死なんかこわくない
2月17日(土)このごろ、なんだか何もやる気がしない。土曜日だっていうのに、家へ帰って一日じゅうごろごろ。母に「なんですか、いい年して、そんなにゴロゴロしていたら太っちゃいますよ」。全くそうだ。自分でも覇気がないと思う。高校生で自殺した人たくさんいるけど、そんな人は毎日何を考えていたのだろう。このごろ変なんだ。すぐ死について考えちゃう。
現代は死をおそれることがまるで正常な気持ちであるかのように、それが生を賛美していることであるかのようにいわれているけど、私はいやだ!生を賛美するのはいいが、なぜ死をおそれなければいけないの? なぜ生と死を対立させるの? 生と死は比べられないもの。生の次に死があるだけ。死んでしまったら、それは次の空間にはいったこと。今、私たちが生きている所へは感情を出すことができない空間に・・・・・・。それだけのことだもん。死をおそれたくない。死を特別なものにはしたくない。死なんて、次の世界でしかないのだ。
これは私の日記の一部です。この日のところはこれだけですが、説明をつけ加えますと、「なぜ死をおそれるか」という答えを考えてみると、それは死の世界を知らないからです。そう、死んでいる人は私たちの世界に、その死の状態を知らせてくれないからです。いいえ、知らせているかもしれませんが、ただわからないだけです。二つの空間を結ぶものが何であるかお互いに知らないからです。
(奈良・山口●美子)
生が終われば死も終わる
山口由美子さんは「生と死は比べられない」と書いている。「死は生の次の世界だ」というわけだ。だが、「死は生の次の世界」ではない。死は、生きている人間の中のイメージでしかないのである。
他人の死は「物体」であり「数」である。だけど自分の死はけっして手でさわることはできない。生が終われば、いっしょに死も終わるのである。
淵上毛銭(ふちがみもうせん)が書いている。
未来の長さとは
同じなんだ
死んでごらんよくわかる
(寺山)
【コラム】 死は生きている人間の中のイメージに過ぎない
人は、生きている間、びっくりするほど『死』について考えるものです。
幼い子供でも、ある日突然、生き物は必ず死ぬということに気付き、「ママが死んだらどうしよう」と想像たくましくして、泣きだすこともあります。
思春期になれば、まるでゲームのように自殺について考え、死によって人生をリセットすることに憧れたりします。
中年期になれば、体のあちこちが痛み、死というものがリアルに感じられるようになります。
老人になれば、もう空想ではありません。明日か、明後日か、それは確実にやって来ます。しかし、中年期に恐れるほど、悪いものでもないと考えるようになります。親しい人も死んで、憧れのスターや漫画家もすでに鬼籍です。年々、体力は衰え、見た目もよぼよぼで、これ以上、長生きしても、何も楽しいことなどありません。老いに苦しむ身には、死はむしろやさしい。
そうして、多くの人生は、桜の枝が枯れるように、ひっそりと終わっていくのです。
でも、「死」がどんなものかは、誰にも分かりません。
なぜなら、死んだ人は、それを説明することができないからです。
私たちは、天国の扉の前で、「どんな所かしら」とそわそわしている旅人みたいなものです。
一般には、天国と地獄が知られていますが、本当に存在するのかどうか、証明のしようもないし、生きている人間の頭の中のファンタジーと言えば、その通りですね。悪魔や、幽霊や、死神もです。
言い換えれば、あれこれ想像たくましくしながら、私たちはかなり早い時期から、死ぬための予行練習をしているのかもしれません。
空想の中で、あるいは絶望の中で。
ただ一つ確かなのは、とにかく、皆、いつかは死ぬということ。
それは金持ちにも、貧乏人にも、等しく訪れるということ。
死について、あれこれ思い巡らせる「時間」と「余裕」があるだけ、若く、幸せなのかもしれません。
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