちゃら、こーちゃらで……」と冷笑を気取り、ブログやSNSで知的遊戯を気取っておれば、自分と似たような価値観の人たちに賛同はしてもらえるが、心底から救われることはないだろう。
そのことを、ゾシマ長老は「不幸である」と指摘しているのである。
そんなゾシマ長老に対し、イワンは「それがぼくのなかで解決されることがあるおのでしょうか? 肯定のほうへ解決されることが?」と問い返す。
それに対するゾシマ長老の答えは次の通り。
肯定のほうに解決されることがなければ、否定のほうにも決して解決されることがない、このあなたの心の特性は自分でご存知のはずじゃ。
つまり、これがあなたの心の負っている苦しみなのじゃ。
だが、そのような苦しみを悩むことのできる志向の心を授けられたことを、あなたは創造主に感謝されるがよい。
『上にあるものに想いを寄せ、上にあるものを求めよ。われらのすまいは天にあればなり」。
なにとぞ神のお恵みで、まだ地上におられるうちに、あなたの心の苦しみの解決があなたを訪れ、神があなたの行路を祝福されますように!」
長老は片手をあげ、席についたままイワンに十字を切ってやろうとした。
しかしイワンはふいに席から立ちあがって長老のほうへ近寄り、彼の祝福を受け、その手に接吻すると、無言で自分の席に戻った。
この場面の素晴らしい点は、「そのような苦しみを悩むことのできる志向の心を授けられたことを、あなたは創造主に感謝されるがよい」という台詞。
イワンが単なるニヒリストではなく、精神の高潔ゆえに、現代社会の歪みに無関心でいられないことを見抜き、それこそが、人間に苦悩をもたらす最大の原因だということも非常によく理解している。
多くの人は、「そこに不幸があるから、不幸になるのだ」と思いがちだが、現状への疑問も怒りもなければ、不幸にもなりようがなく、現に、犬や猫が、現代社会の歪みに気付いて、苦悩する、などという話は見たことも聞いたこともないだろう。
言い換えれば、不正に対するまともな感性や、物事を論理的に考える知性があるから、人は悩むわけで、知性がなければ「ワンワン」と吠えて終わり、人を傷騙すことも、物を盗むことも、何の良心の痛みも感じないのである。
「肯定のほうに解決されることがなければ、否定のほうにも決して解決されることがない、このあなたの心の特性は自分でご存知のはずじゃ」というのは少し意味が分かりにくいが、神に帰依することもできなければ、完全に無神論者になることもできない……と考えれば分かりやすい。なぜなら、イワンはまだ人間やこの世界を諦めてはいないし、神の存在意義も完全に否定してないからである。
だから、ゾシマ長老の祝福を受け、その手に接吻もできる。
この長老こそ、イワンの真の姿、真の苦悩を、見抜き、理解してくれたからだ。
あらゆる無神論者にとっては、悪業が許される?
一方、ドミートリイは、言葉の端だけを切り取って、
「ちょっと」
意外なことにドミートリイが突然大声を出した。
「聞きちがえのないように念を押しておきたいのですが、『あらゆる無神論者』にとっては、悪業が許されるばかりか、彼が置かれた状況からの必要不可欠にしてもっとも賢明な活路と認めなければならない!』 こうなのですね?」
要は、あらゆる無神論者にとっては、悪業が許されるばかりか、切羽詰まった状況に置かれたら、自分が生き延びる為に、人を騙し、傷つけても構わない……といった話だ。
神を否定することは、即ち、人間が自らを律する規範を失うことでもある。
その果てに、自分さえよければのエゴイズム、掠奪、支配、獣のような世界が構築されても、何ら不思議はない。
そしてまた、この場面で、ドミートリイがイワンの極論を都合よく解釈するのも、後の悲劇の伏線。
「ああ、この男なら、やるだろうな」と思わせるのが、レトリック。
まあ、多くの読者は、筋書きもドラマツルギー知っているので(特に現代の読者はドラマ慣れしている)、これしきでワクワクしないけども、当時の読者は、「よし、分かった! あいつが犯人だ!」だったのかもしれないね。
さて、こうしたやり取りを間近に見ながら、道化のフョードルはいっそう哀れに「誤解された立場」を訴え、そんな父親の卑劣な態度を見て、息子ドミートリイはいっそう苛立ちを募らせる。
父と息子が、一人の淫売女のことで言い争う痴態をイヤというほど見せつけられ、神父らも眉をひそめる中、ついにドミートリイは『あの一言』を口にする。。
こんな男がなぜ生きてるんだ !(ここだけ原卓也訳)
怒りのためにほとんど前後を忘れたようになって、ドミートリイがうつろな声で呻くように言うと、なにか奇妙なほどの両肩をそびやかせたので、まるで猫背のような格好になった。
「いや、教えてください。こんな男がこのうえ大地を㨡のを、許しておいていいものでしょうか」
「こんな男がなぜ生きているんだ」
これほど破壊力のある台詞も、またとあるまい。
何故なら、彼は自身の悪感情を吐露しただけでなく、父親との関係性も、フョードルの人間としての存在も、一刀のもとにたたき切ったからである。
「嫌いだ」「許せない」ではなく、「なぜ生きているんだ」ですよ、皆さん……。
お赦しくだされ! 何もかもお赦しくだされ! ~ゾシマ長老の祈り
そして、そんな父子の哀れな姿を目にしたゾシマ長老は、信じられないような行動に出る。
しかし、醜悪の極みにまで達したこの一幕は、まったく思いもかけない形で中断された。
長老がふいに席を立ったのである。
長老の身の上を思い、一同のことを思って、恐ろしさにほとんど度を失いかけていたアリョーシャは、それでも、どうにか長老の片手を支えることができた。
長老はドミートリイの方へ向かって歩きだし、そのすぐ前まで行くと、いきなり彼の前にがっくりとひざまずいた。
アリョーシャは、長老が力つきて倒れたのかと思ったが、そうではなかった。
長老はひざまずいたまm、ドミートリイの足もとへ礼式どおりの深々とした叩頭をした。
それは明らかに意識的なもので、その額が床にふれさえしたほどであった。
アリョーシャはすっかり驚いてしまって、長老が立ちあがろうとしたとき、手をかすのも忘れていた。
長老の口もとに弱々しい微笑みがかすかに浮かんだ。
「お赦しくだされ! 何もかもお赦しくだされ!」
客人たちに向かって四方に会釈しながら長老は言った。
ドミートリイは、何秒かのあいだ、雷にでも打たれたように棒立ちになっていた。
――俺の足もとに叩頭するなんて、いったいなんのことだ?
だが、次の瞬間、いきなり「ああ、だめだ!」と一声叫ぶと、両手で顔をおおって、いっさんに外へ走り出た。
これも『カラマーゾフの兄弟』屈指の名場面。
叩頭で思い出すのが、『罪と罰』のラスコーリニコフ。
ソーニャに罪を告白した後、「いますぐ、自分が汚した大地に接吻なさい」と促され、町中で、大地に跪き、深く頭を垂れて、接吻する。
アリョーシャも、にわかに使命に目覚め、大地に接吻する場面があるが、いずれも、人間の限界と神との関係性を思わせる演出であると思う。
現代社会における人間の苦悩について、考えても、考えても、行き着く先などなく、多くの人間は、イワンのように冷笑的な立場を取るか、あるいは極端に善性に走り、おかしな信仰に嵌まるか。
宇宙の『中つ国』に真の救済などなく、せいぜい、徒党を組んで、魔王を倒しに出掛けるのが関の山――というのが、昨今の実情だ。
そんな中でも、真心と知性を失わない人間は、どうしたらこの世の不幸や不条理を乗り越えて行けるのか。
考えに、考え抜いて、ふと、その考えそのものに疲れ果てた時、目の前に移るのは、今ここに生きている我と、我が生きる大地、それが全てである。
そして、その「我」というものも、振り返れば、幾多の命の連なりの一つに過ぎず、多くの人は、傷つき、打ちのめされても、この大地に生き続けてきた。
となると、真に偉大なのは、人間そのものであり、我々が生きる大地でもある。
自分一人ではなく、何千年の昔から、数え切れないほどの先人が、悩み、苦しみ、それでも生き抜いてきたことを思うと、大地にひれ伏すのが自然な感情だろう。
そんなゾシマ長老にとって、ドミートリイも一人の子羊であり、幾多の可能性を秘めた若者でもある。
彼がたった一つ、あることを行う勇気をもてば、物事は変わり、彼自身も救われる。
それが、「お赦しくだされ! 何もかもお赦しくだされ!」だと私は思う。
赦しの対象には、父フョードルのみならず、傍観する人、非難する人、父子の不幸を知っても何もできない人、この場に居合わせた人、すべてが含まれる。
ドミートリイやイワンの苦痛を知っても、代わりにその苦しみを背負ってやることもできない、ゾシマ長老自身もだ。
そして、そうする以外に何が出来るだろう?
こんな時に、高説を説けるのは、恥知らずが、詐欺師ぐらいなものである。
真に誠実な人間であれば、人類の不幸の前にただただ頭を下げるしかなく、その願いが真であればこそ、激昂したドミートリイの心もまた打つのである。
彼は「ああ、だめだ!」と言って逃げ出すが、彼は父親を愛せない自分を、心の底では恥じているのだろう。金の管理もろくにできない、日頃の放蕩も含めて。
この場で繰り広げられる醜態は救いようがないが、実は、当人たちには救いが残されている。
傍観して、非難するだけのミウーソフや、立派な高説を垂れても、結局、ドミートリイの心ひとつ動かすことはできなかった、その他の修道僧や神父に比べたら、正直に苦しみ、正直に恥じ、真に誠実なものに心を動かされずにいないドミートリイなどは、一番に天国の門前に立つべき人間なのだ。魂の復活まであと一歩、という意味で。
P.S
ラスコーリニコフの叩頭で思い出すのが、もう一つ。
ソーニャに老婆殺しの罪を告白した後、ソーニャの美しい心に打たれ、思わず彼女の前に跪いて、接吻する場面だ。
僕はお前に頭を下げたのじゃない。僕は人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ。
ゾシマ長老の叩頭には二つの意味がある、ということで。